第99話「閉じた戸」
朝の広間の卓にエマが三通の束を置いた。
ルカ。クリス。親父。
宛名の字は変わらない。
麻紐はエマが結んだときのままだ。
窓の外はまだ日が低い。
通りの声はまばらで、荷車の音がひとつ遠くにある。
竈にはもう火が入れられている。
宿の主人が薪を足して戻っていった。
薪の爆ぜる音が、話の切れ目ごとに立つ。
白湯の椀が六つ並んで、湯気が窓の光の中に細く立った。
ナギとレオは東側の宿から朝のうちに集まってきている。
広間の隅では別の泊まり客が朝飯を食っている。
湯気の向こうの声は、僕らの卓までは届かない。
セナが順に白湯を注いで回り、同じ順で椀が空いていく。
誰も二杯目を注がないのは昨日の朝と同じだ。
最後の椀が卓へ戻ったところでエマが束を取り上げた。
「こいつは、私とリクで東の家へ持って行く」
荷袋から出した布でエマは束を包んだ。
角を合わせて一周させ、端を内へ折り込む。
包みは両腕に収まる大きさで、三通の厚みは布の上からでも薄い。
「あんたらは宿にいな」
セナが僕を見た。
口が少し開いてそのまま閉じた。
膝の上でセナの指が組まれる。
立ち上がるとき、セナの手が伸びて僕の襟を一度直した。
何も言わないまま手は戻っていった。
直された襟の内に、白湯の温みが残っている。
ナギは帽子のつばに指を掛けて浅く下げた。
レオは白湯の残りを飲み干して椀を伏せた。
「私は先にギルドへ行っています。治療院の届けもありますので」
ユルが言って自分の椀を流しへ運んだ。
僕は部屋へ上がって上着を取ってきた。
腰の小盾は提げたままにしてある。
出がけにエマが包みを僕へ寄越した。
「リク、これはあんたから渡しな」
受け取ると布越しでも封の角は固かった。
僕は包みを胸に抱えて上着の前を片手で合わせた。
叔母さん宛ての封は荷の便箋の隣にある。
西回りの便が出るのは明日の朝だ。
戸口を出るとき、エマが空をひと目見た。
「昼には戻る」
誰に言うでもない。そんな声だった。
---
東門へ向かう街道筋は朝の荷で動き始めていた。
門は開いたばかりで、入りの荷と出の荷がすれ違っている。
時折、門番の声が短く飛んだ。
エマは僕の半歩先を歩いている。
弓は宿に置いてきていて、その背中は狩りの日と違って見えた。
歩幅は僕に合わせている。
店の並びが切れたところで長い塀が見えてきた。
剥げた漆喰。瓦の重い門。
瓦は朝の日で乾き始めている。
古い木の札は今日も遠目には読めない。
塀は長く、終わりまで同じ高さで続いている。
内からは炊事の煙がひとつ上がっていた。
煙は屋根の上で朝の風に流れて、薄く消えていく。
歩く間、僕は包みを抱え直した。
門の脇に格子の窓がある。
あの日、暮れの灯りが入っていた窓だ。
今は朝の光が桟を白くしていて内は暗いままだった。
門扉は閉じている。
くぐり戸は右の端にある。
人ひとりが屈んで通る高さの戸だ。
門の前の日陰に霜が残っている。
踏むと靴の下で細かく鳴った。
エマがくぐり戸を叩いた。
「冒険者ギルドの者だ。当主に取り次ぎを頼む」
中で声がして、足音が石の上を遠ざかっていく。
待つ間は長かった。
僕は包みの角の向きを直し、それからやめた。
霜の白い縁を目でなぞった。
門の内から物音は出てこない。
取り次ぎの足音は消えたきりだ。
息が白く、指先はもう冷え切っている。
日向と日陰の境が門柱の根元で止まっていた。
昨日の神殿でルカさんとは頭を下げ合っただけだ。
言葉はどちらからも出ていない。
足音が戻ってきて、くぐり戸が内から開いた。
戸の内は暗く、開いた分だけ光が入った。
ルカさんの屈んだ背がこちらへ首を傾ける。
昨日と同じ暗い色の上着で襟元まで詰めている。
手は前に重ねられていた。
目の下の影が濃い。
頬は帳場で見たときより白かった。
戸の内で一度、頭が下がる。
僕とエマも下げた。
ルカさんは敷居を跨いで門の外へ出てきた。
くぐり戸はその背中で閉まった。
鉄の環が戸板に当たって短く鳴る。
「こちらで伺います」
声は低く、丁寧だった。
霜の残る門の前に三人で立った。
---
エマが半歩下がって、僕が前になった。
布の結びを解く。
かじかんだ指が端を一度つかみ損ねた。
布を開いて、束を出す。
「マルセルの荷物から出てきました。宛名が三つあります」
出た声は思ったより平らだった。
両手で差し出した。
麻紐の結び目を上へ向ける。
ルカさんの目が宛名を順に通った。
上から下へ。
いちばん下の一通で少し長く止まる。
両手が出て、束が渡った。
布は僕の手に残った。
麻紐は結ばれたままだ。
封の閉じ目にも指は掛からなかった。
ルカさんは束を胸の高さで持った。
それから左の腕へ抱え直す。
帳簿を抱える持ち方だと、店で見たことがある。
上の一通の宛名を指の腹が一度なぞった。
「ご足労いただきました」
風が塀に沿って抜けて、布の端が僕の腕で揺れた。
束の上の宛名は僕からも見えている。
親父の二文字は心持ち大きいままだ。
「クリスの分は——」
言いかけて、やめた。
ルカさんの目は動いていない。
格子の窓の内で暗さが一度動いた。
桟の白い光はそのままで、奥へ引く気配だけが残った。
僕は息を吸い直した。
言葉より先に名前が出た。
「マルセルは、最後まで——」
「兄の名前は、もう聞かせないでください」
声の高さは変わらなかった。
速さも帳場のままだった。
目だけが初めてまっすぐ僕を見ていた。
続きは口の中で止まった。
吐いた息が白く散った。
言い直す言葉を探した。
どれも、名前から始まった。
門柱の影が僕らの足元まで伸びている。
隣でエマが息を吸う音がした。
エマが半歩、前へ出る。
僕の肩に手が置かれ、そのまま後ろへ下げられた。
「……失礼した。私たちはこれで」
エマの声にルカさんの頭が下がった。
昨日の神殿より深く、長かった。
頭が上がるまで僕は動けなかった。
「本日は、ありがとうございました」
上げた顔は当主の顔に戻っていた。
目は僕らの誰の上にも止まらず、束の宛名へ一度落ちる。
エマの手が上着の裾を一度握って、離れた。
ルカさんが踵を返してくぐり戸の内へ戻っていく。
束は左の腕にある。抱え方は最後まで変わらなかった。
戸が閉まり、内側で横木を落とす音が木の厚み越しにひとつした。
門の前が静かになった。
通りの遠くで荷車の音がしている。
塀の上の煙はまだ細く立っていた。
僕は閉じた戸を見ていた。
鉄の環が戸板の上で止まっている。
腕の内にはたたんだ布の軽さがある。
どれだけ立っていたのかは分からない。
「行くよ」
エマが僕の肩を一度叩いた。
歩き出して、塀が切れるまでどちらも口を開かなかった。
エマの歩幅は行きより広かった。
塀の切れるところで僕は振り返った。
門は閉じたまま、道に人はいなかった。
---
ギルドの広間は昼前の人で動いていた。
依頼の札を見る者。
精算の列に並ぶ者。
隅の卓で図を広げる者。
列の先では銅貨を数える声がしている。
戸を入ると中の空気は暖かく、指先が緩むまで少しかかった。
戸口の近くではユルが待っていた。
「治療院の話は済みました。あとはこちらの紙だけです」
三人で窓口へ並んだ。
並びながらエマが用向きを短く言う。
ミラさんが顔を上げて僕らを順に見た。
それから棚の綴りを出してくる。
パーティの登録の紙だ。
窓口の台に開かれてこちらへ向けられた。
台の木は長く使われて縁だけ色が薄い。
ミラさんが綴りの端を指で揃えて、少し寄せてくる。
名前が七つ並んでいる。
書いた手はばらばらで、いちばん上の字だけ太い。
その横にはもう線が引かれていた。
帰還の報せの日にこの窓口で引かれた線だ。
「エマさんとユルさんの、脱退の届けですね」
日付を読み上げて、二人が頷く。
二人が順に自分の名前の横へ署名した。
エマの字は速く、ユルの字は細かった。
ミラさんが紙を受け取り、判を手に取った。
報せの日、この判は白い欄の上で一度止まった。
今日は止まらない。
二つの欄に続けて下りた。
乾く前の朱が窓の光を受けて薄く光る。
ミラさんが二つの名前へ細い線を引いた。
紙の上で名前は四つになった。
僕、セナ、ナギ、レオの順で残っている。
名前の下には白い行が続いていた。
書き足す場所はまだ残っている。
線の引かれた三つの横には得物の欄がある。
剣。弓。杖。
残った四つは、短剣、杖、剣、杖だ。
綴りの端で朱の判が乾き始めている。
僕は欄を上から下まで二度読んだ。
腰の小盾に手が一度触れていた。
「以上になります。……お疲れ様でした」
ミラさんが綴りを閉じて棚へ戻した。
戻ってきた手はそのまま次の紙を取った。
「私はしばらく一人で受けるよ」
エマが台の縁に肘を置いた。
「弓一本なら身は軽い。新入りに付く仕事があればそれも回しな」
「承りました」
ミラさんが書きかけの紙を端へ寄せて、新しい一枚を引き出した。
ペン先の音が台の上で細く続いて、止まった。
書き上げた紙をこちらへ向け、指で欄をひとつ示す。
エマがそこへ自分の字を入れた。
署名のときと同じ速さだった。
「これで矢は自分の分だけ数えりゃいい」
続きは出なかった。エマも足さなかった。
窓口の順を待つ声が後ろで途切れずに続いている。
ユルは治療院の名で届けをもう一枚書いた。
神殿の坂の上の、あの治療院だ。
「街の中ですから。何かあれば、いつでも」
ユルは書き上げた届けを二つに折って胸の内へ入れた。
上着に残る香の匂いは昨日より薄い。
三人で戸口まで歩いて、そこで行く先が分かれた。
誰も街を出ない。
坂の上と、掲示の板の前と、宿の広間。
「また顔は出します」
ユルはいつものようにゆっくり言って、戸口を出ていった。
坂へ折れる背中は思ったより速い。
エマは掲示の板の前に立って、もう新しい札をひとつ外している。
外した札を日付が上になるよう持ち替えた。
指がもう一枚の端をめくって、途中で戻した。
「リク」
背中に声が来た。
振り向くとエマは板を向いたままだった。
「飯は食いな」
それだけだった。
僕は一人で宿への道を戻った。
昼の通りは行きより人が増えて、荷の声が高くなっている。
---
宿へ戻ると、広間から昼の支度の音がしていた。
朝まで束のあった卓は拭かれている。
僕は広間へは入らず、先に階段へ足を向けた。
段の木が決まった場所で鳴った。
二階の廊下は昼でもうす暗い。
窓は廊下の端にひとつだけある。
空気は外と同じ冷たさで止まっている。
突き当たりに戸がひとつある。
マルセルの部屋だった戸だ。
残っているのは寝台と卓だけだ。
宿の物はそのままにしてある。
月が変われば次の誰かが入る部屋だ。
戸の前で足が止まった。
戸板の木目は取っ手のまわりだけ浅い。
手の油で長く磨かれた分だ。
取っ手に手を掛ける。
木は廊下の冷えを吸って指より冷たかった。
指はまだ門の霜の冷たさを覚えている。
窓口の台の木は乾いていた。
この取っ手がいちばん冷たい。
中に数えるものはもう無い。
取っ手から手を離すと、腰で小盾の紐が短く鳴った。
音は手のひらで押さえると止まった。
紐は昨日の朝に結んだきりだ。
階下で椀の並ぶ音がしている。
セナの声がしてナギの声が重なり、レオの短い返事が続いた。
誰かが短く笑って、途切れた。
昼の匂いが階段を上がってくる。
昼飯が並べば、誰かが僕を呼びに来る。
戻りかけて一度だけ振り返った。
突き当たりの戸は閉じたままだ。
戸板の木は廊下と同じ色をしていた。
僕を呼ぶ声が、いつもより遠くから聞こえた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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