第93話「接触」
朝のギルドで見回りの札を受けた。
五日に一度の警戒依頼は今日で五度目になる。
下の段が封鎖になった日に立った依頼で、最初から僕たちが指名されている。
坑の中を順に見て、変わりがあるかないかだけを書く。
札の木は手擦れで角が丸くなっている。
広間はまだ人が薄い。
窓口で判の落ちる音だけが遠くに聞こえた。
滑車と火の跡を綴りに上げてから二十日余りが過ぎた。
控えの欄には「変わりなし」が四つ並んでいる。
写しの字は自分の手で書いたもので、並んだ形まで覚えている。
レオは別件の依頼で今日は外れている。
よそのパーティの臨時を頼まれたそうで、こういう日が月に何度かある。
残りの六人で坑口までの道を歩いた。
道の草は穂の先まで乾き、朝の風が仲秋の冷えを運んでくる。
露はもう草の根元にしか残っておらず、踏むたびに乾いた穂が鳴っている。
見回りの間に僕の歳は18になった。
祝いはないまま日付だけが過ぎている。
息はまだ白くならない。
それでも袖口から入る風が肌の温みを少しずつ持っていく。
セナが荷を背負い直しながら言った。
「歩く道は同じなのに、見るところだけ増えたね」
「増えた分だけ、違いには気づけるよ」
セナは笑って歩き出した。
荷の中で水筒が小さく鳴っている。
道の途中でエマが一度だけ足を止めた。
道の端の土を爪先で軽く払って、すぐ列へ戻る。
坑口の石組みの前で列を止めた。
入り口前の掲示は前と変わらないままだ。
浅層の溜まりの水際も、ノートの線と同じ高さで止まっていた。
石組みの奥から出てくる空気は外より重くて冷たい。
首の後ろがひとつ縮んだ。
見る場所は決めてある。
坑口、深層への柵、連絡坑、段の口の柵。
最後の段の口は下の段へ下りる場所で、封鎖の日から誰も通っていない。
ノートには回る場所の並びで欄を作ってある。
書く手が迷わないよう、前もって引いておいた。
マルセルが灯りへ火を移して、先に立った。
記録を持つ僕は列の真ん中に入った。
ナギが左、エマとユルが右に付き、しんがりはセナだ。
灯りの匂いが先に鼻へ来る。
火の輪の外は昼でも暗さのままだ。
四度の見回りで書くことは一度も増えなかった。
今日も同じ言葉を書いて上がるはずだ。
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深層への柵は変わっていなかった。
柵の下の土に新しい踏み跡はない。
乾いて残っているのは前の回の僕らの跡だけだ。
柵をくぐり、水気のない側を辿る。
坑内は音の返りが近い。
自分の足音が半歩遅れて壁から戻ってくる。
灯りの油の匂いが動かない空気の中に溜まっていった。
連絡坑の低い道へ入る。
夏の水の帯が壁の高いところに残っている。
帯の下の石は白く乾いて、水の匂いはもう薄い。
道が段の口へ折れる手前で、マルセルの足が止まった。
列の足が順に止まる。誰も声を出さない。
灯りの火だけが小さく揺れ続けていた。
先の暗さに灯りがある。
僕らのものではない小さい火が段の口の側で揺れていた。
木の擦れる音が届く。
段の口の柵が、内側から開いた音だ。
火が三つになった。
人の形が三つ、柵をくぐってこちらの高さへ上がってくる。
火の間の距離が揃っている。
歩幅を守って並びが動き、先頭の間合いに合わせて後ろが続く。
先頭の一人が僕らの灯りに気づいて止まった。
後ろの二人が声もなく左右へ分かれる。
慌てる素振りはない。
火はどれも小さい。
手元だけを照らして、遠くへ光を撒かない持ち方だ。
魔物ならここで次が読める。
詰めるのか退くのか、体の向きと足の置き方に出る。
三人は違った。
真ん中の男の目が、僕らの並びを端から端まで数えている。
数え終えてから自分の背と段の口の間合いを半歩で測り直した。
その半歩に無駄がない。
体が場所を覚えている動きで、初めて来た者の足運びではない。
(……読んでいる)
左に開いた男の外套の胸元に、留めの紐が見えた。
横に倒して端を挟む結び方だ。端が短く切り詰めてある。
三人の得物は短い。
腰の刃物に手を掛けたまま、誰も抜いていない。
指の置き場所まで静かで、柄を握る手には力の膨らみが見えない。
外へ抜ける連絡坑は僕らの背の側にある。
出口への道の線上に僕らが立っている形だ。
背中の側から溜まりの水音がかすかに届く。
マルセルが半歩前へ出た。大ぶりの剣はまだ鞘の中だ。
「そこで止まれ、お前ら札を取ってないだろう。話は上でしてもらう」
声が坑の壁に低く残った。
返りの短い場所だ。声はすぐ石に吸われて消えた。
真ん中の男は答えない。
代わりに右手の指が二本立って、小さく左右へ振れた。
それが合図だった。
三人が一度に動いた。
真ん中の男が自分の灯りをマルセルへ投げる。
投げられた火が弧を描いて、影が壁の上で大きく回った。
「ユル、前へ出てください」
「はい」
杖が上がって、列の前へ淡い障壁が薄く開いた。
火が障壁に当たって落ちた。油が石の上で短く燃える。
障壁の光が床の油に映った。
焦げた油の匂いが喉の奥まで届く。
熱の膜が頬を一度だけ撫でた。
燃える火で相手の姿が浮いた。
右の男が壁沿いを低く抜けようとしている。
「エマ、右の足を止めて」
弦の音が短く鳴った。
矢が男の爪先の前で石を割り、足が跳ねて止まる。
外す場所まで決めて射た一本だ。
「そこまでだよ。次はあんたの膝だ」
エマの二の矢はもう弦の上にあった。
構えたまま息も乱れていない。
左の男が燃える油をまたいで速かった。
刃を抜いて、低く走ってくる。
踏み込みの音が浅い。体の重さを前にだけ使う走り方だ。
足裏で石の冷たさを確かめる。
息を短く吸って、置き場所を決めた。
僕は自分の灯りを右手の岩の上へ置いた。
左の壁沿いに暗い筋が一本通る。
速さで抜けるなら誰でもそこを選ぶ。
灯りを離した分だけ僕の周りも暗い。それでいい。
「ナギ、左をお願い」
「まかせて」
ナギの体が暗い筋へ滑り込んだ。
足音がない。石の上を選んで踏む速さだった。
筋の上で二つの速さが交差する。
先に音が来た。
刃と刃の噛む高い音が一度、壁に跳ねて散る。
一の太刀が男の胸元を掠め、外套の留め紐が切れて飛んだ。
返しの二の太刀が刃を持つ手首を剣の腹で打つ。
打たれた手が跳ねて開いた。指が刃を追う前に体の方が下がる。
刃が石の上へ落ちた。
乾いた音が壁に当たって返ってくる。
男は刃を拾わずに壁まで退がり、腰の小刀へ手を替える。
ナギはその間合いの外に立ち、追いはしなかった。
男の息が初めて乱れた。
肩の上下が灯りの端でも分かる。
真ん中の男はマルセルと当たっていた。
大ぶりの剣が男の刃を受けて、そのまま押し返す。
押された分だけ男の踵が滑る。
その先で止まる位置は正確だった。
受けるマルセルの息は深いままだ。
受けるたびに重い音が床へ落ちる。
石の粉の匂いが薄く立った。
男は二歩で足場を変えた。踏み込んではこない。
石の上での足の替え方が速い。
受けては下がり、緩めると半歩戻る。
崩れない深さだけで受けて、仲間の道が開くのを待つ足だ。
剣の合わさる音の間隔が少しずつ開いていく。
男が呼吸を整え直している。
(時間を計られているのか)
男の爪先が燃え残りの油を蹴った。
火が散って消えて、こちら側の足元が一段暗くなる。
焦げた匂いだけが暗さの中に残った。
エマの弦が鳴った。
矢は右の男の膝の外を抜ける。
暗さで狙いの先が消えている。
灯りの置き場所まで読んでくる。
けれど暗さは向こうの足元にも同じだけある。
違うのは、その暗さをこちらが先に作ったことだ。
暗い筋の先に何があるかは、置いた側だけが知っている。
暗くなった足元を右の男が蹴って出た。
矢の間を割って、外へ出る側へ体ごと突っ込んでくる。
速い。息を吸う間に距離が半分になる。
セナはしんがりのまま動いていない。
杖を持つ手はそのままに、指先だけが男へ向いていた。
指先から光の糸が走った。
男の足首に絡んで、走る形のまま石の上へ倒す。
倒れる音より先に糸が締まり、男の手が床を打つ。
「外へは行かせないよ」
セナの声は低かった。
糸は消えない。男の足首で光ったままだ。
男が転がって暴れるが、光の太さは変わらなかった。
石の上で外套の擦れる音だけが続く。
三人の形が初めて崩れた。
一人は壁際、一人は床、一人はマルセルの前。
外へ出る道はどこからも遠くなっている。
僕は段の口の柵へ目をやった。
開いたままの柵の奥で、段の下の暗さが口を開けている。
そこだけは最初から塞いでいない。
「マルセル、そのまま押してください」
「おう」
大ぶりの剣がひと振りごとに男の足場を削っていく。
男の背が柵の側へ寄った。
剣の風が灯りの火を煽り、壁の影が伸びては縮む。
追う剣は速くない。
下がる先をひとつずつ潰していく。
壁際の男は小刀を構えたまま動けない。
ナギの速さは目で追えても体が追いつかない。
小刀の先だけが小さく揺れていた。
真ん中の男が初めて口を開いた。
「引け」
短い声だった。僕らにではなく、仲間へ向けた声だ。
低い音は壁を伝って足の裏まで届いた。
壁際の男が先に柵をくぐって、段を落ちるように下りていく。
真ん中の男は下がりながら、床の仲間と僕を順に見た。
僕はセナへ頷いた。
「消していい」
足首の光が消えた。
床の男が跳ね起きて、そのまま柵へ走る。
走り方に迷いがない。下りる段の場所を体が知っている。
最後に残った真ん中の男が柵の前で一度だけ振り返った。
灯りの端で目がもう一度だけ僕らの数を数える。
それから、段の下の暗さへ消えた。
足音が段の下で薄れて、途切れた。
耳の奥で自分の息だけが大きく聞こえた。
手のひらの汗が今になって冷えた。
誰も柵をくぐらない。
札の出ない場所だ。追う足はここで終わる。
灯りを掲げても段の下は最初の一段までしか見えなかった。
マルセルが剣を納めて、息をひとつ吐いた。
吐いた息が灯りの火を大きく倒した。
解いた構えの分だけ肩がひとつ下がる。
「深追いはなしだな」
「はい。ここまでです」
エマが弦を戻して、消えた暗さへ顎をしゃくった。
「暗くなってからは当てられなかったよ。あんな下がり方は見たことがない」
ナギが剣の刃を布で拭って納める。
布を仕舞ってから、僕の方へ顔を向けた。
「殺らなくてよかったのかい?」
一拍おいて答えた。
「線を辿るために」
ナギは短く頷いて、それ以上は聞かなかった。
セナが糸の消えた床を見ている。
何か言いかけて、何も言わずに杖を持ち直した。
段の口の柵を元の形に戻し、掛け金を掛けた。
指で掛け金を持ち上げて下ろす。
同じ重さで同じ音が返った。
横木は乾いていて、指に木の粉が薄く残った。
中に人がいると知りながら閉めるのは初めてだった。
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浅層まで戻って、明るさの残る場所で手当てをした。
水の溜まりの匂いが戻ってくる。
外の光が水面で揺れて、天井に薄い模様を作っていた。
マルセルの前腕に浅い傷が一本。
受け際に刃の先が掠めた痕だ。
ユルが手をかざす。
手のひらの下で淡い光が灯り、傷の縁がゆっくり閉じ始めた。
「浅いですね。今夜のうちに塞がります」
他は擦り傷までで、六人とも欠けていない。
セナが溜まりの水で手を洗っている。
水音が手当ての間だけ続いた。
拾った物を布の上に並べる。
落ちた刃物が一本。
柄に飾りはなく、刃だけが使い込まれて薄い。
刃の背に指を当てると、研ぎ直しの細かい筋が同じ向きで並んでいた。
それと、切れた留め紐だ。
結び目は解けずに残っている。
男の胸元で見たままの形だった。
指でつまむと紐は硬く、同じ形に結ばれ続けた癖があった。
布から土の匂いが薄く立ち、坑の中の匂いをまだ連れている。
エマが柵の手前で見てきた床の話をした。
「靴の跡が浅かったよ。爪先で歩く癖がついてる。音を消す歩き方を体に入れてる連中だ」
話しながら、エマは自分の爪先で床を軽く叩いた。
マルセルが柄の汗を拭いながら短く言う。
「腕は大したことねえ。が、引き方だけは揃えてやがった」
拭う手つきに乱れはない。
それでも柄を見る目は普段より長かった。
ノートを開いた。
新しいページを作って、人数の欄に3と書く。
数字は頭数を書く時と変わらない形で紙に載った。
その下に書ける事を並べた。
灯りを投げて目を奪う手。
一人が受けて二人が退く、決めてある引き方。
仕掛ける前にまずこちらの数と持ち場を数えること。
結び目は言葉にしづらい。
紐を前に置いて、形のまま図に描き写した。
炭の先を何度か滑らせて、ようやく紙の上の形が本物と重なった。
書き終えて読み返す。
魔物の癖を書くのと同じ並びで、人の癖が書けてしまう。
エマが自分の弓の弦を指で弾いた。
「あんたの数え方に、人が入るようになったね」
炭を置いても指の先に線の癖が残っていた。
「変わりなし」が四つ続いた欄の下に今日は長い行が入った。
紐と刃物は別々に布で巻いて、袋の底へ仕舞った。
袋の口を締めると布の下で刃物が硬い音を立てた。
ミラさんの綴りに上げる分だ。
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坑口を出ると、日は西へ傾き始めていた。
草の穂が夕方の風でみんな同じ方へ倒れている。
汗の引いた背中で布が冷たい。
歩くたびに乾いた草の匂いが立った。
帰りの道は口数が少なかった。
先頭のマルセルの歩幅がいつもより広く、誰もそれを追い越さない。
追い払って、誰も欠けなかった。それでも勝った気がしない。
魔物を退けた日はノートの数が減って読みが増えるが、今日は逆だ。
向こうの手元に僕らの読みが増えて帰っていった。
歩きながら柵の前の顔を思い返した。
仕事の途中で数を確かめただけの、静かな顔だ。
西日が正面から差して、目を細めて歩いた。
影は僕らの後ろへ長く伸びている。
夕日が道の先で低くなっていく。
街の屋根はまだ遠い。
あの顔だけが、灯りの色のまま近くに残っている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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