第89話「刃が戻るまで」
道具を預けてから二日が経過した。
今朝は二つ上の段から鎚の音が聞こえ始めた。
遅れて下の段が重なっていく。
刃が戻るまでの間にやることは、それぞれ決めてある。
朝、ギルドで帰りの日取りを確認したが、まだ埋まっていない。
少なくとも、預けた道具が戻る半月後までは街を出る日も来ないようだ。
着け場の脇では西行きの荷が日陰に積み直されていた。
動かない荷は縛りだけが確かめられている。
宿に戻ってから昼食をとり、レオと二人で坂を下った。
仕上げ用の砥石は坂の下の石屋に出ていると聞いている。
石屋の並びは水音でわかった。
どの店も台の脇に水桶を置いて、売り物の石を時々濡らしている。
値札はない。聞けば売り手が石を見てから答える。
一軒目は間口が狭く、石が目の粗い順に並べてあった。
売り手のドワーフは客を見ず、崩れた石の向きだけ直している。
「仕上げ用を探してる」
「奥の列だ。好きに見ろ」
台の石は濡れた側と乾いた側で色が違う。
レオは乾いた面の石をひとつ取り、面を明かりへかざした。
それから桶の水を指ですくい、面の真ん中に一滴落とす。
教わった見分けを試すと、水の玉は面の上でしばらく丸いままゆっくり沈んでいった。
隣の石にも一滴。こちらはすぐ引き込まれて濡れた跡だけが残った。
レオは先の石へ戻り、縁の欠けと厚みを見た。
それでも棚へ戻して店を出る。
「今のは駄目だった?」
「引き込みは遅かった。ただ、面の隅に細い筋が入ってた。あれは使ってるうちに割れるな」
二軒目は台が広く、石の他に秤や槌も並んでいた。
レオは端から順に三つ試して、三つとも棚へ戻した。
戻す時も面の向きを揃えて置く。
売り手はその手つきを見て、奥の列を顎で示した。
それから数軒を回ったが、見分けを満たす石は手に入らなかった。
気がつけば坂の鎚の音が少なくなっていた。
今日はここまでにして、二人で坂を上がった。
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その二日あと、また朝のうちに坂を下りた。
残りは通りの奥の二軒だ。
一軒目は台の石が大きく、切り出しの角がまだ白い。
売り手はレオの手元をしばらく見ていた。
「その見分け、上の炉で教わったな」
レオは答えずに次の石へ一滴落とした。
売り手はそれ以上聞かず、桶の水を足しに立った。
ここの石は玉の沈みがどれも早かった。
レオは面の向きを揃えて戻し、黙って店を出る。
最後の店は山肌のいちばん近くにあった。
奥の列に、水がいちばん長く残る石がある。
売り手は何も言わずに桶の水を足した。
濡れた石が並びの奥まで黒く沈んでいる。
僕は隣で待つ間、玉の消える速さを見比べていた。
石によって倍も違う。
玉が沈み切るまでレオは腕を組んだまま動かない。
掌に載せて重さを量り、最後にもう一滴落とした。
「これにする」
売り手は石を古布で拭いてから包んだ。
「下ろしたてだ。最初のうちは面がざらつく。軽く使って慣らせ」
レオは値を聞いて銀貨を置いた。
受け取った包みの結び目を確かめてから袋の口へ入れる。
売り手が僕の腰の袋へ目をやった。
「そっちの兄さんは」
「間に合ってます」
僕の石は宿にある。
面直しを済ませた面は窪みが消えて、水が溜まらなくなっていた。
戻りの通りで、はじめの日に寄った店の前の荷下ろしに行き合った。
山から下りたばかりの石が台へ移されていく。割れ口がまだ白い。
レオは横目で見ただけで通り過ぎた。
買う石を決めた日は、それ以上は見ない。
坂を上がる途中でレオは包みを持ち直した。
「長く使えば、この石も角が落ちるんだろうな」
それだけ言って、あとは黙って歩いた。
帰りは進み具合を見るつもりで、青い戸の工房へ寄った。
土間には昼の熱がこもっている。頼んだ刃はまだ台になかった。
台の端に丸い小盾がひとつ立てかけてある。
「これは売り物ですか」
「試しに一つ作った。剣を使う人間向けだ」
職人は手を止めずに言った。
「珍しく手に入った金属を使った。軽くて硬い。試作だから値は張らん」
手に取ると片腕で振り回せる軽さだった。
表は見たことのない金属で、中心が浅く盛り上がっている。
縁には薄く金が回してあった。
裏の革の帯は二本。
手を通して腕に当てると肘の内側にちょうど収まる。
肘から先だけで向きを変えられた。
腕を下ろすと腰の横に収まり、縁の上から前が見える。
振っても留めの金具は鳴らず、付けたまま道を歩ける。
レオが縁を指で弾いた。
「マルセルは大きいのしか持ってないし、片手で扱う分には悪くないかもな」
「そうだね。荷と得物で手が塞がる道でもこれなら扱いやすい」
若い衆が砥ぎ場の水を替える手を止めて口を挟んだ。
「あんたら親方に気に入られたな。試作のものを見せてもらえるなんて珍しいんだよ」
職人は手元から目を上げなかった。
僕はレオと顔を見合わせると、帯を外しながら職人に声をかけた。
「これもお願いします」
職人は僕から小盾を受け取り一度持ち上げ、留めの革を確かめてから再度寄越した。
値を聞いて銀貨を置く。職人は台の縁へ寄せただけだった。
布を貰って包み、袋のいちばん底へ入れる。上から自分の道具を重ねた。
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三日おいて、昼過ぎに宿の裏の空き地へ出た。
空き地は炉の並びから離れている。
鎚の音が薄い分だけ、石の音がよく聞こえた。
塀の際に薪を一本立てて十歩離れる。
薪は手首ほどの太さだ。
袋から出した四つの石は、選り直した時のまま揃っている。
一つ投げて、当たりどころと落ち方を見る。
拾いに行って同じ場所からまた投げた。
当たると乾いた音が鳴る。
外れると塀の土を叩く鈍い音になる。
拾いに行く前に音で当たり外れが分かった。
最初の十回は散りが大きかった。
峠を越えてから投げる暇がなかった。
振りの速さを一段落として、散りが戻るのを待つ。
十回投げて散りを見る。手の幅に収まったら五歩下がってまた十回。
手の汗は投げる前に拭く。
風向きが変わるたび、鎚の音の届き方が変わった。
頼んだ刃はまだ手元にない。
それでも腕の振りと石の行き先は、今のうちに手へ入れておける。
渡される四本には柄尻に削り代が残っているはずだ。
石の落ち方が体に入っていれば、削る量の見当が早く付く。
四つのうち一つだけ、わずかに右へ流れる石がある。
角の落ち方がほかと違う。その一つは投げる順の最後に回すと決めた。
薪の根元の土に窪みが寄っていく。
窪みの寄りがそのまま今日の散りになった。
途中で一度だけ、宿の勝手口から主人が顔を出した。
塀の薪を見て、何も言わずに引っ込む。
的にした薪はあとで割って竈へ返すつもりだ。
セナは空き地の反対の隅にいた。
杖は工房にあるので、指先から光を出しては消している。
光は土に触れる前に切れた。
そのたびにセナは手の形を変えている。
ナギは昼前に坂の上へ得物を見に行った。
帽子を目深に直して出て行ったきり、まだ戻らない。
最後の十回は狙った薪の根元へ続けて落ちた。
石を拾い集めて袋へ戻す。
部屋から砥石を取ってきて、塀の際に腰を下ろした。
水は勝手口で椀に貰った。
腰の短剣を抜き、水をかけた砥石に刃を軽く当てる。
往復は少なめに切り上げて、刃を明かりに立てた。
鞘へ戻して砥石を拭く。
その後も日を置いて同じことをした。
散りは少しずつ寄っていく。
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約束の夕方、四人で二つ上の段へ上がった。
坂の鎚の音はもう半分に減っている。
青い戸は開いたままだ。奥の炉は火が細い。
台の前に先客はなく、若い衆が火床の灰を掻き出しているところだった。
職人が奥の棚から道具を順に台へ並べていく。
並べ終わるまで誰も口を開かなかった。
肩当てを取ると革は柔らかさが戻っていた。曲げても折り目が白く浮かない。
腕を通して回すと革が肩に沿って動いた。
袋の帯は金具ごと新しくなっている。
指を掛けても遊びがない。
灯りの覆いは一度振って確かめた。
坑の中で鳴っていた小さな音が消えている。
ナギが自分の剣を軽く振って鞘へ戻した。
「鳴らなくなったね」
つばの下で、刃を検める目だけが動いている。
セナの杖は金具が固く締まっていた。
握って一度回し、背へ負い直す。
マルセルの剣は布を開いて僕が確かめた。
研ぎの目が根元から先までそろっている。切っ先の丸みが消えていた。
鞘へ戻し、結び目も預けた時と同じ形にして巻き直す。
職人はその手元を見ていたが何も言わなかった。
新しく頼んだ刃は布に巻いて渡された。
四つ折りの布を開くと、四本が間を空けずに並んでいる。
磨きの艶は抑えてあり、明かりの下でも光が散らない。
一本取って手に載せた。
掌に収まる長さで、柄尻の側だけが厚く残してある。
二本目、三本目、四本目と載せ替えても、重さの違いは指では拾えない。
「秤は要るか」
「いえ。投げて確かめます」
宿の裏へ投げ込んだ石の落ち方は腕に残っている。
削る場所の見当も付けてあった。
職人は短く息を吐いた。
「ここから合わせるのはお前の仕事だ」
「はい」
四本を布ごと受け取り、袋の中の石の隣へ仕舞った。
最後に職人がセナのナイフを取った。
鞘を払い、刃を一目見てから柄を先にして差し出す。
柄には目の粗い革が巻かれていた。
セナが握り、指の掛かりを確かめて一度だけ強く握り直す。
「濡らして使ってみろ。もう滑らん」
手を離す前に職人は言った。
「日で数えるな。使った日の夜に軽くやれ。重い研ぎが要らなくなる」
セナがナイフを持ったまま半歩前へ出た。
「軽くって、どこでやめれば良いんですか」
「刃を見て決めろ。曇りが取れたら仕舞いだ。どうしても分からなければ小僧にでも聞け」
セナは一度僕を見てから、刃を明かりへ立てた。
研ぎたての刃に曇りはない。
「この明るさを、覚えておきます」
職人は返事をしなかった。褒めもしない。
隣でナギが帽子のつばを持ち上げた。
「ボクも夜の側に変えようかな。誰かさんに見てもらえるしね」
職人はそちらにも答えず、僕の腰へ顎を向けた。
「短剣も剣も同じだ」
セナが僕の腰の短剣を見て、それから職人へ目を戻す。
「だから、預からなかったんですか」
「持ち主がやる方が早い。夜のうちに戻せる手がいちばん近くにある」
代金はそれぞれ自分の分を出した。
刃の四本とマルセルの剣の分は僕が持つ。職人は数え直さずに金箱へ落とした。
若い衆が空いた端から台を布で拭き始めた。
次の客の得物がもう戸口に立てかけてある。
セナの腰で、巻き替えたばかりの柄革が乾いた色をしている。
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夜、広間の卓に道具を並べた。
夕食の器は下げられて、残っているのは僕らだけだ。
灯りは卓の上だけを低く灯している。
ナギは剣の留め金具を布でなぞり、レオは新しい石を古い石の隣に置いていた。
「帰りの隊が決まったってさ。十日後に西へ出るよ」
ナギが帽子を卓に置いて言った。
壁の書付の空きが、日で埋まったことになる。
レオは先日買った石を並べたまま頷いた。
袋はいちばん底の包みごと椅子の脇へ立てて置いた。
宿へ戻ってすぐ、刃を巻いてきた布の余りと縛りの紐を短剣で切っていた。
鞘を払って刃を明かりに立てると、紐の当たった所に薄い曇りが出ている。
石は卓の端に据えて下に布を敷いた。
水は椀に半分だけ竈場で貰ってきた。
石に水をかけ、刃を軽く当てる。
往復の数は少ない。音も低い。
広間の隅までは届かない音が手元ではよく聞こえた。
手を止めて刃を立てる。曇りは端に薄く残っていた。
もう数回だけ当てて、また立てる。曇りが取れたところで仕舞いにした。
椀の水に灰色が薄く沈んでいる。
石の面は乾く前に布で拭いた。
セナが横で見ている。
膝の上のナイフは鞘に入ったままだ。
刃を鞘へ戻し、石を布に包み直した。
セナの目は、まだ僕の手の上にある。
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