第97話「七枚目」
街の門をくぐったのは夜半を回った頃だった。
マルセルは縄で負ってきた。
坑で組んだ輪を二つ、肩と胸へ回してある。
坂と段のたびに肩を替えて回した。
門番はランタンを持ち上げ、それから何も聞かずに通した。
そのまま神殿の坂を上がる。
宿へ寄る話も、先にギルドへ回る話も誰も出さなかった。
神殿の灯は夜も落ちない。
戸を叩くと待つほどもなく内から開いた。
出てきた神官は僕らを見て、それから縄を見た。
何を聞かれるまでもなく、先に中へ通された。
預かり所には灯がひとつ灯り、油の匂いが薄く漂っていた。
戸口の脇では細い香が一本燃えて、白い煙がまっすぐ上がっている。
石の床は外の道より冷えていた。
引き取りの紙は厚く、指の腹に目の粗さが残った。
手続きの途中で神官から間柄を聞かれた。
「仲間だよ」
エマが答えて、それ以上は聞かれなかった。
間柄の欄にはそのまま仲間と書かれた。
「運び入れには私が付きます。日取りは、向こうで決まりますね」
付き添いの欄にユルが自身の名を書いた。
奥へ運ぶ前にレオがマルセルの左腕の紐を緩めた。
小盾は誰の荷にも入らないまま、僕の手に残った。
入域札はエマが上着から抜いて、僕の分と重ねた。
奥へ運ばれる間、残りの五人は入り口の段の手前で並んで待った。
戻ってきたのは縄だった。
坑から今日まで一度も緩めなかった結び目を、レオが順にほどいていく。
ほどいた縄は畳んで自分の荷に括り直した。
坂を下りる時に縄は荷へ移った。
僕の手には小盾が残っている。
ギルドの窓口が開くのは朝だ。
石段の下まで来て、そこで待つことにした。
夜明け前の空気は凍って音が硬い。
息が白く上がっては消えていく。
腰を下ろして膝の上に小盾を置いた。
紐は締め直した時のまま緩んでいない。
夜のうちに一度、ナギが宿へ戻るかと聞いた。
誰も答えず、ナギも二度は聞かなかった。
通りの向こうで竈の煙が上がり始める。
街は僕らと関わりなく温まっていった。
ギルドの戸はいつもの刻限に中から開いた。
戸を開けたのはミラさんだった。
僕らを見て、取っ手にかけた手が止まる。
視線が一度だけ僕らの後ろへ流れた。
そこには誰も立っていない。
僕らの肩には一晩ぶんの霜が乗っていた。
後ろから来た冒険者が二人、その手前で足を止めた。
朝の列はそこで途切れたままになった。
「……中へどうぞ。台帳を出します」
声がいつもの硬さに戻るまで一拍あった。
窓口の台に七枚の入域札を並べた。
夜どおし外にいた指はかじかんで、札は一枚ずつしか離れなかった。
表の焼き印はどれも昨日の日暮れの刻限だ。
裏にはそれぞれの手で書いた戻りの日付がある。
どの字も昨日のうちに古くなっていた。
期限の切れた札が、自分の足で戻ってきた。
「戻りの記帳を承ります。お名前をどうぞ」
「リク。セナ、ナギ、レオ、エマ、ユル」
六つ言って、そこで止まった。
七つ目の名前がまだ口の中に残っていた。
「六人だ。……頼む」
僕が言うより先にレオが引き取った。
一晩ぶん掠れた声だった。
ミラさんが一人ずつ名を読み上げて、行の端に判を下ろしていく。
判が紙に下りる音は思っていたより重い。
鳴るたびに誰かの肩がわずかに動いた。
六度鳴って、七度目はなかった。
台帳の行がひとつ、閉じないまま残っている。
入った日付と刻限だけが書かれて、戻りの欄が白い。
「刻限の超過分は規定のとおり、買取から差し引きます」
事務はそのまま降りてくる。
僕らに止める言い方はなかった。
「構わないよ。決まりごとだ」
エマが僕の後ろで言うと、ミラさんが判を持ち直した。
「手続きの順番として、こちらの行は——」
判が白い欄の上で止まった。
紙一枚の高さのまま下りなかった。
ミラさんは判を台に置いて、両手を膝の上へ下ろした。
「……いえ、以上になります。お疲れ様でした」
それだけ言って、台帳を静かに閉じた。
七枚目の札が台の上に残った。
ミラさんが両手で取り上げて、台帳の綴りの間に挟む。
挟んだあとの手は綴りの上からすぐには離れなかった。
下に残してきた四人の場所はエマから伝えた。
ミラさんが別の綴りを開き、そちらは手が止まらずに書けた。
引き上げの部隊は明日の朝に下りると決まった。
奥では今日の依頼の綴りが運ばれていく。
依頼の紙を見に来た者が僕らの後ろを通る。
足音は皆、窓口の前で一度ゆるんだ。
ギルドの戸口を出たところでナギとレオが立ち止まった。
「ボクらはここで」
二人の宿は東側だ。
坑へ入る朝に落ち合って帰りは別々の戸へ入る。ずっとそうしてきた。
「日取りが決まったら教えてくれ。お前たちも少しは寝ろよ」
レオが僕の肩を一度叩いて、通りを東へ折れた。
ナギは一度だけ振り返ってから、レオに続いた。
---
宿に戻ったのは昼前だった。
階段の下で四人の足が同じ場所で止まる。
部屋へ上がっても眠れる者はいない。
「部屋、今日やるよ」
エマが先に言った。
「どうせ誰も眠れやしない。手を動かしてる方がましだ」
マルセルの部屋は二階の奥だ。
戸を開けると中の冷えは廊下より深かった。
窓の外では昼の市場の声が続いている。
部屋の中では音が薄かった。
卓と椅子と寝台。
棚には布で巻いた短い炭が載っている。
物は少なく、どれも長く使われた顔をしていた。
寝台は出た朝のまま整えられていた。
毛布の端が同じ幅で折り返してある。
壁の釘には何も掛かっていない。
掛かっていた物は全部、昨日の朝に持って出た物だ。
畳む物と、実家へ返す物と、ギルドへ戻す物。
分け方はエマが決めて、僕らはそれに倣った。
午後の光が窓から斜めに入って、床の埃を照らしている。
誰かの足が動くたび、光の中で埃が回った。
マルセルの剣は僕が受け持った。
昨日から背に負ったままだった物だ。
柄の革を拭いて、刃に油を薄く引いて、布で巻き直す。
どの山にも入れずに、巻いたまま僕の脇へ置いた。
ユルは道具を引き受けた。
替えの革紐と油の瓶を数えて、使える物を箱に移していく。
「この瓶、まだ半分ありますね」
「使いな。使える物は回した方がいい」
昼を回っても誰の手も止まらなかった。
代わりに部屋の物がひとつずつ行き先を決めていく。
水差しと椀は洗い場へ下げた。
寝台の下からは銭の袋が出て、エマが数を紙に書き付けた。
袋の底にギルドの紙が一枚あった。
折り目のついた紙で、エマは開かずに畳んだ物の上へ置いた。
セナは窓際で着替えを畳んでいる。
手は動いているのに、畳み上がりの山は増えていかない。
「その山は私が見る」
エマが横から言って、セナの手元の布を引き取った。
セナは頷いて窓の外へ顔を向けた。
昼の光の中で目の縁が赤かった。
棚の炭はエマが手に取った。
巻いた布ごとしばらく見て、それから実家へ返す山の脇に置いた。
荷袋は最後に残った。
エマが上から着替えを出していく。
畳まれた布は角が揃って、部屋の冷えを吸っていた。
底に、油紙の包みがあった。
エマが包みに手をかけたまま、皆の方を見た。
持ち上げると油紙が乾いた音でこわばった。
エマは包みを裏へ返して、折り目を指の腹でなぞった。
「荷造りの包み方じゃないね。店の包み方だ」
角を折って端を内へ差し込んである。
昨日の朝、この包みは坑へ持って出されなかった。
着替えの下のいちばん底に乾いたまま残っていた。
セナが畳む手を止めて聞いた。
「開けるの?」
「夜だ。片づけの手を先に終わらせな」
包みは卓の真ん中に置かれた。
手を動かしている間じゅう、それは視界の端にあり続けた。
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日が落ちてから四人で卓を囲んだ。
夕方に階下で汁物を頼んだが、椀はどれも半分より減らないまま下げられた。
卓に灯りをひとつ、包みの近くへ寄せる。
手の甲に火の熱が届く近さだった。
四人の肩が少しずつ火へ寄っていった。
油紙を解いたのはエマだ。
結び目に指を掛けて、一度止まってから解いた。
解く手つきは包んだ手つきと同じくらい丁寧だった。
中は紙の束だった。
封をした紙が六通。どれにも宛名がある。
エマ。ユル。ルナ。ルカ。クリス。親父。
上からこの並びで重なっていた。
読み上げる者はいない。
四人が順に目でなぞって、それで全員に渡った。
卓を回る間も束の並びは崩されなかった。
紙は新しく、字の濃さはどの宛名も揃っている。
封の閉じ方も六つとも同じだ。留めてある場所まで揃っている。
宛名の字はどれも大きい。
遠目にも読める字で書いてある。
厚みはどれも紙一枚ぶんだ。
ルナ叔母さんの封だけ、透かした字の並びが下まで詰まっていた。
エマは自分の宛名を長いこと見てから束の脇へ置いた。
ユルも自分の分を同じようにした。
置いた封の上に指が掛かって、そのまま離れた。
僕は残りの宛名の並びを見ていた。
エマとユルはこの卓にいる。
叔母さんへは十日に一度の西回りの便がある。
ルカさんとクリスとマルセルの父親は東門の手前の家だ。
手渡せる相手が上に来ている。
エマがルカさん宛ての封を持ち上げて、裏を見てから戻した。
ユルが叔母さん宛ての封へ目を落とした。
「テルナへは、リクが毎月便を出していますね」
「はい。ルナ叔母さんの分は僕から出しておきます」
「頼むよ」
エマが短く言った。
叔母さんへの封は次の便まで僕が預かることになった。
束の下に、もう一枚紙があった。
封がない。
二つに折られたものが一枚。
エマが取り上げて宛名を確かめ、僕の前へ置いた。
「リク、あんたのだ」
---
紙は長いこと僕の前に置かれたままだった。
卓の上が片づいて、灯りの油が一度足された。
下の広間で炉の火を落とす音が床板越しに一度した。
それでも紙は同じ場所にあった。
汁物の匂いはもう消えて、部屋には油紙の匂いが残っている。
皆はまだ卓にいた。
誰も僕を急かさなかった。
ユルが白湯を注いで回って、湯気の上がる椀が四つ並んだ。
椀に両手を回した。
手のひらから温まって、指の先まではまだ来ない。
封がないぶん、指の上で紙は一枚の薄さのままだった。
宛名の字で、リク、とある。
名前の下に一行。
「お前はまだ底が見えねえ。続けろ」
それで終わりだった。
マルセルの声で読めた。
声の高さも間も勝手に付いてきた。
読むたびに同じ場所で同じ息の間が入った。
顔を近づけると炭の匂いがかすかにした。
字の濃さは端まで揃っている。
急いで書いた字ではなかった。
いつ書かれた行なのかは分からない。
炭は紙に乾いて留まっている。
字を数えようとした。
三つ目までは数えられた。
四つ目から、数が出てこなかった。
僕のノートのどの行より短い。
紙を持つ手が下がって、卓の上に着いた。
紙の端が灯りに透けている。
「……リク」
セナが呼んで、そのあとの言葉は来なかった。
卓の上でセナの手が少し伸びて、届く手前で戻っていく。
エマは腕を組んだまま動かない。
ユルが灯りの芯を長くした。
紙を折り直した。
折り目はマルセルの付けた場所で素直に折れた。
ノートを出して間に挟む。
どのページに挟むかは決められなかった。
閉じたノートの背が紙一枚ぶん浮く。
今日の分の行は書かなかった。
書ける気がしなかった。
夜のうちに行き先の決まった紙から卓を離れていった。
ルナ叔母さんの封は僕の荷の便箋の隣へ移った。
次の西回りの朝に為替と一緒に窓口へ出す。
エマは自分の封を上着の内へ入れた。
封は切っていない。
ユルの封も膝の上で閉じたままだ。
卓に残ったのは三通。
ルカ。クリス。親父。
宛名の字は三つとも崩れていない。
親父、の二文字が心持ち大きかった。
エマが麻紐を一周させて結んだ。
親指が封の閉じ目を一度なぞって、離れる。
「東の家へは、神殿が済んでからだ」
束を卓の真ん中へ置き直して、エマはそれきり黙った。
束の上に一度手のひらを置く。
束は誰の荷にも入らなかった。
神殿から日取りの報せが来るのは明日だ。
それまでにやることを僕はまだ書き出せていない。
窓の外はもう遅い。
通りの灯りは数えるほどに減っていた。
夜番の足音が一度通りを渡って遠くなった。
ユルが灯りを細くした。
三つの宛名が、低くなった火を向いている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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