第96話「よくあること」
柵は灯りの先で黒く立っていた。
マルセルが手を上げて列が止まる。
呼び声はもう出さなかった。
返る音のない場所では声だけが減っていく。
掛け金は下りたままだ。
横木の艶も閉めた日に見た形と変わらない。
途切れた水音の代わりに、自分たちの息の音だけがある。
マルセルが灯りを柵の先へ振った。
光は最初の一段までしか届かない。
マルセルが荷を下ろした。
「灯りを整える。水を回せ」
レオが替えの芯へ火を移していく。
その間、マルセルは左腕の小盾の紐を締め直していた。
一度締めて、指を一本入れてもう一度締める。
レオがマルセルの手元を覗いた。
「馴染んだな」
「軽くて硬い。文句はねえ」
誰が買ったかは言わない。
水が一回りする間に言うことを決めた。
「マルセル」
「おう、歩きながらの件だな」
「はい。四人の最後の買取の控えです。数は九なのに、値が深層のひと袋より上でした」
マルセルが水の革袋を口から離した。
灯りの火の音だけが間に挟まる。
「魔石ひとつあたりの値が、下の段での魔石の値に近かったです」
「その値は確かなのか?」
「去年、下の段の魔石を売った時の欄と比べました」
マルセルが親指で顎の無精髭をこすった。
一度だけ上を見て、それから僕へ目を戻す。
「四人が規則を破って深層からさらに下りて行ったってことか」
「記録と照合する限りは。同じような控えがもう一枚あって、どちらも封鎖より後です。
ただ、掲示を見落としただけかもしれないので、故意かどうかは分かりません」
「それが朝の5分で調べたことか」
「はい。古い綴りは奥の棚に送られるので、先月分までしか確認できませんでした」
「分かった。戻ったら続きを確認しておけ」
灯りを持ち直して、柵の先の暗さへ向ける。
「深層に跡がねえ。残ってるのはこの先だけだ」
「札は深層までです」
下の段が封鎖されてから札は一枚も出ていない。
くぐれば規則を破ることになる。
「四人組が入ったのが一昨日の朝、刻限を過ぎたのが昨日の日暮れだ。まだ一日しか経ってねえ」
マルセルが柵の横木に手を置いた。
「動けないだけなら、一日は保つ。四人を置いて上がる気はねえよ」
「見つけたら、僕らが下りたことも報告に載ります」
「構わねえよ。下りるのは俺の判断だ。窓口へも俺から言う」
「なら、僕らも——」
「お前らは俺に付いてきただけだ。いいな?」
短く切って、マルセルは横木から手を離した。
灯りを掲げ直して、そのまま続ける。
「戻りはこの柵だけだ。開けたままにしておく。下りたら枝道には入らない」
マルセルが替えの油の瓶を荷から出して掲げた。
「残りはまだ半分より多い。半分を割ったら、どこにいても引き返すのは変えねえぞ。退く時は俺が言う」
マルセルは言ってから顔を順に見た。
六つの顔が灯りの中にある。
エマが矢筒の矢を指で数えている。
ユルは腰の小袋の口を一度開けて閉じた。
ナギが剣の柄の革を確かめて、短く息を吐いた。
「下りるんだね」
ナギが言うと、マルセルは顎で柵の先を指した。
「ああ、決めた。しんがりは変えねえぞ」
「うん。下は広いから、いつもより詰めて歩くね」
セナが短剣の位置を腰の前へ寄せた。
僕は戻りの足を数え直した。
ここから先へ延ばした分だけ、日暮れの刻限が近くなる。
数えた結果は言わなかった。マルセルも聞かなかった。
掛け金が上がる。
金具の錆が指の腹に赤い粉で残った。
閉める時と同じ高さの音が、開ける側で鳴った。
---
段の縁は乾いていて、灯りが一段ごとに影を落としている。
下り切った床で、全員が一度止まって耳を空けた。
音はない。
マルセルが呼び声を一つ出した。
おうい、と短く伸ばす声だ。
返りは浅く、待つ間に消えた。
返事はなかった。
下の段の道は上より広い。
天井は灯りの届かない高さで、壁が両側に遠い。
秋に来た時と道の形は変わっていない。
変わったのは音だ。
水の音はこの深さまで来ても無い。
灯りの輪の縁に色の違うものが見えた。
荷だ。
灯りを掲げ直すと、輪の中に全部が一度に入った。
それだけ壁際の床は広い。
四人分の背負い袋が、壁際に口を上にして並んでいる。
その脇に得物が寝かせてあった。
短めの剣が二本。槍が一本。弓が一本。
弦は張られたままだ。
矢筒は矢の残った形で荷の脇に立ててある。
括りつけた水筒も外れていない。
近づくと荷の革の匂いが立った。
土の匂いより新しい。
袋の口はどれもきっちり縛られている。
買取の列で見た手つきのままの縛り方だ。
エマが先に屈んだ。
荷には触れず、並びだけを目でなぞる。
「下ろした形じゃないよ。運んで、揃えて、置いてある」
エマの声は低かった。
弓を持つ手が弦の上へ動いて止まる。
四人は荷の少し奥にいた。
壁の窪みに沿って並んで横たわっている。
ユルが一人ずつ屈んで確かめた。
確かめるたびに首が横へ振られる。
ユルが手を組んで短く目を閉じる。
それ以上の所作は続かなかった。
朝の依頼の紙にあった四つの名前が頭の中で並んだ。
口を開く者はいない。
火の芯の鳴る音だけが続いていた。
エマが弦から指を離さないまま、灯りの外へ首を向けた。
石を踏む音が一つ鳴る。
僕らの誰の足でもない。
マルセルの灯りが僕の手へ回ってきた。
空いた手で剣が鞘を離れる。
暗さの中に小さい火が灯った。
一つ、二つ。間を置いて四つ、六つ。
どれも手元だけを照らしている。
遠くへ光を撒かない持ち方だ。
火の並びは段の口とこちらの間に開いていた。
上がる道が火の向こう側になっている。
背中の汗が急に冷たくなった。
火を持たない影が並びの真ん中に一つ立っている。
影が一歩出て、僕らの灯りの縁に顔が入った。
初めて見る顔だ。
歳の読めない、静かな顔だった。
立ち方に構えがなく、得物はどこにも見えない。
外套の胸元に留めの紐が見えた。
横に倒して端を挟む結び方だ。
端が短く切り詰めてある。
男の目が僕らの並びを端から端まで数えた。
荷を見て、四人の窪みを見て、また僕らへ戻る。
数え終えた目はそれきり動かなかった。
急ぐ様子はどこにもない。
マルセルが前へ出た。
僕らと火の並びの間に、体一つぶん割り込む形で立つ。
左腕の小盾が上がって、右の剣が下がった。
いつもの構えの高さだ。
「エマとユルは荷の側。レオは真ん中。ナギは左だ。セナ、しんがりは崩すな。リクは数を見てろ」
配りの声はいつもの形で、息が一つも余っていない。
僕は灯りを二つ、左右の岩へ分けて置いた。
手には投げるための刃を残す。
男の右手が上がる。
指が二本立って横に振れた。
---
六つの火が一度に消えた。
暗さの中で足音が割れる。
右に二つ、左に二つ、正面へ二つ。
「ユル、前へお願いします」
「はい」
杖が上がって、淡い障壁が正面に開いた。
刃が二度当たって鈍い音が床へ落ちる。
正面の二つが左右へ割れて、障壁の端を試し始めた。
ユルの杖が半歩ずつ向きを変えて追いつく。
障壁の光が一度薄くなって、ユルの息が短く鳴った。
セナはしんがりで背の側の暗さを受け持っている。
前を向いた僕らの代わりに、後ろの音を数える位置だ。
エマの弦が鳴った。
右の先頭の足元で矢が石を割り、足が跳ねて止まる。
「止まってな。次は外さないよ」
二の矢はもう弦の上にある。
狙いは足元から膝へ上がっていた。
ナギの体が左の暗さへ滑り込んだ。
足音のないまま、刃の噛む音だけが二度届く。
僕は刃を一本、正面の男の足へ飛ばした。
外れて石で跳ねる。
それでいい。足の置き場所が一つ減る。
マルセルは正面の二人を受けていた。
小盾が刃を弾いて大ぶりの剣が返る。
受けた分だけ前へ出て、下がらない。
受けの音の間隔は変わらなかった。
先に足場を失っていくのは向こうの側だ。
一人が下がり、もう一人が横へ回り込む。
レオの杖の先で光が走った。
回り込んだ男の足が浮いて床へ倒れる。
右の二つが持ち場を替えた。
一つが矢を引き受けて、一つが荷の側へ寄っていく。
「エマ、荷の前をお願いします」
「任せな」
弦の音が続けて二度鳴った。
荷へ寄った足が石の陰で止まる。
二本目の刃を投げた。
当てるためではなく、ナギの相手の目の高さへ。
瞬きの間にナギの剣が入って、左の一人が床へ落ちた。
数を見た。
正面に一つ。左に一つ。
右に二つ。床に二つ。
それで六つ。
もう一度数えた。
六つまでは数えられる。
真ん中の男が、どこにもいなかった。
セナの糸が右の壁際で光った。
岩の角で折り返して、走り込んだ男の足首を止める。
糸は角を支えにして、締まったまま緩まない。
もう一人が糸の外を大きく回った。
荷の側でも僕らの側でもない。ただ間合いを空けていく。
セナが床へ輪を伏せるため、半歩ぶん前へ出た。
指先が下を向いて、光が床に触れる。
正面の男が踏み込んで、僕の目はそちらへ戻った。
正面の二つ。糸の一つ。エマの矢の向き。ユルの障壁の位置。
数えられるものは全部数えていた。
セナの半歩先の岩陰だけが、数えるものの無い場所だった。
その岩陰で刃が下から起きた。
切先の高さはセナの脇腹だ。
セナは床の光を見ていて、そちらを向いていない。
セナへ声を上げようとしたが間に合わない。
マルセルはもう動いていた。
正面の相手を小盾ごと押し離して、勢いのまま間を詰める。
突き飛ばす間はない。
剣を間に入れる間もない。
入れられるのは体だけだった。
小盾の縁がセナの肩を押す。
押した分だけ、盾の内側が開いた。
音は一つだった。
セナの体が床の内側へ落ちた。
手をついて起き上がり、自分の脇を掌で二度撫でる。
そこには何も無い。
マルセルの重心が前へ流れた。
踏み直そうとした足が、床の同じ場所を二度探す。
膝が半分落ちて止まる。
落ちながら、柄頭が相手の腕を打った。
刃の抜かれる音がして、真ん中の男は暗さへ戻った。
段の口の方で指が二本立って横に振れた。
足音が一度に引いていく。
床に落ちていた二つにも脇から手が入って、引きずる音ごと遠くなった。
灯りを向けても、引いた先は岩と暗さだけが残った。
「マルセル!」
マルセルは小盾の腕を壁について、剣を杖の形にして立っている。
その左の脇から革の胸当ての下へ、濡れた色が広がっていく。
「……退くぞ。手を止めろ」
声はいつもの高さより浅い。
ユルの手が先に動いた。
かざした手のひらの下で光が灯る。
光は傷の縁で揺れて、閉じるより滲む方が早かった。
レオが横から手を重ねた。
二つの光が重なっても濡れた色は止まらない。
ユルが腰の小袋から手当ての布を出した。
多めに入れてきた布が、当てるそばから色を変えていく。
「歩ける。……上がってからにしろ」
壁を押して体を起こす。
一歩、二歩までは出た。
三歩目で膝が折れた。
支えを探した手が石の面を掻いただけで止まる。
レオとナギが左右から肩を入れる。
セナが空いた方の荷を取って自分の荷に重ねた。
二人分の重さで、歩幅は変えていない。
僕は灯りを持って前へ出た。
決めてあった戻りの道だけを照らす。
支える二人の足に合わせて、道の速さが決まる。
床の段差は先に声にした。
声にするたび、後ろで足の音が揃う。
マルセルの息が肩越しに数えられる近さにある。
数は合っているのに、間だけが違っていた。
段の下まで来て、マルセルが手で止めた。
「……下ろせ」
床に背を預けて息を整える。
段の口の方を一度だけ見て、それから僕らへ目を戻した。
整い切らない息のまま、順に見ていく。
右手が小盾の紐に一度だけ触れた。
締め直す力はもう入らなかった。
「セナ」
呼ばれたセナが顔を上げた。
「……うん」
「脇、やられてねえな?」
セナが腕を上げる。
革の合わせにも、その下の布にも切れ目はない。
マルセルの目がそこで一度止まってから離れた。
「ならいい」
息を継ぐ間が一つ入る。
「騒ぐな。……大丈夫だ」
「大丈夫じゃない。おかしいだろ、それは」
自分の膝が石についていた。
いつ着いたのか分からない。
セナが膝をついた。
手が伸びて、伸びた形のまま止まっている。
「……ごめん」
「謝るな」
マルセルの目がセナから僕へ動いた。
口の端が少しだけ上がる。
「気にするな、よくあることだ」
それきり声は続かなかった。
マルセルの手が床の上で一度開いて、閉じ切らなかった。
息を数えた。
三つ目までは同じ間で来た。
四つ目が長かった。
五つ目はもっと長かった。
ユルの手は光ったままだ。
レオの手も重なったままだ。
光の下で濡れた色だけが広がっていく。
数えるのをやめられなかった。
やめたら次の息が来ない気がした。
六つ目は来なかった。
灯りの芯が一度鳴った。
どれだけ待ったのかは数えられなかった。
ユルの手の光が細くなって、消えた。
下ろす音も衣の音もしなかった。
ユルがマルセルの胸の上で手を組んで、目を閉じる。
壁の窪みの四人にしたのと同じ形だった。
レオが重ねていた手を離して、拳を一度だけ握る。
ナギは灯りの外に立って、暗さの方を向いたままでいた。
エマは弓を下ろさないまま、段の口の方を見ている。
灯りの火の音だけが同じ速さで続いている。
手当ての布の残りを数えようとした。
一枚、二枚まで数えて、その先が出てこない。
袋ごと口を閉じた。
セナは膝をついたまま動かない。
伸ばした手はまだ触れる前の形をしていた。
---
レオが先に縄へ手を伸ばした。
荷の外に括ってある縄を解いていく。
捜索の荷には必ず一本括ってくる。
今日まで一度も解かずに戻ってきた縄だ。
輪を二つ作って、担ぐ側の肩と胸へ回す形にしていく。
長さは自分の腕で測った。
結び目を作るたびに引いて確かめる。
道々見ていたのと同じ手つきだった。
マルセルの剣は僕が背負った。
小盾はマルセルの左腕に付けたままにしている。
紐は締め直した形のまま緩んでいない。
エマが荷と四人の窪みを順に見て、低く言った。
「下の四人は引き上げ屋の手続きだ。上で言えば明日には隊が下りる」
マルセルをどうするか、誰も口に出さなかった。
レオが縄を自分の肩へ回して、それで決まった。
ナギが灯りを一つ取った。
「ボクが前に立つよ」
段を上がる前に頭数を数えた。
七。
いつもの数え方で、いつもの数だった。
段を上がるのは下りるより長かった。
一段ごとに手を替え、上がり切った所で縄の掛かりを確かめ直した。
開けたままにした柵を最後の一人がくぐる。
掛け金は僕が下ろした。
錆の粉がまた指の腹についた。
深層の道を決めた道のとおりに戻る。
枝道には入らない。
呼び声はもう出さなかった。
連絡坑の低い道では縄を短く持ち替えた。
天井に頭が触れないよう、背の高い側が先に屈む。
浅層の順路では目印の炭の点をひとつずつ確かめて通った。
溜まりの水際はノートの線の高さのまま動いていない。
縄を持つ手の皮が熱くなっていた。
替えた方の手も、もう熱い。
話す息があれば、縄に回した。
油の残りをもう一度数えた。
帰り着くまでは保つ。
それだけ確かめて瓶を仕舞う。
坑口の石組みを抜けると外は夜だった。
風が霜の匂いを運んでくる。
封鎖の掲示が星の下でまだ釘に留まっていた。
紙の端が夜風で小さく鳴っている。
僕は自分の札を出した。
焼き印の刻限を指の先でなぞる。
裏の戻りの欄には、今朝書いた日付がそのまま残っている。
刻限と空を引き比べた。
比べるまでもなかった。
札を仕舞って灯りを持ち直した。
街までの道は白く凍っている。
縄の重さを六人で分けて、歩幅を合わせる。
肩を替える時は止まらずに替えた。
街の灯りが見えても、誰も速さを変えなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




