閑話⑧「いつもそうする」
部屋に入って、盾を寝台の脇に立てた。
置いてから半歩下がって据わりを見た。
細くした灯りの下でも縁の金は鈍く光る。
悪くねえ置き場所だ。
下の広間はもう静かだ。
炉の火を落とす音が床板越しに一度だけ届いて、それきりになった。
リクはまだ下にいるだろう。
あいつの夜が長いのはいつものことだ。
灯りを卓へ移して椅子を引く。
荷袋の底から油紙の包みを出した。
中は紙の束だ。
去年に書いた分がそのまま入っている。
年にいっぺん、これを書き直す。
決まった日があるわけじゃない。
帳尻の見えた夜にやると決めていて、今年はそれが今夜だった。
実家の帳面がそうだった。
区切りで締めて、古い分は反故にする。
締めない帳面は当てにならない。
書き付けも同じだ。
一年も経てば勘定の合わない行が出てくる。
書き直しを始めた年のことはもう覚えてねえ。
最初の一枚は下手な字だったはずだ。
続けるうちに手間だけが軽くなった。
一枚ずつ開いて目を通した。
装備が替わった。
貸し借りもいくつか動いた。
物の値も上がった。
中身より先に、書いた時の炭の濃さが目につく。
薄いところは急いで書いた行だ。
急いで書くもんじゃねえのにな。
直す所だらけだ。
舌が鳴った。
古い束を脇へ寄せて新しい紙を出す。
紙は昼のうちに買ってあった。
束で買うと店の親父が毎年同じ顔をする。
だから毎年同じ店で買っている。
灯りの油も足してある。
夜中に切れると書き直しの気が削がれる。
そこまで含めて段取りだ。
炭の先を灯りで確かめた。
今夜は少し長くなる。
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書く順は決めてある。
エマ。ユル。ルナ。
長いことこの三人で終いだった。
世話になった順でも、貸しの多い順でもない。
届けやすい順だ。
順を決めておくと迷いが出ない。
迷いながら書く書き付けは行が濁る。
店で仕込まれた癖だ。
書く中身は決まってる。
物の在り処と渡す物、それと頼む事がひとつ。
必要な分だけ書いて封をする。
長い挨拶は要らない。
エマの分とユルの分。
去年の写しを見ながら変わった所だけ差し替えていく。
姐さんの分は頼む事が多い分だけ長くなった。
三枚書いて、指が覚えた通りに封をする。
書きながら順に顔が浮かんだ。
浮かんだ順は届けやすい順と同じだった。
次の紙を出したところで手が一度止まった。
あの家に寄った年から、この下が増えた。
ルカ。クリス。親父。
この三行はまだ手が慣れない。
籍は切ってある。が、それとこれとは別だ。
切った側の都合で、渡す物まで消える道理はない。
店の間口も帳場の位置も昔のままだった。
変わったのは座ってる人間だけだ。
ルカは俺より帳場が板についてた。
門を出る時にあいつへ言った言葉がある。
言った手前ってものがある。
行けない時は物だけでも届くようにしておく。
クリスは妹だ。
俺が家を出た頃は、まだ帳場に手の届かねえ背丈だった。
あの日は向こうが先に口を開いた。
ひと言の返事でも、こっちの帳面には残る。
書く事は少ないが、選ぶのに手間取った。
親父の分がいちばん短い。
短いのにいちばん手間がかかった。
書いては消して、残ったのは店の書き付けみたいな数行だ。
病んだ床の上でも目だけは帳面の目だった。
ああいう目は歳を食っても変わらねえ。
あの人も帳面の人だ。数行で足りる。
書き上げた封を並べて宛名を見直す。
三人だったのが、六人になっている。
帳面なら商いが太くなったという話だ。
悪い並びじゃねえな。
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新しい紙をもう一枚出した。
セナ、と書いた。
その先が出てこねえ。
貸しはない。借りもない。
仕事の分の貸し借りなら、その日のうちに帳尻が合っている。
しんがりを任せて、任せた分の働きが毎度返ってくる。
勘定の合ってる相手の行は、帳面に書く事がないはずだ。
はずだ、で止まってる時点で怪しいもんだがな。
深層でもしんがりの位置は変えなかった。
危ういのを頭ん中で並べる時、あいつを上の方に置いた覚えがねえ。
その理由までは数えたことがなかった。
今夜も先に明日の段取りだけ言って、さっさと上がっていった。
ああいうのは読みやすい。読みやすいのに、行が書けない。
炭を削り直してもう一度紙に向かった。
指は動かなかった。
紙を替えても同じだった。
炭の先が紙に触れて、そこで止まっている。
書く事がないわけじゃない。
載せる場所が違う。
名前の横の白いところが妙に広い。
灯りの芯が一度だけ跳ねた。
舌が鳴った。
名前だけの紙を二つに折って、反故の側へ重ねた。
古い束と一緒に燃える。
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最後に、もう一枚。
リクの分は一行でいい。
長く書くと、あいつは行の数まで数えやがる。
その一行に、今夜いちばん長くかかった。
――お前は、
そこまで書いて、炭が止まる。
盾は良い物だった。
軽くて硬くて、狭い坑の中で振りが利く。
値は聞かなかった。
聞いたら説教が長くなるのはこっちの方だ。
下の広間の顔を思い出す。
盾を受け取る時、買った時に言わなかった理由まで先に用意してやがった。
手が震えたかと聞けば、震えたと即答だ。
どこで気づいて、どれだけ止まらなかったかまで足してくる。
隠しもしないし、盛りもしない。
帳面で言えば、書き値と売り値が同じ男だ。
商いなら答えの早い話になる。
だがあいつの勘定だけは最初から読めた例がねえ。
底のねえ減り方をする数字を、俺は自分で数えて紙にした事がある。
あの続きは、まだどこかで減ってるんだろう。
誰が一番危ういかは、いつも頭の隅で数えてる。
前から順に並べて備えを厚くする。
それが俺の受け持ちで稼業のうちだ。
並べていって、いちばん読めねえ奴が最後に残った。
だから最後の一枚がこいつになる。
書く事は前から決めてあった。
決めた日がいつだったかは思い出せねえ。
義理か貸しか、何の行かは考えねえことにした。
考えて出る答えなら炭はとっくに動いてる。
息をひとつ吐いて、先を書いた。
一行書くのにずいぶん炭を使った。
書き上がった行は店先の値札より短い。
読み返さねえ。
読み返すと直したくなる。
直すような行じゃねえんだ、これは。
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書いた分をまとめて油紙に包み直した。
荷袋の底へ戻して、上から着替えを重ねる。
古い束は明日、竈の火にくべる。
それも決めてあることだ。
書いて、仕舞って、忘れて稼ぐ。
使わないまま年を越したら、また書き直す。
店の棚卸しと同じで、続けてりゃ手間でもなくなる。
その分だけ字は年々揃ってきた。
今年の束がいちばん読みやすい。
読む日が来るかどうかは知らねえ。
来なけりゃ、それがいちばん安く済んだって話になる。
短くなった炭を削って布に巻いた。
卓に残ったのは古い束だけだ。
部屋の空気が炭の匂いから夜の匂いへ戻っていく。
灯りを卓から寝台の脇へ戻した。
立ててある盾の縁が灯りを細く返した。
明日から使う。それでいい。
いつもそうする。
それだけのことだ。




