第91話「空の殻」
峠から戻ってからひと月半が過ぎた。
最近は朝の草が露で重い。
浅層と街の仕事を回すうちに、日が屋根を越えるのも遅くなっている。
通りの水売りの声もここ最近は数が少ない。
石畳の照り返しに昼の名残はあっても、朝の風はもう乾いて涼しい。
市の通りは日除けの布が畳まれて、店先の桶に落ち葉がひとつ浮いていた。
ギルドの広間は朝の受注の波の前だ。
掲示板の前に装備の重い連中が数人立っている。
セナが人垣の後ろから背伸びした。
「リク。あれ、戻ってるよ」
真ん中の釘に紙が一枚戻っている。
夏の間は外されていた深層の紙だ。
旧坑の深層の間引きと順路の調べ。
等級の行は変わっていない。
紙は前のものより白い。釘の錆だけが前のままだ。
セナが紙と僕を見比べた。
「水が引き始めたんだ。秋だから」
窓口で四人分の入域札を受け取った。
僕にセナ、ナギとレオの分だ。マルセルたちは今日も街道の巡回に出ている。
ミラさんが日付と刻限を読み上げて控えに判を落とした。
「深層の受付は今日が再開です。お戻りの記入を忘れずにお願いします」
札の裏の戻りの欄に日付を書き入れた。
期限は二日。灯りの油と袋はゆうべのうちに詰めてある。
外にはナギとレオが待っていた。
ナギが帽子のつばを一度上げて東の空を見る。
「ひさしぶりだね、下は」
「体が覚えてるといいけど」
セナが袋の口を締め直して歩き出した。
坑口までの道は穂の乾き始めた草が続いている。
途中で北の猟場の側を過ぎた。
草地には鳥の声が重なって、藪の際で兎が一度跳ねた。
草の匂いが夏より軽い。
虫の声が足の下で途切れながらついてくる。
朝の露が裾を濡らして、乾く頃に石組みが見えてきた。
浅層の溜まりの縁で足を止めた。
水際は発つ前に置いた炭の印より下にある。
印と際の間に乾いた砂の帯が広く戻っていた。
壁の痕も乾いた縁の白い粉が際まで戻っている。
天井の雫を数えると、間は夏の前より開いていた。
匂いは錆が土に勝ち始めている。どの読みも引きの側だ。
ノートの水位の欄を開く。
線は峠へ発つ前で切れている。夏の分は数本きりだ。
白いところはそのままにして、今日の際に合わせた線を引いた。
脇に日付を添える。欄の並びはこれで三つ目の秋に入った。
空いた分を埋める線はもうどこにもない。数えられるのは今日からだ。
横からセナがノートを覗いた。
「引きの下がりは去年より早い?」
「線の幅だけなら去年と同じくらいだよ」
セナが溜まりを覗き込んで、それから奥の暗さへ顔を向けた。
灯りに火が入って先頭にレオが立つ。
僕は口の側で数と線を持ち、セナが糸、ナギは空いた側へ回る。
この四人で入る形は夏の前から変わっていない。
---
深層への柵をくぐった。
順路の乾いた側を辿って、奥へ回る。
連絡坑の低い道は水が退いて通れた。
夏の水の跡が頭よりずっと高いところで壁に色の帯を残している。
段の口の木の柵で足を止めた。
格子の間から手を入れて、内側の掛け金を外す。
横木は手の触れるところだけ艶が増えていた。
開いた分だけ通り柵を戻した。
段の急さも降り切った先の冷えも覚えているとおりだった。
角の石の炭の印だけは、水をかぶって薄れていた。
灯りの輪の外で壁の湿りが黒く光った。
音だけが違った。
立ち止まって耳を澄ます。
石を掻く音も、殻の縁が床を擦る音もない。
灯りの芯の鳴りが聞こえるくらいだった。
満ちの夏を挟んだ開けは数が増えて戻ると聞いていた。
去年初めて降りた頃は、降りる途中から石を掻く音が上がってきた。
今日は自分たちの足音が返ってくるだけだ。
セナが最初の角に糸を掛けた。
乾いた側の岩の角へ渡し、指先を添えたまま待つ。
待つ間に僕は歩数を数え直した。頭数の欄に書く相手が来ない。
糸は鳴らなかった。
「……静かすぎるよ」
セナの声が先に出た。
「初めて降りた日は角を曲がる前に二つ来たけど、今日はまだ影も見てない」
「増えて戻ってる頃合いのはずなんだがな」
レオが灯りを低くして順路の奥へ向けた。
奥から返るのは水音の残りだけで、それも行きより細い。
歩数を数えながら図の線と突き合わせて進む。
壁も分かれも図のとおりで、足だけが軽い。
最初の殻は順路の半分を過ぎてから出た。
影の側から間合いを詰めてくるのを、セナの糸が根元でまとめる。
僕は継ぎ目に短剣を入れた。手応えはいつもと変わらない。
殻の割れる音が久しぶりに順路の奥へ転がっていった。
殻はひと回り大きかった。夏を越した分だけ育っている。
剥いだ石にも厚みがあった。仕切りへ落とすと重い音がする。
二つ目は糸を嫌って低く回り、ナギの刃が先に合わせ目を止めた。
三つ目は僕の方へ来た。継ぎ目を仕舞って石を剥ぐ。
どちらも持ち場の内で終わって、それきり石を掻く音は途切れた。
ナギが灯りの外へ半歩出て、戻ってくる。
「奥も静かだよ。風の音しかしない」
岩陰を回った先でレオの灯りが動かなくなった。
「見ろ」
岩の根に殻だけが転がっていた。
継ぎ目が開いて、身は残っていない。
背の側に魔石の育つ場所だけが窪んで残っている。
窪みの縁は乾いていた。割れた断面がうっすらと粉を吹いている。
レオが殻のひとつを裏返した。
「乾き切ってる。今日や昨日の割れ方じゃない」
この段も夏の間は水の下にあったはずだ。
割れたのは、水が引いてからということになる。
奥へ進むほど空の殻は数を増やした。
岩陰ごとにひとつ、ふたつと転がっている。
どれも継ぎ目が開いて、窪みの底に石がない。
灯りを回すたび、暗がりの低いところで乾いた殻が鈍く照り返した。
生きた殻なら背の石が濁って見える。転がった殻はどれも素通しの影だ。
順路の脇にも分かれの口にも転がっている。
数える足が何度も止まった。
ナギが自分の灯りを反対の壁へ寄せた。
「ボクの側にも転がってるよ。数えておくかい」
「お願い。窪みのあるやつだけでいい」
数は声に出して数えた。
十を越えたあたりでセナが数え直しを頼んできて、二度数えても変わらない。
灯りの届く範囲で合わせて17。
どの窪みも乾きの進みに差がなかった。
ひとつだけ、窪みに薄い欠片の残っている殻があった。
育ちかけの石の欠片だ。灯りに透かすと縁が欠けている。
欠片は布に包んで袋へ入れた。
セナがその殻の前にしゃがみ、指を伸ばした。
「開き方が揃ってる。石のところだけ、どれも空なんだ」
窪みの形は僕の袋の中の石と同じ丸みをしている。
セナはしばらく動かず、それから僕を見た。
「リク、去年の数って残ってるよね」
僕はノートを出して下の段のページを繰った。
去年初めて降りた頃の行がある。
初日の欄に14。次の行に11。頭数はしばらく二桁で続いている。
下りた日ごとに、減るのは間引いた分だけだった。
下がった先の9が、それからの冬の並びになっている。
今日の欄に3と書いた。
その下に行を分けて、空の殻の数を書く。跡17。
書きながら数字を見比べる。
減り方の形が去年と違う。
間引いた覚えのない分まで減っている。
ページを繰る手が、脈の側のページで一度止まった。
井戸の行の横に丸がある。帰りの野営で付けた印だ。
水は読みのとおりに引いた。
雫の間も壁の匂いも引きの側を向いている。
溜まりの線も欄のとおりに下がった。
読みはどれも合っている。
合わないのは、この段の頭数だけだ。
炭の先が紙の上で止まった。
(……今度は、中が空いてる)
灯りを持ち上げると、油の重さがまだ手に残った。
それでも今日はこの先へ入る用はなかった。
「測りの分だけ締めて戻ろう。数はもう変わらない」
順路の測りは決めた分だけ済ませた。
分かれの口の幅と角の向きを図に落とす。線は今日も少しだけ伸びた。
伸びた線の先にも空の殻は転がっていた。
レオが頷いて灯りの向きを戻す。
セナが角の糸を消した。手を下ろすのがいつもより遅い。
帰りの順路で、空の殻が灯りの端を順に過ぎていった。
段を上がる間は誰も口を開かない。
セナが上がり口で一度だけ下を振り返った。
灯りの外の暗さは、来た時と変わらない濃さで段の下に溜まっている。
段の口の柵を戻し、連絡坑を抜けて深層の柵をくぐった。
浅層へ出ると、溜まりの水音が耳に戻ってきた。
---
戻りのギルドは夕方の手前で広間が空いていた。
買取の台に袋を空ける。石は三つで台の上が広い。
職員は秤に載せて短く値を告げた。
秤の皿は石の少なさの分だけ高く止まっている。
「開け早々にしては軽いな」
「数が出ませんでした」
職員はそれ以上聞かずに値の控えを切った。
袋は軽いまま戻ってきて、書き込みの行も一行で済んだ。
台帳の棚には旧坑の古い実測図が保管されている。
古い図なら台の上で見せてもらえると聞いていた。
番の職員に断りを入れて、台の端で広げさせてもらう。
紙は端が飴色で、折り目に沿って毛羽が立っていた。
押さえて開くと乾いた紙の匂いが立つ。
継ぎ足しの跡が二箇所ある。図は一度で描かれたものではない。
僕が足した線の写しも端に入っていた。炭の線が清書で細くなっている。
自分の図と突き合わせるためだ。
数える場所を取り違えていないか、順路に見落としがないか。
枝道の数も下り口の位置も、僕の線と食い違いはなかった。
数え間違いの方は消えた。
たたむ前に図の隅に目が引っかかった。
余白に小さな測り書きが残っている。
数字が細い列で並び、五つごとに間が空けてあった。
行の頭は揃い、線の端はどれも小さく閉じてある。
測り書きの行は長い。図の余白を上から下まで使っている。
書いた順に上から詰めてあって、消した跡がひとつもない。
坑の図に残る薄れた古い線と同じ癖だった。
(……几帳面な誰かだ)
日付はない。名前もない。
測った場所の名もなく、数字の列だけが隅に収まっている。
しばらく見てから図をたたんで、棚の職員へ返した。
その足でミラさんの窓口へ回った。
ノートを開いて、去年の行と今日の行を並べて見せる。
包みの欠片も台の端に置いた。
「深層の下の段で、頭数が去年の引きの頃と合いません。
中の空いた殻が、数えた範囲で17残っています」
「場所は、柵の先を下りた段で間違いありませんか」
「はい。そこから奥へは降りていません」
ミラさんは手を止めずに数字を写した。
頭数の行、跡の行、欠片の一つ。写し終えてから一度だけ読み合わせる。
「記録として上げておきます」
判が控えに落ちる。
「続きの数字が出ましたら、この綴りに足します。またお持ちください」
綴りが閉じて棚へ戻っていった。
窓口の奥で綴りの背に紐が掛かる。掛け方は他の綴りと変わらなかった。
その脇では次の誰かが依頼の控えを出している。
広間を出ると日は坂の上にまだ残っていた。
セナが階段の下で待っていて、僕の顔を見てから何も聞かずに歩き出した。
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夜、宿の机にノートを開いた。
机の端に炭を置いて、下の段のページを出す。
去年の行は数字が詰まっている。頭数の欄に14、11、9。
剥いだ石の値も横に並ぶ。行の間隔が狭い。
書くことが多かった頃の詰め方だ。めくる時に指が厚みを覚えている。
今日の行は短い。
頭数の欄に3。次の行に跡17。石の値は一行で終わっている。
水位の欄も開いた。今日の線は一本きりで、夏の白さの下に付いている。
五日経ったら次の線を引く。そこは今までどおりだ。
ページを戻す時、紙の反りが手のひらに引っかかった。
去年の行に指を挟んで、今日の行を上に開いた。
紙の厚みは去年の側だけが増えている。
跡17の数字を指の腹でなぞった。
炭がわずかに擦れて指先が黒くなる。
布で拭ってから、ノートは開いたまま伏せた。
灯りはそのままにしておく。
跡の17が、次の入りでどこまで増えるのかは分からない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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