第92話「先客」
空の殻を数えた入りから二日後、また坑口へ来た。
今日はエマとユルが加わり六人になった。
ミラさんの綴りに上げた数字の先を確かめる。
マルセルだけは街道の仕事で外れた。
六人分の入域札は朝のうちに受けてある。
朝のギルドは掲示替えの前で、深層の紙はまだ釘に残っていた。
坑口までの道は露が早く引いた。
風はもう夏の名残を持っていない。
道の途中でエマは何度か足元を見た。
見ているのは道でなく、道の脇の草の倒れ方だ。
ユルの荷は小さい。上りの多い道でも歩幅が変わらない。
「リク、今日は長い入りになりますか?」
「はい。順路の先を測る分だけ長くなります」
「では、水を多めに分けておきましょう」
歩きながら、セナがエマへ下の様子を先に話した。
「下は音がないんだよ。灯りの芯が鳴るのが聞こえるくらい」
「ほう。そりゃ楽しみだね」
坑口の石組みが見える頃には、露はもう裾に残っていなかった。
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浅層の溜まりを確認する。水際の線は二日前と変わっていなかった。
灯りに火を入れてレオが先頭に立つ。
僕が数と線を持ち、セナとナギが左右、エマとユルは真ん中だ。
深層への柵をくぐり、連絡坑を抜けて木の柵を開けた。
掛け金の位置も横木の艶も変わっていない。
開けた分だけ通って柵を戻す。
段を下った後の静けさは、前回の入りから変わらない。
エマが灯りを耳の側へ寄せ、芯の音を確かめてから下ろした。
二日前に見た空の殻も転がったままだ。
先日数えた17の殻を順路の脇に確かめながら、引き返した所まで進んだ。
「ここから先だね」
セナが奥の暗さへ灯りを向けた。
僕の図の線もここで切れている。
ここから先は測りながら歩く番だ。
先の順路にも空の殻は続いていた。
岩陰ごとに転がって、どの窪みにも石がない。
数は戻ってから足すことに決めて、位置だけを図に取っていく。
歩数を数え、分かれの口の幅を測り、線を先へ伸ばした。
測る度に列は止まり、止まった間はエマが暗さの側を向く。
役の分け方は誰も口にしないまま決まっていった。
生きた殻には一度も会わない。
ナギが時々灯りの外へ回っては戻ってくる。
「影もないよ。こんなに歩いて一度も出ないのは初めてだね」
エマが歩きながら壁と床へ交互に灯りを振った。
「殻がこれだけ転がってるのに匂いが薄いね。血の匂いってのは残るもんだよ」
道が緩い下りに折れて、肩の高さほどの段差に出た。
段差の風は下から上へ抜けて、灯りの火が僕らの顔の側へ倒れる。
レオの灯りがそこで止まった。
「おい」
段差の縁に木の枠が組んであった。
真ん中に滑車が一基据えられている。
段の下から荷を引き上げるための台だ。
縄は外してある。車の溝が黒く光っていた。
軸の近くに鼻を寄せると脂の匂いがする。錆の匂いより新しい。
灯りを近づけると脂は濡れたように照って乾き切っていない。
木の切り口はまだ白い。切って間のない跡だ。
枠の足は楔で岩に留めてある。楔には打ち直した跡が重なっていた。
根元に縄の毛が一筋だけ絡んで残っていた。
レオが手で押しても枠はきしまない。
「据えたのは昨日今日じゃないな。楔の頭が触られて丸く光ってる」
ユルが枠の足元を覗き込む。
「組んだのはこの場でですね。担いで下ろせる寸法の木ですよ」
ユルの指が横木の継ぎ目をなぞり、そこで止まった。
継ぎ目は縄を巻いて締めた形に窪んでいる。
その底だけ、木肌が艶を持っていた。
セナが枠の反対側へ回った。
灯りを低く持ち、段の上の床を端から端まで照らしていく。
「段の上だけ床が固いよ」
同じ場所に何度も立った固さだ。
床は枠の手前で二歩分ほど平らだった。
細かい石が押し込まれて浮いていない。
セナがしゃがんで、段の縁の石に触れないまま指でなぞった。
「擦れは上へ向いてる。荷は下から上。……運んだ向きは私たちが来た方」
石は角が落ちて、擦り傷が下から上へ細く走っていた。
下ろす荷なら、傷は逆の向きに残る。
来た方には順路があり、連絡坑があり、柵がある。
僕は段差の高さと枠の幅を測って図に落とした。
枠の幅は僕の肩より広い。
材料を一本ずつ下ろして組むなら往復の数だけ手が要る。
書き込みの欄に迷ってから、新しい行を作って、滑車、と書いた。
いつもの欄からは外れた行だ。
運び出された石の数なら、空の窪みの数と同じはずだ。
今日の分はまだノートに載っていない。
段差の下へ順に降りる。
降りた先の床は乾いていた。
岩陰に空の殻がいくつか転がって、窪みに石は残っていない。
位置だけ図に足した。
壁際に平らな一角があった。
床の色がそこだけ違う。
周りより黒い土が円く均してある。
ユルがその縁で足を止めた。
「掘り返した土ですね。踏むと沈み方が違います」
エマが前へ出て、円の前にしゃがんだ。
円の縁の土を指の先で少しだけ崩す。
黒いのは表だけで、下から灰が出てくる。
灰をひとつまみ、指の腹で潰して鼻へ寄せる。
「燃え切る前に土を掛けてるね。灰がまだ粒で残ってる」
灰を落として、指を払った。
「はじめは獣が掻いたかと思ったよ。冬ごもりの前は土を掘って寝るからね。
けど掻いた跡なら爪の筋が残る。ここは筋がない。均したのは手だよ」
エマの目はもう円の外の壁際へ動いていた。
立ち上がらないまま、エマは灯りを低くするよう手で示した。
壁際にこぶし大の石が列を外れて寄せてある。
どけた石の分だけ、床が体の幅に平らだった。
「寝てるよ、ここで。壁を背にして、足は火の側だ」
エマは天井へも灯りを一度向けた。
「頭の上に張り出しがある。雫の落ちない場所を選んでるね」
「一晩ですか」
「これだけ灰が溜まってるんだ。何晩も焚いてるよ」
ユルが円の脇に膝をつき、灰の残りへ手をかざした。
「土の下まで冷えていますね。消えてからしばらく経っています」
エマは灰の中ほどを浅く崩して、すぐ手を止めた。
「骨も出ない。食った物の始末まで持って出てるよ」
僕はノートを開いたまま、書く欄を探せずにいた。
頭数の欄も跡の欄も違う。
「数えられません。これは」
「数える物じゃないからね」
エマが灰の円を顎で指した。
「あんたの読みは数と順路だろう。魔物はそれで足りる。
寝床と火は癖で見るんだよ。矢の刺さり方で射った奴の肩の高さが分かるのと同じさ」
石のどけ方も、頭の向きも、この誰かの手が選んだ形のまま残っている。
灰の円の縁は指の跡ひとつ分の乱れもなく揃っていた。
僕は自分の指を見た。
炭を持つ時の握りにも、たぶん同じものがある。
ナギが少し離れた所から灰の円と順路の奥を見比べた。
「水が引いてから、札が戻るまでの間ってことになるね」
言ってから、ナギはそれ以上を続けなかった。
レオが灯りを一度だけ奥へ向けて戻した。
返ってくるのは水音の残りだけだ。
僕は新しい行に、火の跡、と書いた。
数字のない行が今日はもうふたつ目になる。
測りは決めた分だけで切り上げた。
滑車の場所、段差の高さ、火の円の位置。図に足す線は短い。
「戻ろう。この先は、ギルドに上げてからだ」
レオが頷いて灯りの油を確かめた。
油の残りを分け直して、帰りの灯りをひとつ減らす。
来た道は図にある。測りながら歩く用は帰りにはない。
引き返しの支度の間、ユルが腰の小袋を開けた。
薬袋の口をひとつずつ確かめて、結び直していく。
乾いた薬草の匂いが灯りの熱に乗って短く届いた。
母さんの薬も、乾くとこの匂いになる。
袋が閉じると匂いは消えて、坑の土の匂いに戻った。
僕はノートの新しい行を読み返した。
滑車。火の跡。数字のない行は読み返しても長さが変わらない。
セナが段差の上でもう一度だけ滑車を見下ろした。
何も言わずに列へ戻る。
上がりの段で息が浅くなる。
二日前より足が重い。伸びた道の長さの分だ。
段の口の柵を戻し、連絡坑を抜けて、深層への柵をくぐった。
浅層に出ると溜まりの水音が耳に戻ってくる。
坑口の外の光は昼を大きく過ぎていた。
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ギルドの広間は夕方の波の手前で空いている。
今日は買取の台には寄らなかった。
袋には石がひとつも入っていない。
ミラさんの窓口に図とノートを並べて置く。
「先日の綴りの続きです。柵の先の下の段の奥に搬出の滑車が一基。
それと、埋め直された焚き火の跡が一箇所ありました」
「拝見します」
ミラさんは綴りを開いて、僕の言った順に写していった。
滑車の行と火の跡の行。写し終えてから一度だけ読み合わせる。
「物は動かしていませんね?」
「動かしていません。位置を図に取っただけです」
「承りました」
判が控えに落ちる。
写しの手つきは買取の控えを切る時と変わらなかった。
ミラさんは綴りを閉じないまま席を立った。
窓口の奥で年かさの職員と短いやり取りがある。
職員は綴りを受け取り、繰る手を二度だけ止めた。
戻ってきたミラさんが向き直る。
「本日付で深層の下の段は封鎖となります。下の段までの札は出しません。
あわせて見回りの警戒依頼を立てます。掲示は明朝からです」
「警戒依頼というのは」
「決めた間で坑口と柵を回り、変わりの有無を記録して上げる依頼です。
受け手の割りは追ってお知らせします」
ミラさんが新しい紙に等級と期日を書き入れていく。
僕の図から写された線が依頼の紙の隅に小さく入った。
二日前は僕のノートの中にしかなかった線だ。
今は判の横に並んで、明日には掲示の釘に掛かる。
広間の掲示板では深層の紙がまだ真ん中の釘に掛かっていた。
明日にはあの釘から外れる側の紙だ。
外へ出るとエマが階段の脇で壁にもたれていた。
「札は止まったかい」
「明日から封鎖だそうです」
「ふうん。紙は足が早いね」
エマが壁から背を離して、並んで坂を下った。
明日の紙のことは、まだ僕らと窓口の中にしかない。
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夜、宿の部屋で袋の中身を空にした。
炭と巻いた図を壁際へ寄せて、袋は畳んで上に置く。
掌にはまだ、段の口の掛け金の冷たさが残っている気がした。
鉄の細さも、外す時に指へ掛かった重さも、まだ手の中にある。
坑の中で手を触れたのは、深層の柵と掛け金だけだった。
滑車の溝も寝床の平らも、誰の手も入れないまま置いてきた。
触らずに帰ってきた物の方が掌には重く残っている。
階下の広間からは低い話し声が上がってくる。
今日の話は聞こえてこない。
まだ誰の口の形にもなっていない話だ。
寝台に入る前にノートを開き、下の段のページをめくった。
頭数の欄の3はあの日から動いていない。
跡の行には、帰ってから今日の分を足した。
数だけが増えて読み方は増えない。
その下に数字のない行が二行。
炭で書いた字は乾いた灰と似た色をしている。
下の段ではもう誰の灯りも動いていない。
段の口の柵は僕らが最後に閉めた形のまま朝を待っている。
埋め直された火の上に坑の湿りが音もなく下りていく。
石をどけた寝床の平らも、灰の円の縁も同じ速さで覆われていく。
先に居た誰かは、あの暗さの中で火を細くして眠っていた。
灰に土を掛けて、湿りの戻る前に出ていった。
残っていたのは居なくなった後の形だけだ。
灯りを消すと窓の外の虫の声が一段近くなった。
声の途切れる間に、耳は勝手に石の音を探している。
探しても、あの静けさの底に音はない。
先客は音まで埋めて出ていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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