第95話「札の期限」
宿を出た時の通りはまだ薄暗かった。
冬の入りの朝は音が少ない。
朝のギルドは戸が開いてすぐの時間から様子が違った。
札を待つ列がない。
窓口の奥で職員が二人、一冊の台帳を挟んで立っている。
掲示板の前の常連たちも声を低くしていた。
広間を歩く足音だけが妙に大きい。
ミラさんが僕らに気づいて先に口を開いた。
「昨日の日暮れで、期限を過ぎた札があります」
台帳の行がひとつ、閉じないまま残っている。
入った日付と刻限だけが書かれて、戻りの欄が白い。
「四人のパーティです。一昨日の朝に入りました。札は深層まで。
戻りの記帳がありません」
入域札には帰還の日付と刻限が焼き入れてある。
過ぎれば捜索隊が出て、費用は本人持ちになる。
買取の分から差し引かれ、足りなければ請求が来る。
最初の入域の日に窓口で聞いた決まりだった。
この決まりが動くところを見るのは初めてだ。
「捜索の依頼はどう立ちますか?」
「掲示を出します。ただ、朝のうちに受け手が決まるのが一番です。
昼まで待つと、坑の中の一日がまるごと消えます」
マルセルが台帳を覗き込んで短く言った。
「なら、うちで受ける」
「助かります」
捜索はCランクから受けられる依頼だ。
ミラさんが依頼の紙に等級と期日を書き入れていく。
判の落ちる音がいつもより硬く聞こえた。
紙から顔を上げずにマルセルが二つだけ聞いた。
「灯りの油はどれだけ持って入った」
「受付の記録では二晩ぶんです」
「得物は」
ミラさんが台帳の行を指でたどった。
「短めの剣が二人。槍と弓が一人ずつです」
「前で受ける奴がいねえな。急ぐぞ」
四人の顔は買取の列で見たことがある。
石の袋の口をきっちり縛る人たちだ。
深層で長くやっていると聞いたが、挨拶まではしたことがない。
ミラさんが台帳から四人の名を写して依頼の紙に移した。
名前を知るのはこれが初めてだ。
顔と結びつくまでに一拍かかった。
支度は速かった。
エマが矢の数を確かめ、ユルが腰の小袋を開けて閉じる。
ナギとレオは水と灯りの油を分けて持った。
手当ての布は多めに入れる。捜索の荷は見回りの荷と少し違う。
余分はいつも荷の底に入れてある。
レオが縄を束ねて荷の外へ括った。
支度はいつもの朝の形で進んで、受けた依頼だけが違う。
---
窓口へ戻って僕はミラさんに聞いた。
「どこで稼いでいた人たちか分かれば、捜す場所が絞れます。
この四人の買取の控えを見せてもらえますか」
「捜索の受け手には開示できます。お待ちください」
綴りが台に載った。
値の控えは買取のたびに切られて、月ごとに綴られている。
職員の字で品目と数と値が並び、行の末に判が押してある。
めくると見慣れた形の行が続いていた。
最後の控えは八日前だ。
品目は魔石。数の欄に九とある。
値の欄を見てめくる手が止まった。
買い取られた額が、深層でひと袋を売った日の僕らの値より上だ。
ノートを出して自分の欄と並べる。
深層の石は数が出る。
ひと袋で二十から三十になり、一つずつは軽い。
下の段の石は数が少ない。
そのかわり一つが重く、値が張る。
下の段の石を売ったのは去年の引きの頃だ。
その時の重さも値の幅も、欄にして残してある。
控えの値を数で割ると、その幅のまん中に落ちた。
数が九で値がこれなら、出どころはひとつしか思いつかない。
台帳を前へ戻ってもらった。
八日前の入域も、その前も、この四人の札は深層までだった。
下の段までの札は封鎖の日から一枚も出ていない。
札の出ない場所の石が、控えに載っている。
指が同じ行の上に置かれたままだった。
息を一つ置いて、行の頭からもう一度たどる。
二度目も同じだった。
控えは金の受け渡しのための紙だ。
書かれた数を深さと突き合わせる欄は最初から無い。
突き合わせる帳面があるとすれば、僕のノートだ。
下の段の頭数と石は、三年ぶんの欄で追ってきた。
封鎖は、下の段で見つけた跡を上げた日から続いている。
起点の報告を書いたのは僕だ。
前の依頼と手口が似ている、と窓口で並べて見せたのも同じ日だった。
控えの数字は、その並びと重なる場所を通っていた。
けれど、それで決まるわけではない。
掲示を見落として柵を開けて下りただけでも、この控えはできる。
石の重さは、下りた理由までは教えてくれない。
支度を終えた皆が戸口の方へ動き始めていた。
セナだけが僕の手元を見たまま動かない。
「行く?」
綴りを閉じる手が、その一言で決まった。
「マルセル。少し待ってもらえますか」
「何分だ」
間のない問い返しだった。
「10分」
「5分にしろ」
マルセルは戸口で荷を担ぎ直した。
「期限はもう切れてる。急ぐに越したことはねえ。話なら歩きながらでも聞ける」
急かす声ではない。
数の話をする声だ。
理屈の置き場所はこちらと変わらない。
だから食い下がる代わりに残りの綴りへ手を伸ばした。
5分で確かめたいことは決まっていた。
数が変わり始めた日はいつか。
それが封鎖の日より前なら、話の形はまるで変わる。
今月の綴りを端まで見た。
同じ形の控えがもう一枚ある。
どちらも数は一桁で、値は重い。
一度きりの深入りの形ではない。
分かれ目は封鎖より前の控えだ。
形の始まりが封鎖の前か後かで、数字の意味が変わる。
封鎖からもう二月になる。
綴りを二冊さかのぼらないと、そこまで届かない。
「前の月より古い綴りも見られますか」
「奥の棚です。出すのに少しかかりますが」
「なら今は結構です。戻ってからお願いします」
「棚の場所は控えておきます」
八日前の控えと、その一枚前。
日付と数と値を目で覚えて頭の中で並べる。
写す時間はもうない。
マルセルは戸口の柱に肩を預けて外の通りを見ていた。
日の高さへ一度だけ目を上げて、また通りへ戻す。
五つ数える間だけ目を閉じて、並べた数字を確かめた。
覚え違いはない。
足りないのは始まりの日付だ。
戸口でナギが皆の札を配り始めている。
ここまでだ、と手の方が先に決めた。
ノートの今日の行の端に「後で調べる」と小さく書いた。
炭を仕舞って綴りをミラさんへ返す。
「何か分かりましたか」
「数の合わないところがあります。戻ってから続きを見ます」
「承りました。綴りはこのままにしておきます」
ナギから僕の分の入域札を受け取った。
焼き印の刻限は今日の日暮れだ。
備え付けの炭で、裏の戻りの欄に今日の日付を書いた。
マルセルが戸を押した。
「日暮れの刻限から逆に数えて動く。行くぞ」
---
街の外の草は霜で倒れて、吐く息が白い。
坑口までの道を七人の列で歩いた。
誰も口を開かなかった。
歩く速さはいつもと変わらない。
速く歩けば見落とす。見落とせば戻ってやり直しになる。
石組みの坑口の前でマルセルが止まった。
入り口の脇には封鎖の掲示がまだ釘で留まっている。
紙の端が風で毛羽立って字は読める形で残っていた。
「戻りはこの道だけだ。枝道には入らない。
持ってきた油が半分になったら、どこにいても引き返す」
言いながら替えの油の瓶を荷から出して皆に見せた。
半分がどれだけかを指で示す。
「退く時は俺が言う。言ったら手を止めろ」
見回りと変わらない決め方で、決める声だけがいつもより短い。
並びも見回りのままだ。
先頭にマルセル。記録の僕は真ん中。しんがりはセナ。
坑口の奥から出てくる空気は外より重い。
浅層の順路には見回りの目印がそのまま残っている。
炭の点をひとつずつ確かめながら通り過ぎた。
浅層の溜まりは水際がまた下がっていた。
夏に水を被っていた石が白く乾いて段になっている。
水際は前の計測の線より下にある。
水が下がったぶんだけ、坑口の光は奥まで届く。
明るさの切れる場所が前より深くなっていた。
引きが進むと坑は深くまで開く。
去年の引きの頃より乾いた道が長い。
マルセルの左腕の小盾は、もう構えの中に馴染んでいる。
深層への柵の前でマルセルが灯りを掲げた。
柵の下の土を見てから柵の先の暗さを見る。
土に残っているのは見回りの日の僕らの跡だけだ。
灯りを下げて、マルセルが一拍だけ待った。
「呼ぶ声は俺が出す。耳を空けておけ」
柵をくぐる。灯りの外の暗さには昼も夜もない。
---
深層の道は乾いていた。
壁の高いところに夏の水の帯が残っている。
帯の下の石は白く、水の匂いはもう薄い。
マルセルが間を計って声を出す。
名前ではなく、おうい、と短く伸ばす声だ。
声は石に吸われて返りが浅い。
呼び声の後は決まって足を止める。
返事を待つ間は誰も動かない。
灯りの火の音だけが数えられる。
灯りは二つに分けた。
先頭と真ん中で持ち、壁の窪みを順に照らしていく。
人ひとりが座れる窪みはこの道に幾つもある。
窪みを一つ照らすたび、ユルが覗いて首を振る。
空の窪みばかりが続いた。
歩きながら数えた。
殻の数。窪みの数。道の脇で動く気配の数。
殻はどれも古い。
割り口が乾いて、粉の色まで飛んでいる。
新しい狩りの跡が一つもない。
出てくる魔物は少ない。
浅い窪みの小物が二度、灯りを嫌って引っ込んだだけだ。
ナギが先に気配を拾って、セナの指先が向く前に終わる。
ここまでの頭数は四。
去年の引きの頃の欄なら、この道は倍の数が出る。
水が引くと、生き物は水を追って下へ下りる。
だから上の道は空く。
一度はそれで説明がついた。
四人の痕跡も探した。
灯りの油の垂れ。火を焚いた跡。荷を下ろした擦れ。
食べ残しの欠片。目印の炭の点。
途中、短い休みを一度だけ取った。
水を回して灯りの芯を整える。
腰を下ろす者はいなかった。
レオが替えの灯りに火を移して消えかけた一つと替えた。
手が空くたびに縄の結び目を確かめている。
呼び声の合間も、エマは矢を弦に乗せたまま歩いている。
見回りで通ってきた道だから、目の置き場所は決めてある。
溜まりのあった場所は底まで乾いて、泥にひびが入っている。
ひびの上にも足の形はない。
一昨日の朝に入った四人の跡が、深層の道に見つからない。
エマが屈んで乾いた土を指の先で払った。
「浅層から先、新しい跡がひとつも無いよ」
誰も先を言わなかった。
言えるだけの物が、まだ何も無い。
マルセルが呼び声の間を詰めた。
返るのは火の音と、自分たちの息だけだ。
---
奥へ進むほど、音が減っていった。
途切れながら届いていた水の音がいつからか無い。
動いているのは僕らの足音と灯りの火の音だけだ。
マルセルが手を上げて列を止めた。
灯りを床へ下げて、全員で耳だけになる。
数えるものは何もなかった。
水の滴りも、殻の擦れる音も、風の抜ける音もない。
セナがしんがりから声を落として言った。
「音、消えてない?」
「水が引いてるから」
答えた自分の声が、耳の中で薄かった。
残りの油を数えた。
まだ半分より多い。進める数だ。
戻りの足も測っておく。
ここで返せば刻限には余りが出る。
先へ延ばせるぶんを、油と歩きの速さで数え直した。
連絡坑の低い道を抜けても変わらなかった。
低い天井の下は音の返りが近い場所だ。
今日はその返りまで薄い。
マルセルの呼び声の間隔は変わらない。
返る音の方が一歩ごとに浅くなっていく。
四人の名前を頭の中で並べてみる。
朝に写された字の形しか出てこない。
マルセルが一度だけ振り返って頭数を数えた。
七人。全員いる。
それだけ確かめて、また前を向いた。
水の引いた年の坑は静かなものだ。
その説明を歩きながら何度か置き直した。
置き直すたびに、道は前より静かになっている。
灯りを掲げた。
道の先はまだ深層で、そのまた先に段の口の柵がある。
四人を呼ぶ声が暗さの手前で短く消えた。
音のない方へ、道は続いている。
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