第98話「灯を返す」
神殿からの報せは昨日の昼に届いた。
持ってきたのは若い神官で、戸口で紙を渡すとすぐ坂を戻っていった。
灯を返す儀は明くる朝、と紙には短くあった。
朝の通りは息が白い。
竈の煙がまだ細い刻限に四人で宿を出た。
出る前に広間で白湯だけ飲んだ。
椀を持つ手が四つ並んで、誰も二杯目を注がなかった。
「昼には終わる。飯は戻ってからだ」
エマが言うと、それで支度は済んだ。
着る物で改まれるものは僕らにはない。
いちばん汚れの少ない上着を選んだくらいだ。
それでも皆の襟元はいつもより詰まっていた。
通りでは店の者が表の戸を外し始めていた。
打ち水の音が路地の奥でしている。冬の朝は水の音が硬い。
荷車が一台、僕らを追い越して市場の角を折れていく。
通りはいつもの朝のまま動いている。
僕らが何をしに行くのか、通りは知らない。
セナは僕の隣を歩いた。
いつもより歩幅が狭く、それでも遅れなかった。
僕の腰にはマルセルの小盾を提げてきた。
歩くたびに紐が鳴る。誰もそれを聞き咎めない。
今日の場に持っていく物はこれひとつでいい。
東の家へは昨日のうちにエマが知らせに行っている。
聞いたのは昨日の晩だ。誰も何も足さなかった。
ナギとレオは坂の下で待っていた。
二人とも今日は得物を置いてきている。
レオの上着はいつもの革でなく、布のものだった。
僕の腰の小盾を一度見て、何も言わずに並びへ入った。
神殿の坂には霜が残っている。
朝の日はまだ屋根の高さにあり、坂の上のほうが白く光っていた。
三日前の夜、マルセルを負って上がった坂だ。
あの夜は段の数を数えなかった。
今日は上りながら勝手に数が付いてきて、上まで数え切った。
上りきる手前でナギが帽子のつばを一度下げた。
目元が影に入って、それきり動かなかった。
神殿の戸は両方とも開いていた。
中の灯りは外の朝より濃く見える。
夜も落ちない灯りだと、あの夜に知った。
段の手前で六人の足が揃って止まった。
今までならマルセルが先頭で入るがもういない。
少しの間の後、エマが先に敷居を跨ぎ僕らが続いた。
靴の底から石の冷えが上がってくる。
預かり所の戸の前を過ぎると油の匂いが薄く残っていた。
---
奥の広い間に通された。
窓は高いところに一つあり、朝の光が斜めに一本入っている。
戸は開いたままで、そこからも光が細く伸びていた。
光の入らないところは石の色が沈んでいる。
奥へ続く戸は閉まっている。
木の戸で把手のところだけ色が濃い。
マルセルが運ばれていった先だ。
戸の向こうがどうなっているのかは見ていない。
あの夜は縄が戻ってきただけだった。
今日この戸が開くのかどうかを僕は知らない。
誰かに聞く場面でもなかった。
石の台を挟んだ左に椅子がひとつ置かれ、マルセルの父親が座っている。
厚い上着を肩から掛けて、膝には畳んだ布が載っていた。
膝の上の指を僕は病間で見ている。
あの時は寝床の縁を二度軽く叩いた。
今日は布を握ったまま動かない。
付き添いの年配の女の人が斜め後ろに立っている。
そこで盆を持っていた人だ。
今日は盆の代わりに畳んだ布を何枚か抱えている。
隣にはルカさんが立っている。
立ち方は帳場で見るのと変わらなかった。
手だけが前に重なっている。
僕らが入るとルカさんの目が一度だけこちらへ動いた。
浅く頭を下げ、僕も下げた。
言葉はどちらからも出なかった。
柱のところにクリスがいた。
明るい金髪が柱の横で動かずにいる。
店の者は連れていない。
家族が三人に付き添いがひとり。
外套は揃って暗い色だった。朝の道を来た裾が湿っている。
坂の霜に車輪の跡はなかった。
東門の手前からここまで歩いてきたことになる。
自分から籍を抜いて出ていった人の葬送に、家はそれでも来ている。
椅子を用意させて、朝の冷えの中を出てきている。
三通の束は宿の卓に置いてきた。
東の家へ持っていくのはこの儀が済んだあとにすると決めていた。
ユルが神官のところへ行き、低い声で段取りを詰めた。
付き添いの欄に名を書いたのはユルだ。
神官はユルの顔を覚えていたようで話は短く済んだ。
あの夜に戸を開けたのもこの神官だ。
言葉の残りは目と頷きで通っていた。
戻ってきたユルが僕らを見て顎を一度引いた。
僕らは言われたとおり、台の手前の右に一列で並んだ。
エマが端に立ち、僕はセナとユルの間になった。
台は腰の高さの石で、長く拭かれて角が丸い。
上には灯明がひとつ載っている。
まだ火は入っていない。
脇では細い香が一本、灰を落としながら燃えている。
家族の席と僕らの列の間には石の床が広く空いている。
誰もそこを渡らない。
渡らないまま、同じ台を向いている。
どちらの列からも台までは同じ遠さだった。
並んでから儀が始まるまで、誰も足の位置を変えなかった。
背中の後ろで戸の外の朝の音が遠かった。
一台の荷車が坂の下を通っていった。
神官が僕らの前に立ち短く言った。
「世の初めに、灯神さまは地に灯を分けられました。
地の灯は地脈に。人の灯は、魔力に。
マルセルが借りていた灯を、今日、神へお返しします」
それから台の前へ戻り、灯明に火を入れた。
小さい火がひとつ立って、油の匂いが動く。
周りの手が動いた。
エマもユルもレオも、両の手を胸の前で重ねている。
ナギも同じようにした。
セナは隣のエマを一度見てから重ねた。
僕の手は上がったところで止まった。
どこへ置けばいいのか分からなかった。
ミルヴァの村にこの葬送はなかった。
人を送る時は皆で墓へ土を運んだ。
ユルが半歩寄って、声を低くする。
「胸の前で重ねるだけでいいですよ。目は開けていても、閉じていても」
ユルの言葉に倣い、手を重ねた。
遅れたぶん、布の擦れる音が僕の胸元でひとつ鳴った。
指先には坂の冷えが残っていて、重ねた手の中で少しずつ温まった。
神官が唱え始めた。
声は低くて長い。
息の継ぎ目が決まった場所に来る。
高さは変わらず、時々止まった。
止まるたび香の煙は揺れなかった。
言葉の切れ目は聞き取れるのに、意味の載る手前で流れていく。
知らない祈りなのに、息の間だけは僕にも読めた。
---
僕は台の向こうへ目をやった。
家族の席は僕の列から斜めに見える。
台を挟んだぶんだけ遠かった。
唱えの間もマルセルの父親は背筋を曲げなかった。
目は灯から動かない。
時々咳が布の中で低く鳴った。
首は前に見た時より細くなっていた。
咳がやむたび布を持つ手が膝へ戻る。
膝の布はまだ畳んだままだ。
布の角が指の形に窪んでいる。
クリスはまだ柱のところにいた。
家族の席の端、太い柱の横だ。
柱の陰ではない。
柱に肩を寄せて、灯の見える場所に立っている。
三年前に初めて見た日は、柱の陰から半分だけだった。
別れの日の門の前では体ぜんぶが外に出ていた。
今日も全部出ている。
その場所からは家族の席も僕らの列も見える。
クリスはどちらの列にも入っていない。
両手は体の前で重ねられていた。
所作だけならエマたちと同じだ。
背は伸びて、それでもまだルカさんの肩に届かない。
金髪のリボンは前と同じ物だ。
結び目の位置が前より少し低い。
朝の光は柱の根元の手前で切れている。
そこだけ石の色が濃いままだ。
クリスの靴の先がその境目に触れている。
そこから先へは出てこない。
開いた戸から、足首のところを風が通っていく。
目はまっすぐ灯へ向いている。
唱えの間もまばたきが少ない。
唱えが止まるところでも、肩は動かなかった。
それから、目が僕とセナの上をなぞった。
以前、あの家の門の前でも一度あった。
あの時と同じ順で通ったが、今回は速さが違った。
僕の上で一拍、セナの上でもう一拍、止まってから灯へ戻っていく。
僕は目を逸らさずにいた。
セナもそうしていた。
クリスの重ねた手の指が袖口の布を掴んでいる。
柱は掴んでいない。
隣でセナの手が動いた。
上がりかけて、胸の前で止まる。
指がまた重なった。
僕の手も、指が指を掴んでいた。
息を詰めていたと気づいたのは、鼻の奥が乾いてからだ。
クリスの口は閉じたままだ。
あの日は細い声がひとつあった。
クリスの目はもう動かない。
灯の火が、その目の中で小さく揺れていた。
---
唱えが終わった。
最後の声は長く延びて、息の切れる場所で静かに落ちた。
落ちたあとに香の燃える音が細く続いた。
誰も声を出さなかった。
神官が灯へ頭を下げて、家族の席へ歩いていく。
椅子の前で膝を折り、低い声で何かを告げた。
父親が浅く頷くのが見えた。
灯は台の上で燃えている。
火のまわりの空気がそこだけ薄く明るい。
熱は僕らの列までは届かない距離だった。
列は崩れないまま、皆の肩がわずかにゆるんだ。
ユルが息を長く吐くのが聞こえた。
言う前に口の中で並べた。
並べれば並べるほど、数の話になった。
「……あの日、僕は」
声は思ったより外へ出た。
言ってから、続きの並べ方を決めていないことに気づいた。
「数えられるものは全部数えていました。それでも」
「知ってるよ」
エマが前を向いたまま言った。
「あんたの数が合ってたことは皆が知ってる」
声は僕にだけ向く低さだった。
レオが息を吸う音がした。
「お前さ……」
続きは出てこなかった。
吐いた息は中の空気に溶けた。
ナギが帽子の縁を指でなぞって、やめた。
セナは重ねた手を見ている。
ユルは指を組み直した。
六人の誰の口からも坑の名前は出なかった。
言いかけたものは行く先のないまま僕の中へ戻ってきた。
責める声が来れば受ける場所を作れた。
来ないものは受けられない。
(数えられるものは、全部数えた)
(数えるものの無い場所が、一つあった)
灯を見た。火は数えられない。
小盾の紐を握り直した。
今朝から何度目かは、もう数えていない。
セナの指が僕の袖に触れて、離れた。
それきり誰も動かなかった。
手を胸の前へ戻した。
温まるのは重ねた手の中だけだ。
足の下の石は朝のまま冷えている。
家族の席で低い声が続いている。
神官の声に時々ルカさんの声が混ざった。
中身はここまで届かない。
僕は足元の石へ目を落とした。
戸口からの光の先が、列の手前で止まっている。
---
神官が台の前へ戻った。
部屋を一度ゆっくり見る。
家族の席と、僕らの列と、柱のクリスを順に通った。
誰も動かないのを確かめてから、灯明の前で膝を折る。
それから、火を消した。
音はなかった。
白い煙が一筋、香の煙より太く上がって、天井の暗さへ入っていく。
油の匂いが一拍遅れて届いた。
煙の行き先を追って皆の顎が少しずつ上がった。
煙は数えられない。
台の上の灯明は置かれたままだ。
神官が灯明へ深く頭を下げて、僕らもそれに倣った。
倣った頭の下げ方も、僕は半拍遅れた。
ユルはもう何も言わなかった。
下げた頭の上を香の煙の匂いが通っていった。
上げた顔の先で、台の上は火のぶんだけ暗くなっていた。
家族の席で父親が立とうとしていた。
膝の布が付き添いの人の腕へ渡る。
付き添いの人が腕を支え、ルカさんが反対の腕を取る。
立ち上がるまで咳はひとつも出なかった。
立ってから一度だけ父親の目がこちらの列へ動いた。
誰の上で止まったのかは分からない。
奥へ続く戸は閉まったままだ。
今日は最後まで開かなかった。
クリスは柱のところから動いていない。
目はまだ、火の消えた台へ向いている。
リボンの端が開いた戸からの風で小さく揺れて止まった。
戸口から入る朝の光が床の上で伸びていた。
光の帯の先が台の足元まで届いている。
火のない台の上で、灯明の縁が光を受けていた。
香が一本、まだ燃えている。
白い煙がまっすぐ上がって、初めの速さのまま細くなっていく。
石の床の冷えが、靴の底まで戻ってきた。
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