第90話「帰り荷」
帰りの隊が決まってから十日が経った。
道具は全部手元に戻っていて、袋の詰め方ももう決めてある。
投げるための刃は、残りの日で投げ具合を確かめた。
柄尻は四本とも削って手に合わせてある。
指の腹に当たる角がどれも同じだ。
出立の朝は日が上がる前から着け場が動き出していた。
縁を煙で黒ずませた石柱の門が、扉のないまま朝の色に沈んでいる。
その内側で毛皮の束と樽が荷台へ積まれていく。
積む順は行きと変わらない。樽を先に沈めて、毛皮の束が上へ載る。
僕の持ち場は荷車の山側に決まった。
レオが列の後ろ寄りへ回り、ナギは僕の二つ前の車に付く。
縛りを確かめて回っていると、セナが空を見上げたまま動かなくなった。
「リク。風が湿ってる」
言われて顔を上げた。
坂を上ってくる風から埃の匂いが消えて、代わりに土の湿りが乗っている。
谷の奥では白い雲が音もなく背を伸ばしていた。てっぺんだけが先に朝の色を受けている。
セナが古株の御者のところへ歩いていって、見たままを短く伝えた。
御者は空を見上げ、手の甲を風に当てた。それから列の端まで声を張る。
「昼休みは前へ回す。出発を早めるぞ」
積み込みの手が一段速くなった。
決めていた刻限より早く隊は石柱の門を出た。
石柱の間を抜けるとき、黒ずんだ縁が肩のすぐ横を過ぎていく。
つづら折りを上がる途中で一度だけ振り向いた。
段になった街の上で、炉の煙の柱が朝の光の中に立っている。
上るほど鎚の音は薄くなって、やがて途切れた。
煙の匂いだけがしばらく鼻に残り、それも風で抜けていく。
着いた日と逆の順に、火の街が遠くなっていった。
風は峠の方から下りてきて正面に当たる。
行きはこの坂で背中を押される側だった。
昼を回った頃、後ろの空に雨の柱が立った。
谷の底が灰色に煙って、雷の音が遅れて届く。
雨はこちらまで届かない。
湿った風で荷の幌が一度膨らみ、すぐ元に戻った。
御者がセナの方を見て前へ向き直る。
それきり誰も雨の話はしなかった。
峠を越えるまで僕らの通った道はずっと乾いていた。
峠の上の詰所は変わらず、風だけの場所だった。
白い石の間で膝より低い草が伏せては起きる。
空気が薄い。荷を押す息が浅いまま戻らない。
商人が書付を見せ、僕らは胸元の証を見せるだけでいい。
判の音は書付の側にだけ鳴った。
詰所を過ぎると西の下りが一息に開けた。
谷を埋めた緑は行きよりも深かった。
セナが荷の横で足を止めてその緑をしばらく見ていた。
崖沿いの道に入ると左が岩壁で右が谷になった。
荷の軋みが岩壁に当たって返ってくる。
下りに入っても風は谷から吹き上げて顔に当たり続けた。
水場ごとに隊は止まり、馬が先に飲む。
従者がその後ろで革袋を詰め直した。
下りの道はまだ長い。
振り返ると峠はもう雲の中で、詰所の石積みも見えなかった。
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峠を越えてから数日が経過した。
西へ下るつづら折りはまだ続いている。
昼の休みでは固い平パンを火に当てた。
炙れた面から山側の持ち場へ回していく。
すれ違う東行きの隊とは御者同士が手だけで挨拶を交わした。
どの隊の荷も布で覆われて、膨らみの形だけが違う。
行きに見た西行きの荷も毛皮の束と樽で、今は僕らがその側にいる。
夜は街道沿いの平地に火を並べた。
よその隊の火も道に沿って点々と続いている。
レオが先に風の向きを確かめ、石を置いて火の場所を決めた。
見張りの割りは古株が仕切り、若手は夜半までと決まる。
僕の番は今夜も前半だった。
番の間は火の列の切れる先を見ていた。
峠の側の空が低いところまで暗い。
星は数が減ってその分だけ一つずつ明るい。
草の中で鳴く声は途切れがちだった。
番を替わってから火のそばに座り直した。
レオが新しい砥石へ自分の剣を軽く当てている。
「慣らし?」
「ああ。下ろしたては面がざらつくからな」
往復は少なく音も低い。
石の面を明かりに透かしてからレオは布で拭いて仕舞った。
僕の短剣は今日は使っていない。
荷縄を切った日の夜にだけ石を出す、と決めてある。
代わりにノートを開いて炭の先を削り直した。
削りかすを膝の脇へ落として、カルデグで見たものや職人から聞いたことを覚えているうちに並べていく。
ページの頭に、脈の側、と書いた。
炭が紙に乗る音が火の爆ぜる音の合間に短く挟まる。
炉の火、地の脈の吹き出しから取る。脈そのものは測れない。
火の色、湯気の立ち方、井戸の温み。
毎日同じ刻限に同じやり方で見て差を拾う。
書いてから、坂の上の井戸を思い出した。
上の段へ行くほど朝の水はぬるかった。
井戸の行の横に小さく丸をつける。
丸は後で確かめ直す印だ。
炭を置いて手を火にかざした。
夜風は乾いていて、指の間を抜けるときだけ少し涼しい。
火の粉が上がって荷の幌の手前で消える。
繋ぎ場で馬が一度だけ鼻を鳴らした。
セナは杖を膝に載せたまま、火の向こうで先に眠っていた。
ナギは帽子を顔に載せ、壁のように積んだ荷へ寄りかかっている。
寝る前にノートを仕舞って袋の口を縛り直した。
同じ形の夜がそれからいくつか続いた。
火を囲む場所が変わっても、ノートの行は決めた順で増えていく。
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山裾のつづら折りを下り切ると、板を渡した橋に出た。
荷車が一台ずつ渡って、渡り終えた御者が後ろへ手を上げる。
板の鳴る音が行きより軽い。下を流れる川は水が減っていた。
祠の前を過ぎると、椀の水も摘んだ草も新しく替えられていた。
行き先と道のりを彫った石の字を歩きながら目でなぞる。
草の原は先の方から色が薄くなり始めていた。
穂が出て、緑に白が混ざっている。
朝の光も来た時より低いところから差した。
草の原を抜けると畑帯に入った。
畑の間の道が半日続いて、その先にクレウスの東門が見えてくる。
門は荷の検めだけで通れた。
門番が幌の端を持ち上げ、中を一目見てすぐ戻す。
街に入ると隊は解かれた。
御者が僕らの方へ手を上げ、荷の列は市場の側へ折れていく。
「ボクらは荷を置いてくるよ。ギルドは任せていいかい」
「うん。判はこっちでもらっておく」
ナギとレオが自分たちの宿の方へ歩き出す。
セナも自分の袋を担ぎ直して先に宿へ戻った。
ギルドへの道順は考えるまでもない。曲がり角を足の方が覚えている。
日差しは白くて高い。
石畳の照り返しが夏の残りの熱をまだ持っている。
水売りの声が通りの奥で間延びして聞こえた。
市の通りは日除けの布が数を減らして、夕方の風を待つ店の並びに替わっていた。
ギルドの広間は昼下がりで人がまばらだった。
掲示の紙は行く前とすっかり入れ替わっている。
読みには行かず窓口へ進むと、ミラさんが顔を上げた。
「リクさん、護衛の控えですね。お預かりします」
セナたちの分も含めた控えをまとめてミラさんへ渡す。
読み合わせは短い。控えに判が鳴った。
「これで処理は完了です、お疲れ様でした。それから、留守の間の便が溜まっています」
台に置かれたのは紐で括った紙の束だった。
封の焼け方が上と下で違う。
一番上の封だけ窓口の脇で開けた。
母さんの字は癖が変わっていない。
いい日が続いているとあった。
最初の一枚だけ読んで畳み直した。残りは宿で読む。
続けて次の為替を出した。
ミラさんが月を読み上げて控えを切り離す。
「お預かりします。手続きは以上です」
紙の束は袋の上の方へ入れた。
外へ出ると、日はまだ高いところにあった。
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夕方の宿、広間にはマルセルたちがいた。
街道の巡回から戻ったばかりのようで、卓に湯気の立つ椀が並んでいる。
エマが先に気づいて椀を置いた。
「おかえり。あんたら、焼けたね」
「峠を二度越えましたから」
椅子を寄せる前に布ごと剣をマルセルへ差し出した。
「預かっていた分です」
「おう」
マルセルは布を開いて鞘を払った。
広間の灯りが刃の面を滑って、切っ先の手前で止まる。
刃を立て、刃筋を指の腹で一度だけなぞった。
「悪くねえ」
鞘へ戻し、布ごと椅子の脇に立てかける。
「手間かけたな」
「いえ、研ぎ代は僕が立て替えています」
「いくらだ?」
覚えている額を言うと、卓に銀貨が置かれた。
マルセルは数え直さずに椀へ向き直る。
椅子を引いて腰を下ろすと、卓の端まで椀の湯気が届いていた。
「そちらはどうでしたか」
「街道を歩いただけだな。日帰りの回りばかりで夜は受けてねえ」
「変わったことはありませんでした?」
「埃と、たまに獣の跡だ。跡はユルが数えてある」
ユルが椀の湯気の向こうで頷いてから言った。
「静かな夏でしたね」
エマが匙を椀の縁へ置いた。
「巡回は道が長いだけでね。あんたらの峠の方が話になるよ」
「帰りは荷の護衛でした。毛皮と樽です」
「ふうん。積む側になったんだ」
セナが杖を壁へ立てかけて座る。
「向こうはすごかったよ。坂がぜんぶ仕事場なの」
「ダグ以外のドワーフも初めて見ました」
エマが手を止めて短く笑った。
「まあ、土産話はおいおいな。飯は?」
「これから」
エマが給仕の方へ手を上げる。
椀が二つ増えて、卓の湯気が濃くなった。
火の街の話は椀が空くまでの間に少しずつ出た。
炉の数のこと。段ごとに違う坂の音のこと。
青い戸の工房のことはセナがいちばん長く話した。
腰のナイフを鞘ごと外して巻き直した柄の革を握って見せている。
「濡れても滑らないんだよ。ほら」
エマが柄を握り返して、目の高さで一度ひねった。
「粗いね。手は痛くないのかい」
「ちょっとね。でも滑るよりいいから」
ユルが自分の椀を脇へ寄せて覗き込む。
卓の上で柄がもう一周した。
マルセルは口を挟まずに食っていた。
椀を先に空けて、二杯目は頼まずに湯を貰っている。
剣は椅子の脇に立てかけたままだ。
話が炉のことへ移っても、その置き場所は変わらなかった。
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部屋の灯りを細くして、返信の束の残りを読んだ。
ルナ叔母さんの字と母さんの字が交互に重なっている。
封は着いた順に並べ直してから開けた。
畑の話と道の話が多い。
字は最後の一枚まで乱れていなかった。
叔母さんの字はどの一枚も最初の行から用件だ。
読む順に迷わなくていい。
読み終えた束を畳んで袋へ戻し、ノートを出した。
机の上には炭とノートだけが残った。
灯りを引き寄せると、表紙の擦れた角が影を作る。
袋の中で反っていた背を手のひらで押して平らにする。
紙の重なりが厚くなった分だけ、閉じ口が少し浮いていた。
水位の欄のページは、夏の線が初めの数本で止まっている。
最後の線は峠へ発つ前のものだった。
そこから先は日付も線もないまま、紙の白さが続いている。
計り直すのはまた坑口に立つ日からでいい。
秋に入れば水は引きに転じて深層が開く。
帰りの野営で夜に書いたページも一度だけ読み返した。
炭を持ったが足す行はなかった。
窓を少し開けた。夜風に昼の熱は残っていない。
風の底へ、指先だけで分かるくらいの冷たさが混ざっている。
朝晩から先に季節が替わっていく。
水差しの水を一口飲んだ。
ここの井戸の水は、峠の向こうの上の段よりも冷たい。
虫の声は出る前より低いところで鳴いている。
夏の初めに高く鳴いていた声はもう混ざっていなかった。
窓の外で山影が黒く重なっている。
旧坑のある方角だけ稜線が一段低い。
坑口はここからは見えない。
山の重なりの、いちばん奥の暗さの中にある。
昼に歩いた通りの灯りが坂の下でまばらになっていく。
その先は山の黒さだけになった。
上の階で窓の開く音がした。
セナの部屋も同じ側を向いている。
カルデグでは夜も炉の火が落ちなかった。
この山の下では、水が音も立てずに流れている。
同じ脈があの街からここまで続いているはずだ。
灯心を一段下げると、部屋の中より外の方が明るくなった。
星が稜線のすぐ上まで下りている。
窓の桟に手を置いたまま、しばらく山影を見ていた。
桟は夜のあいだに冷えていて、手のひらの下がひやりとする。
手は動かさない。見るだけだ。
机の上でページの端が夜風に一度持ち上がり、静かに戻った。
山影は動かない。
その下を通るものだけが季節と一緒に動いていく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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