第94話「欄の外」
朝のギルドは開いてすぐの時間だった。
広間の床がまだ濡れている。
拭き掃除の水の跡が薄く残っていた。
掲示の前にも買取の台にもまだ誰も並んでいない。
昨日の今日で、報告は朝一番と決めていた。
マルセルが並んで歩き、包みは僕が持った。
話す順は昨夜のうちに決めてある。
物が先で、考えは後。聞く側の手を止めないようにする。
窓口へ向かい、布に包んだ留め紐と刃物を台の上に置いた。
「昨日の分の報告です。拾った物はこの二つです」
ミラさんは布を開いて、留め紐と刃物を離して台へ置いた。
結び目の形。刃の薄さ。柄に飾りがないこと。
炭の先が紙の上で迷わない。
「お怪我は」
「大したものはねえ。俺の腕に浅いのを受けたが、もう塞がってる」
マルセルが袖をまくって見せた。
腕には傷の痕が細い線になってうっすら残っている。
「承りました。物はお預かりします」
控えの欄に品目が二行増えた。
僕が炭で写した結び目の図も、写しとして綴りに挟まれた。
図を受け取る時、ミラさんが一度手を止めて実物と見比べた。
窓口の台は朝の光で白い。
写しの済んだ刃物が布の上で鈍く光っていた。
写しが終わるのを待って僕はノートを開いた。
昨日のページの端は折ってある。
「もうひとつあります。報告というより考えです」
ミラさんの炭が止まった。
「聞きます」
「ここへ来て最初の冬に、荷を狙われて襲われたことがあります。
捕まった男は、酒場で知らない相手に声を掛けられただけだと言いました。
同じ冬に獣の流れの元を辿った時は、足の跡が慣れた手つきで掃かれていました」
一度切って昨日の欄に指を置いた。
「どちらも、その先へ進まないまま閉じています。
今度の殻の間引きと、埋め直された火。それに昨日の三人の引き方。
別の年の別の場所の仕事に、同じ癖が見えます」
声にすると線の細さが自分でも分かった。
癖が似ている。今言えるのはそれだけだ。
「……手の者が同じだとお考えですか?」
「分かりません。似ているというだけです」
ミラさんは新しい紙を出して、僕の言った順に書き取っていった。
考えの行は事実の行と分けて書かれ、一つの綴りに入った。
「わかりました。記録として上げます」
「お願いします」
「下の段の封鎖は続きます。見回りの依頼もこのままお願いします」
ミラさんが書き終えた紙の端を揃えて、綴りの紐に通した。
炭を置いて、次の紙を手元に引き寄せる。
「次の見回りは四日後ですね」
「はい。同じ受け方でお願いします」
判が落ちて、布の包みは窓口の奥へ運ばれていった。
台の上に残ったのは僕のノートだけだ。
いつの間にか広間にも人が増え始めている。
札を待つ列の声はいつもの朝と変わらなかった。
僕らの昨日はもう綴りの中にある。
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夜になって宿の部屋でノートを開き直した。
窓の外はもう暗い。
昼のうちは物のことを考える時間がなかった。
灯りを卓の端に置く。
写し取った結び目の図が、炭の色のまま残っている。
留め紐そのものはもうミラさんの綴りの側にある。
荷物の紐を一本抜いて、図のとおりに結んでみた。
一度目は形が崩れた。
二度目は端が余った。
三度目で同じ形になった。
できてしまえば難しい結びではない。
片手で解けて、解いた端が手に絡まない。
毎日結ぶ人間が手間を削っていった形だ。
そこから先がない。
毎日物を結ぶ人間はどこの街にもいる。
紐そのものもどこでも売っている革の紐だった。
端の切り口は刃物で一度に落とされている。
布に移った匂いは土と脂で、坑の中の物と区別がつかない。
鼻から入る道もここで途切れる。
刃物の方は指に残った感触で考えた。
研ぎ直しの筋は同じ向きに揃っていた。
同じ人が長く使い、研ぎ続けてきた刃だ。
研ぎの筋を最初に教えてくれたのは父さんだった。
使い込まれた刃ほど持ち主のことをよく喋る。
喋るのは手入れのことだけで、名前は言わない。
魔物なら癖は巣への道になる。
歩き方から寝床が割れて、寝床から数が割れる。
数が割れれば立ち回りまで決められる。
でも、人は違う。
結び目は結び目のままでどこへも続かない。
結んだ紐を卓の真ん中へ置いた。
ノートの前のページでは、殻の数がいつも先へ続いていた。
数えれば増えて、増えた分だけ読めた。
階下の広間から笑い声が上がってくる。
昨日の話だ。声の張りで分かる。
追い払った側の明るい声だった。
昼間は僕もあの中で笑っていた。
灯りの下でノートに戻ると、笑った分だけ卓が静かになる。
図の横に、行き止まり、と書きかけてやめた。
書くほどのことでもない。
行き先が書けないだけだ。
結び目を解いて紐を袋へ戻した。
図だけがページに残った。
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翌日からも仕事はよく回った。
坑に入る日は浅層の順路を回って、石を拾って戻る。
空いていた窪みに石がぽつりぽつりと戻り始めていた。
数はノートの欄で追える。読める増え方だ。
風の冷えた分だけ浅層の生き物は動きが鈍い。
読みどおりに出て、読みどおりに退いた。
坑の中ではナギが先に気配を拾う。
僕が数を出して、セナが糸の置き所を決める。
手が決まっているから口数は要らない。
エマの矢は今日も一本も無駄にならなかった。
ユルの出番がない日はいい日だ。
夜は買取の控えが一枚増えて、ノートの欄がひとつ埋まる。
積み上がる速さが目に見える。
買取の台に並ぶ数もこの秋はずっと落ちていない。
夕方の広間で七人の皿が揃う日が続いている。
朝の風は前より冷たい。
便の日が近づくと、窓口の前に西へ行く包みが増える。
西回りの便の日、朝のうちに窓口へ寄って今月の為替を出した。
銀貨5枚。いつもと同じ叔母さん宛だ。
手紙は昨日の夜に書いてある。
変わりありません、から始まるいつもの長さだ。
仕事が続いていること。皆も変わりないこと。
朝が冷えてきたので体に気をつけること。
最後には次の便でまた書くと入れた。毎月変わらない一行だ。
窓口の前には似たような包みが三つ並んでいた。
どれも西へ行く便を待っている。
窓口の人が判を押して、手紙は為替の控えと重ねて箱に入った。
十日に一度の便で西へ行く。
テルナから先は叔母さんの手が村まで届ける。
着く頃には村の朝はもっと冷えているはずだ。
蓋の閉まる音を聞いてから表へ出た。
通りには朝の荷車が増え始めていた。
昼を過ぎてからジョゼ商会へ寄った。
今日は僕だけで半日を手伝う日だ。
帳場の卓に紙が四つに分けて置いてあった。
若い衆が手前の束を取って奥の台へ向かう。
誰も帳場へ聞きに来ない。
ルカさんに挨拶をしてから、僕は細かいところだけ直した。
荷の名の書き方と束の置き場所をそろえる。
クリスが茶を持って帳場へ来た。
盆を置いてから卓の紙を見ている。
「あの……」
声をかけてきたのはクリスの方だった。
僕が手を止めて顔を上げても、下がらずに立っていた。
「どうしたの?」
「これ、どうやって分けているんですか?」
紙の上を指でなぞって見せた。
クリスは目でそれを追っていた。
「二回に分けると四つになるんだ。待てるかどうかで一回、遅れたら困るかどうかでもう一回」
クリスの目が手前の束から奥の束へ動いた。
「わからない事があればなんでも聞いて」
「あ、ありがとうございます」
クリスはそのまま卓の紙を見ている。
僕は手元の束に目を戻した。
残りの束を片づけ終える頃には、店の中の声が減っていた。
夕方の帰りはルカさんが戸口まで出た。
隣にクリスも並んでいた。
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その夜は広間の卓に七人が揃った。
レオが買取の控えを読み上げて、分け前の数を合わせていく。
数が合うたびにナギが指を一本ずつ折った。
「よし、合った。いい月だよ、今月は」
レオが袋の口を締めた。
ナギが折った指を開いて見せる。
「来月はもっといいよ。寒くなると石の値が上がるからね」
エマが杯を置いて短く笑った。
「気の早いことだね」
笑ってから、エマは弦の手入れの布を畳んだ。
ユルは腰の小袋を開けて、中を並べ替えてから閉じた。
出立の前の晩に見る手つきだ。
セナが杖を引き寄せて、先に明日の話を片づけた。
「明日の札、開いてすぐに受けたい。この頃は昼前に列が伸びるから」
「そうだね。朝のうちに行こう」
「決まりだね。じゃあ私は先に休むね。おやすみ」
セナは言う分だけ言って階段を上がっていった。
エマとユルが続く。
「じゃあボクたちも帰るね。また明日」
ナギが戸口で手を上げて、レオと夜の通りへ出ていった。
戸の閉まる音のあと広間は炉の音だけになった。
卓にはマルセルと僕が残った。
僕は足元の袋を引き寄せた。
今夜のために部屋から持って下りてあった袋だ。
いちばん底から、布に伏せたままの小盾を出す。
カルデグで買ってからずっとそこに入れたままだった。
布を開くと、見たことのない金属の表が灯りを鈍く返した。
中心が浅く盛り上がって、縁に薄く金が回っている。
片手で持ち上げると見た目より軽い。
布の下で三月も眠らせておくには、もったいない出来の物だ。
「マルセル」
「あ?」
「これ、使ってください」
マルセルの目が盾と僕の顔を一往復した。
「これ、どうした?」
「火の街で買いました。職人の試作で、剣を使う人向けだと」
マルセルは眉を寄せたまま手に取った。
盛り上がった中心を指の節で一度叩く。
詰まった短い音がした。中まで密な音だ。
盾の裏を返して、革の帯の縫いを確かめる目になる。
物の良し悪しを見る時の目だ。
裏の帯は二本あって、腕を通すと縁が肘の内側に収まった。
そのまま立って卓の脇で二度短く振る。
留めの金具は鳴らなかった。
灯りの中で縁の金の線だけが回った。
「軽いな」
「小さいですが、良いものを使っているので丈夫だそうです。
坑の中は狭いので、この大きさの方が振りやすいと」
「……ちっ。だったら買った時に言え」
「言うと断られるので」
「うるせえ」
舌打ちの割に、腕から外す手つきは静かだった。
盾は卓の上ではなく、自分の膝の横に立てて置かれた。
置き方に迷いがない。使う物の置き場所だ。
「まあ、もらっとくわ」
マルセルは杯を引き寄せて、残りをゆっくり回している。
僕は空になった袋を畳んで、椅子の脇に置いた。
炉の火が一段低くなって、マルセルが薪を一本足した。
火が戻るまでどちらも話さなかった。
薪の爆ぜる音を二つ数えた。
マルセルは戻った火を見たままだった。
「お前、あの時手は震えたか?」
どの時のことか、聞き返さずとも分かった。
柵の内側で三つの火を数えた時の話だ。
先頭で刃を受けて、押し返したのはマルセルだった。
「震えました」
短い息の音がした。
先を促す音でも、笑う音でもない。
「数える方に気を回していて、途中までは気づきませんでした。
坑を出て汗が引いた頃に指が細かく揺れていました。
しばらく止まりませんでした」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
マルセルは何かを言いかけて、やめた。
代わりに膝の横の盾を指の背で一度だけ弾いた。
マルセルは杯に残った分を空けて立ち上がった。
盾を左手に提げて、階段の方へ歩き出す。
二段目で足を止めず、振り向きもしないで言った。
「死ぬなよ」
「信じています。だから答えました」
階段の上から鼻で短く笑う息が下りてきた。
足音が上の床へ移って、扉が一度だけ鳴った。
炉の前に一人残って、火が沈むのを見届けた。
膝の横にあった盾は、マルセルと一緒に二階へ上がっていった。
杯を二つ流しへ運んで灯りを取る。
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部屋の灯りを細くして、ノートを開いた。
今日の欄には便のことと明日の札のことが書いてある。
書き足すことは残っていない。
炭を持ったまま、坑を出てからのマルセルを順に思い返した。
帰り道、歩幅はいつもより広かった。
汗を拭いたあとも、柄を見る目が長かった。
腕の傷を見せる前に、大したものはないと自分から言った。
どれも一つずつなら何でもない。
並べたのは僕の手の方だ。
この並べ方を魔物で見たなら、迷わず欄に書いている。
欄の外の余白に短い行をひとつ書いた。
少し無理をしていた?
誰のことかは書かなかった。
何の話かも書かなかった。
書けるだけの数がまだない。
書いた行の字はほかの欄の字より薄かった。
炭を置いて、消さずにページを閉じる。
窓の外で通りの灯りがひとつずつ落ちていく。
今日も七人の皿が空いた。
ここへ来て三年でいちばんよく回っている秋だ。
明日も朝一番に札を受ける。
順路を歩いて、数えて、書いて帰る。
浅層の道は目をつぶっても歩けるくらい体に入っている。
それで七人の飯代が出て、西へ送る銀貨も出る。
どこにも欠けはない。
ノートには行き先の書けない図が一枚残っている。
寝台に入って灯りを消した。
窓の四角だけが薄青く残っている。
街の外、草の道の先に坑口があって、その奥に柵がある。
柵の向こうは、下の段が暗いまま置かれている。
閉めたのは僕らで、掛け金の音まで覚えている。
その音は、開ける時も同じ高さで鳴る。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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