第100話「数と場所」
朝の通りは店の戸を外す音で始まっていた。
軒下の雪は夜のうちに降ったぶんで、踏むと靴の下で細かく鳴る。
横道からパンの窯の匂いが流れてきた。
僕は上着の内に封を入れて歩いた。
昨夜のうちに書いた紙で、マルセルの封を包んである。
歩くたび胸に角が当たる。
中の封の方が固く、外の紙は朝の冷えを吸っている。
銀貨は袋に分けてある。
昨日の晩に数えて、口の紐も確かめておいた。
通りの先で雪を寄せる板が石を擦っている。
角の氷は割られて道の脇に寄せてあった。
人の出は朝の早い顔ぶればかりで、どの息も白かった。
ギルドは戸を開けたばかりだった。
広間の空気は通りと同じ冷たさで止まっている。
奥の竈に火は入っていたが、窓口の辺りまでは届いていない。
窓口の前には便の朝の短い列ができていた。
商いの控えを抱えた人が多い。
隣の精算の列はまだまばらで、窓口の声がよく通る。
前の人が荷の控えを出して、受け取りの判をもらっていた。
台の奥の棚には行き先ごとの木箱が並んでいる。
僕は手のひらを袖の内で温めながら待った。
僕の番になって、ミラさんが台を拭いた布を畳んで顔を上げた。
「西回りの便でお願いします。それと、為替を」
台に封を置く。
宛先はテルナ支部のルナ叔母さんだ。
外の宛名は僕の字で、中の字は誰にも見えない。
ミラさんの目が宛名の上をゆっくり通って、控えへ移った。
銀貨5枚を並べた。
台の木は冷え切っていて、銀貨を置く指の腹から熱が抜けていく。
ミラさんが宛先を読み上げて、控えに書き付けた。
日付が先に書かれて、額が続く。
為替の紙が切り離され、判が下りて音が台に残った。
「同封のお手紙は、ございますか」
「……今月は、これで」
ミラさんは頷いて、封と為替を重ねて揃えた。
台の下から西行きの木箱が出てくる。
中の紙の上に封が載った。
宛名は上を向いたままだ。
箱は蓋をされて棚へ戻り、見えなくなった。
「便は朝のうちに出ます」
「お願いします」
ミラさんの手はもう次の控えへ移っていた。
台の端で控えの朱が乾くのを待って、物入れにしまった。
窓口の順を待つ声が後ろに続いている。
僕は列を離れて戸口へ向かった。
戸口の脇に西行きの馬車が着いている。
荷台へ箱が順に積まれていく。
僕は箱がひとつ載るのを見てから通りへ出た。
外の日はまだ低い。
息が白く出て、すぐ散る。
通りの人は行きより増えていた。
店先の台に冬の根菜が並び始めている。
僕は上着の前を合わせて、宿への道を戻った。
宿の広間では昼の支度が始まっていた。
セナが竈の脇で芋の皮を剥いている。
剥いた芋は笊の中で山になっていた。
包丁の音が止まった。
剥き終えた芋を持ったまま、セナの手が宙にある。
鍋の湯気が手の甲を越えていく。
手の中の芋が鍋へ落ちて湯が短く鳴った。
包丁の音がまた始まる。
竈の熱は広間の半分で切れている。
卓ではナギが荷の革紐を締め直していた。
結び終わりの手前で指が止まる。
ほどいて、また最初から巻き直した。
レオは窓の脇で杖の柄を布で拭いている。
布の折り目を直す手つきは行きも帰りも同じだった。
昼は四人で卓を囲んだ。芋の汁と固いパン。
セナが塩の壺を回して、椀の間を匙の音が繋いだ。
「リク、午後は写しを進めるの?」
「うん。夕方までには終わるよ」
ナギが匙を止めて、窓の外の空を見た。
雪はまだ落ちてこない。
昼を過ぎてエマが階段を下りてきた。
肩に弓と矢筒がある。
「エマは今日も依頼?」
「ああ、東の街道の護衛さ。夕方には戻るよ」
戸口で答えて、そのまま出ていった。
閉まった戸の内で竈の火の音が戻ってくる。
午後、僕は広間の隅で図の写しを引いた。
浅層の順路は手が覚えている。
板の縁を当てれば、線は迷わずに済んだ。
書き上がった写しは二枚の板に挟んで棚へ仕舞った。
折れ癖がつくと売り物にならない。
明日ギルドへ持っていく分だ。
写しを終えると、次は荷の点検に移る。
水と灯りの油を明日の分に分けて、袋の口を縛った。
縛った袋は四つ、壁際に並んだ。
棚の油の瓶を出して数えた。
四つに分けて一本余る。
余った一本を棚へ戻すと、袋の列は壁の半分で終わっていた。
小盾を腰から外して、内の当てを布で拭いた。
紐の結び目には指を掛けない。
拭き終えて、また腰へ提げた。
日が落ちる前にエマが戻ってきた。
弓の弦を外し、弓を壁の掛けへ戻す。
それから自分の卓で矢筒の矢を検めていた。
外した弦は丸めて脇に置いてある。
竈の火が弓の木の艶を照らしていた。
数え終えた矢筒は椅子の背に掛けられた。
ユルは日が落ちきってから戻った。
神殿の坂の雪を戸口で払ってから中へ入る。
夕飯はユルが運んできた。
僕とセナの前に置いて、エマの卓にも一つ運ぶ。
自分の分は最後に取りに戻った。
話は短く、匙の音が長く続いた。
椀を洗う水は指が痛いほど冷たい。
セナと並んで拭き上げて、棚へ戻した。
セナが鍋の残りを竈の端へ寄せて、火を細くする。
---
夜、部屋の卓に灯りを置いた。
油の熱が縁の金具に伝わって、指を近づけると分かる。
窓の外は雪の気配で音が薄い。
ノートを開き日付を書いた。
今日の行は短く済んだ。
封と為替を窓口へ出した、とだけ書いた。
炭の先が次の行の頭で止まる。
書く事は決まっていた。
毎晩そうしてきたのと同じに、あった事を書くだけだ。
炭を置いて白湯の残りを一口飲んだ。
椀の温みはもうほとんどない。
炭を手に取ったが、紙の上へ下りなかった。
灯りの芯が短く鳴る。
窓の外を荷車が通って、それきり静かになった。
炭の軸は乾いて軽い。
握り直すと粉が指の腹に付いた。
先が丸くなっている。
小刀を出して炭の先を削り直した。
削り屑は手の縁で集めて、灯りの皿の脇へ寄せる。
炭の先が紙へ下り掛けて、また浮く。
行の頭の位置だけが決まっている。
階下の物音はもう絶えている。
灯りの油が減って、火の背が低くなった。
親指を挟んだまま、ページを戻した。
昨日より前は行の詰んだページが続く。
歩数と水の際と、殻の出た場所。
どの行も字の高さが揃っていた。
夏のページには峠の行程が並んでいる。
道の順と宿の名と、カルデグの市で聞いた石の値。
秋に入ると見回りの行が続いた。
坑の日から後の行はどれも短い。
日付の下に、していた事がひとつずつある。
いちばん前のページには村からの便りの行がある。
母さんの字の癖のことまで書いてある。
この一冊はそこから始まっていた。
めくる紙の縁は先へ行くほど固い。
埋まった行の分だけ、手前の紙は柔らかくなっている。
どのページにも晩飯の行は無い。
書いてきたのは数と場所だ。
数ページ前で手が止まった。
行の端に小さい字がある。
『後で調べる』
あの日の朝に書いた字だ。
炭を仕舞う前に走らせた字で、尻が流れている。
僕はページの端に指を掛けた。
紙の端は指の腹に薄く冷たい。
指は掛けただけで戻した。
字は書いた朝より薄く見える。
炭の粉が紙の目に馴染んだ分だ。
開いたページと挟んだページが、同じ手の中にあった。
しばらくそのままでいた。
窓の外で風が軒を撫でていく。
灯りの火は低いまま燃えている。
今夜のページへ戻した。
灯心を整える。
火が伸びて手元が明るくなる。
紙はまだ白い。
息を吐いて、炭を紙へ下ろした。
『僕が見逃した。あと5分待てばよかった。』
書けたのは一行だけだった。
書き出しは、いつもの行より下がっている。
炭を卓へ置く。
置いた音が高く鳴った。
(俺は、何を見ていた)
指の腹の粉を膝で拭う。
灯りの火が揺れて、戻った。
息が浅くなっていた。
吸い直して、深くする。
ノートは手を離すと自分で閉じようとした。
角の欠けた砥石を重しに載せる。
石の腹はざらついて、手のひらに粉の感触が残った。
新しい一冊に替えた夜から重しはこの石だ。
石の重さの分だけ、ページは開いている。
灯りを消した。
暗い卓の上で砥石の白さだけが浮いている。
寝台に入っても、指の腹には炭の乾きが残っていた。
---
目が覚めた時、階下ではもう竈の音がしていた。
廊下の板は夜の冷えを残している。
突き当たりの戸は今朝も閉じている。
階段の手すりは上の段ほど冷えていた。
広間には湯気が立っていた。
窓の光はまだ細い。
卓は拭かれて、椀が伏せて重ねてある。
セナが竈の前で鍋を混ぜていた。
壁の掛けに弓は無く、ユルの上着も掛かっていない。
二人とも先に出たあとだ。
「おはよう、リク。すぐできるよ」
「おはよう。お椀、並べるね」
伏せた椀へ手を伸ばした。
重ねた山から一つずつ外していく。
四つ目を置いて、五つ目に指が掛かった。
掛かったところで手が止まる。
戻して、四つだけ表に返した。
椀の内には竈の熱がまだ届いていない。
陶の冷たさが指の先に残った。
戸が開いてナギが入ってきた。
帽子のつばの雪を払って椅子を引く。
「おはよう。今日は掲示の板を見に行くのかい?」
「ん。朝のうちに」
レオが少し後から入ってきて、黙って椅子に座った。
セナが鍋から順に椀を満たしていく。
僕の椀には多めに注がれた。
セナは何も言わないまま次の椀へ移っていく。
汁の湯気が椀の縁で揺れた。
匙を入れると芋が崩れる。
昨日の昼に剥いた芋だ。
ナギが椀を両手で包んで、湯気の上に顔を寄せた。
レオは匙より先に白湯を飲んでいる。
セナが自分の椀を最後に置いて座った。
「食べたら、すぐ出よっか」
「うん。支度はしてある」
匙の音が続いた。
窓の光が卓の端まで入ってくる。
竈で薪が爆ぜて、また静まった。
セナが空いた椀を重ねて立ち上がった。
窓の外で雪かきの音が始まっている。
朝の通りが動き出す音だ。
---
通りの雪は朝のうちに掻かれていた。
四人の足音が乾いた石の上で揃う。
角をひとつ折れるとギルドの門が見えてきた。
広間は朝の人で動き始めていた。
戸を入ると中の空気は緩く、息の白さが消える。
窓口に向かい昨日の写しを提出した。
ミラさんが縁を揃えて枚数を確かめる。
日付の下に数が入って判が下りた。
「お預かりします。売れた分は次の精算に乗ります」
「お願いします」
それから掲示の板の前に四人で立った。
紙は昨日より増えている。
雪の前に済ませたい荷が出る時期だ。
板の端には日に焼けた古い紙も残っている。
真ん中には雪下ろしの人手集めの紙が貼られていた。
荷運びの紙は朝のうちに減るのが早い。
目が紙の上を渡っていく。
人数の欄で止まって、また動く。
四人で足りる仕事を探していた。
等級の欄はその後で見た。
どの紙も見出しの字が大きく、条件の字は小さい。
小さい字の並びから先に読む。
街道沿いの護衛の紙で目が止まる。
荷は軽く、道は日帰りで戻れる長さだ。
途中の橋と雪での回り道まで書き添えてある。
隣の紙は坑の見回りだった。
目は人数の欄より先に、道の長さと荷の重さを追っている。
板を押さえる釘は戸口の風で冷えていた。
手が伸びて護衛の紙を一枚外す。
釘から外れる時、紙の端が指先で短く鳴った。
振り向くとセナが頷いた。
ナギが剣の位置を直した。
レオはもう窓口の列へ顔を向けていた。
列の先、窓口では朝の判を捺す音がしている。
前の列が進むたび、戸口の冷気が背中を抜けていった。
列の横を依頼帰りのパーティが通り過ぎていく。
朝から動く顔ぶれは足音まで速い。
板の前には次の人が立って、同じように紙を見上げていた。
手の中の紙は薄く、端が固い。
腰の小盾の重さが歩に付いてくる。
列がひとつ進む。
僕は手の中の紙の向きを整えた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




