第101話「空の荷台」
朝のギルドは受注の列で詰まっていた。
外で雪を落としてきた靴の水が床に点々と残っている。
僕はセナとナギ、レオとの四人で列の後ろについた。
手には板から外した護衛の紙を持っている。
東の集落まで荷を運び、日のあるうちに戻る仕事だ。
列は思ったより早く進んだ。
板の前には次の組が入れ替わって立っている。
外した紙の跡が釘のところに白く残っている。
セナが荷の紐を締め直す音が後ろでする。
ナギとレオはもう戸口の方を見ていた。
窓口の番が来た。
ミラさんが手の中の紙を検めて、控えの欄を埋めてから判を置く。
「荷は戸口の外に着いています。出立はそちらの支度次第で」
「お願いします」
隣の列でも判がひとつ鳴って、綴りをめくる音が続いた。
僕は控えを物入れに差した。
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外に出ると、脇に荷馬車が一台着いていた。
荷は布で覆われ、縄が浅く掛かっている。
布の上にはまだ雪は載っていない。
御者は年配の男だった。
挨拶より先に馬の脚を見せてくれる。
蹄の裏の氷は朝のうちに落としてあった。
馬の首を叩く手つきに迷いがない。
出る前に荷の縄を一回りだけ確かめた。
結びはどれも固い。
解いて直すところは無かった。
行きの道順を短く聞いた。
橋と回り道のことは紙のとおりだと言う。
聞き直すことは残っていない。
僕らは道の左右へ分かれた。
セナが御者台の脇につく。
レオは荷台の反対側へ回った。
ナギは僕と同じ側で少し後ろにつく。
いつもの持ち場だ。
御者が手綱を軽く上げて、荷馬車が動き出した。
車輪が朝の氷を薄く割る。
歩の速さは人の並足に合わせてあった。
東の門を抜けると風が変わった。
建物に切られていた風がまっすぐ頬へ当たるようになる。
上着の合わせ目から冷えが細く入ってきた。
街道の雪は轍のところだけ固い。
荷馬車の木が段差のたびに軋んで、また間遠になる。
雪の日は回り道と紙に書き添えてあったが、空は薄い晴れだ。
道は本道をそのまま行くと御者が言った。
僕は歩きながら数えた。
橋まで、集落まで、日暮れまで。
紙に書いてあった道のりを足の下で確かめていく。
便の馬車と一度すれ違った。
互いの御者が手を上げて、それきりまた道は空く。
徒歩の旅人が何組か僕らを追い越していった。
どの背中も荷が薄く、足が速い。
日のあるうちに次の宿場へ入る足だ。
道沿いの畑は雪の下にあり、掘り残しの根菜の葉が黒く出ている。
遠くの集落の煙が細く立って、途中で東へ折れていた。
道の端が崩れて直した跡が一箇所あった。
崩れた側に杭が打たれ、縄が張られている。
荷馬車はそこだけ道の真ん中へ寄って通った。
並木の間で風が鳴った。
枝の雪が落ちて、道の脇で低い音を立てる。
馬の耳がそのたびに動いた。
ナギの目は道の両脇を順に渡っていた。
歩きながら首を振らずに、目だけが動く。
拾う音のない日でも、目の動きは同じだった。
橋の手前で御者が速さを落とした。
書き添えてあった橋だ。
板は霜で白い。馬の足を一歩ずつ確かめながら渡った。
板の継ぎ目で車輪が硬い音を立てる。
渡り切ると道はまた平らになった。
ナギの歩幅がこちらへ寄った。
言葉はない。
半歩後ろのまま、足の落ちる音が揃っている。
集落の手前で犬が一度吠えた。
声は垣の内から出て、そこで止まった。
煙の匂いが近くなった。
昼前には集落へ着いた。
納屋の軒下に薪が高く積まれ、斧が切り株に立ててある。
冬支度の済んだ集落だ。
荷は納屋の前で下ろされる。
軽い荷と書いてあったとおり、下ろすのも早かった。
セナが荷台の上から箱を順に渡して、レオが受けて納屋の壁際へ積んだ。
納屋の主は荷の布を開けて、中の箱の数を紙と引き比べた。
数えるのは向こうの仕事で、僕は横で待つ。
それでも目は勝手に数えていた。
受け取りの判が紙に載った後、納屋の主が湯を出してくれた。
「助かる。指がもう曲がらねえ」
レオが椀を受け取って息を吹いた。
椀は縁が欠けていたが、湯気はまっすぐ立っていた。
両手で包むと指の先に熱が戻ってくる。
帰り支度の間、馬は雪の下の草を探して首を振っていた。
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帰りは空の荷台と一緒に西へ戻る。
車輪の音が行きより高い。
日が傾き始めていた。
影が後ろへ伸びて、風の当たりが変わる。
昼の冷えは頬に当たり、日暮れの冷えは足の先から来た。
荷が無い分でも御者は馬を急がせない。
日のあるうちに戻れる道のりだと、行きに数え終えている。
気がつけばナギが僕の横にいた。
行きの半歩後ろから、いつの間にか並びに変わっている。
セナは御者台の脇を歩いている。
「キミは帰り道も数えるんだね」
「癖だから」
「うん。知ってる」
車輪の音と、二人分の足音が続いた。
畑の雪の上を鳥の影がひとつ横切っていく。
僕は行きに数えた道のりを逆から数え直していた。
数は合っている。
合っていることを確かめるために数えていた。
ナギの足音は僕の右で薄い。
雪を踏む音まで軽い。
「最後に下りた日のことなんだけど」
ナギの声はいつもの高さだった。
橋が近づいてくる。
「柵の前で、下が静かすぎると思ったんだ」
橋の板が鳴る。
馬がまた一歩ずつ確かめて、渡り切った。
あの日、柵の先には水の音が無かった。
「思っただけで、口には出さなかった。下りるんだね、とだけ聞いたんだ」
僕は足元の轍を見ていた。
固い雪の上で自分の靴の音だけが数えられる。
橋を離れて、道は畑の間へ戻った。
西の日が正面から目の高さに来る。
「ボクも、見えていたものを後回しにした」
(俺は、数えられるものしか見ていなかった)
脇の杭で一羽の鳥が羽を休めている。僕らが過ぎても飛ばなかった。
「キミが悪いとは言わない。——ボクも同じだ」
歩数が一つ抜け、元の間隔に戻る。
ナギは前を向いたままだった。
置いた言葉を拾い直さなかった。
「僕も——」
先が続かなかった。
ナギは半歩前へ出て、また元の速さで歩いている。
帽子のつばの下で目は道の先にある。
道の先の空が薄い橙に変わっていく。
畑の境の石が長い影を引き始めた。
しばらくして、ナギが空を見た。
「明日も晴れそうだね」
「うん」
それだけだった。
息を吸うと、日暮れ前の空気が喉の奥まで冷たい。
吐いた息は白く、すぐ後ろへ流れて消えた。
耳の縁に冷えが残り、頬はもう乾いている。
畑の間の道が終わって、街道は緩い下りに入る。
街まで残りの道のりを、僕はまた頭の中で並べ直した。
道は日暮れへ向かって続いた。
空の荷台は軽いはずだった。
車輪の音は変わらないのに、足の運びは行きの速さに戻らない。
僕は歩数を数えるのをやめて、前の馬の尻だけを見て歩いた。
風が背中側へ回る。
日は稜線に近く、影は道の脇の雪まで伸びていた。
僕とナギの影が来た道の方へ長く落ちている。
歩くほどに影の頭は後ろへ離れていく。
腰の小盾の紐は結んだ日のままにしてある。
街の門が見えた。
門の火はもう入っている。
門の外の道は夕方の荷車で列になっていた。
僕らの荷馬車は空なので脇の並びへ回される。
順を待つ間、馬の息だけが太く白かった。
門番が荷台の布をめくって、空の底を確かめた。
控えの紙と引き比べて頷く。
荷馬車は門の内で止まった。
御者が判の付いた紙を渡してくる。
「助かったよ。冬の道は、人が並んでるだけで違う」
差し出された手を順に握った。
革の手袋越しでも手の熱が分かる。
護衛はここで終わりだ。
先の角でセナとレオが待っていた。
僕らが追いつくと、振り返らずに歩き出す。
歩幅はすぐに揃った。
角をいくつか折れる間、誰も口を開かない。
通りの灯りが一つずつ入り始めていた。
通りの雪かきの山は朝より背が低くなっていた。
崩れた分が道の脇で黒く凍り始めている。
通りの店は戸を半分入れ始めていた。
軒先の売り台が順に空になっていく。
どこかの竈の煙が夕方の匂いを混ぜていた。
ギルドの広間は夕方の人で動いていた。
精算の列は長く、判の音が間を置いて鳴る。
戸が開くたびに外の冷気が足元を流れていく。
壁際の掲示の板には夕方でも人が残っている。
明日の紙を探す顔ぶれだ。
僕は判の紙を出して、角を揃えて持ち直した。
前には泥だらけの長靴の男たちが並んでいる。
肩に縄の跡が残っている。雪下ろしの帰りだろう。
待つ間に体の外側から冷えが抜けていく。
背中は汗が乾いて、まだ冷たい。
窓口の奥では控えの綴りがめくられている。
紙の音と判の音が交互に続いた。
前の男たちが精算を終えて、銅貨を数えながら離れていく。
隣でナギが懐へ手を入れた。
小さな帳面が出てくる。
前に一度、報告の途中で出して、書かないまま戻した帳面だ。
ナギは表紙を開き、いくつかのページをめくった。
指が紙の縁を押さえて、止まる。
手元は袖の陰で、指が動いたかどうかは見えない。
列が進む間も帳面は開いたままだった。
帽子のつばが下を向いている。
表紙の革は角が丸くなっていた。
長く懐にあった丸さだ。
窓口の声が近くなる。
ナギは帳面を閉じて、懐へ戻した。
出した時と変わらない速さの手つきだった。
僕は何も言わなかった。
目も合わないままだ。
僕たちの番が来た。
紙を台に置くと、板の冷たさが指の腹に触れる。
窓口の人が控えと突き合わせて読み上げた。
読み上げは短い。
護衛の完了と、額と、日付。
判が下りて、控えがこちらへ回された。
銀貨が台を滑ってくる。
数えて、台の上で四つに分けた。
取り分は行きの道で決めたとおりだ。
二つをナギとレオの手へ渡す。
残りを袋へ戻して物入れへ仕舞った。
精算を済ませて広間を抜けた。
外はもう夜の色が入り始めている。
軒下の灯りに雪の粒がひとつふたつ光った。
積もるほどの降りではない。
四つ角の手前で足が二手に分かれた。
挨拶は短い。ナギとレオの背が、東の通りの暗さへ入っていった。
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夜、灯りの油を足してから卓の端へ寄せた。
油が回ると皿の縁が先に温まる。
手をかざすと縁のところだけ熱い。
靴の紐を緩める。裏の雪は戸口で落としてきた。
上着を掛けて、その下に小盾を立てる。
昨日の位置に立てた。
椅子を引くと、卓の縁の冷えが袖越しに届く。
灯りの芯を一度整えた。
ノートを開く。
重しの石でページを押さえた。
今日のページに行き先と橋の霜と帰りの刻を書いた。
判をもらって精算まで済んだことも書く。
崩れて狭くなっていた場所も一行にした。
次に東へ出る日に使う行だ。
炭は止まらなかった。
行の頭も決まっている。
昨日の夜より下りるのが早い。
次の行の頭で、一拍だけ間が空く。
(あの日、俺も後へ回した)
息を吐いて、短い行をひとつ足した。
炭を置く。音は昨日より低い。
指の先が黒くなっている。
布で拭って、白湯の椀を持った。
椀の温みはまだ残っていた。
喉を下りた温みが胸の奥で薄く広がる。
明日の分の水を確かめて、袋の口を締め直した。
油の瓶も棚の元の場所にある。
窓の桟から夜気が細く入ってくる。
階下で戸締まりの音がした。
それきり物音は絶えた。
寝る前にもう一度だけノートを見た。
開いたページの行は乾いて、粉の艶が消えている。
開いたページは砥石の下で平らなままだ。
僕は灯りを消した。
暗さの中で、椀の温みだけが手に残った。
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朝の通りはもう荷車の輪が鳴っていた。
霜が軒下に白く残って、日の当たる側から薄くなっていく。
どこかで雪をかく音がしている。
セナと並んで通りを二つ抜け、東の四つ角へ向かった。
息が白く出て、光の中で薄く散る。
水たまりは薄い氷のまま日を返している。
人はまだ少ない。轍が先に東へ延びている。
二人はもう立っていた。
ナギが帽子のつばを浅く下げて、レオは杖を肩に預けている。
僕らが着くと、レオが先に歩き出した。
ナギが半歩ずらして続く。
並びが四人になった。
誰の口も動かないまま、四人分の足音が続いた。
並びは昨日の道と同じで、間だけが少し詰まっている。




