第88話「青い戸の職人」
カルデグに着いてから三日が過ぎた。
夏も中頃に入って、坂の石は日が出るとすぐに熱くなった。
レオは石屋を回り、ナギは坂を上まで歩いて戻ってきた。
青い戸の炉の前も通って、三日目の朝から手が空くと戸口で聞いてきた。
セナは宿の裏で杖を振っていた。
輪でも糸でもない術を朝から順に試している。
杖の先の光が土の上で丸くならずに散る。
形になる前に消えて、また構え直していた。
一度だけ、光が地面から立ち上がって壁のように残った。
数を二つ数える間で崩れる。
セナはその場所の土を靴の先で均して次を構えた。
帰りの隊はまだ組まれていない。
道具はまだ袋の中にある。
詰まっている間は預かりもしないと言われた。
空きの日の朝はギルドへ寄った。
掲示の紙はクレウスより数が少なく、代わりに一枚が長い。
坑の水抜き、鉱石の運び出し、峠道の護衛。
どれも人数と日数が先に書いてあって、報酬はその下にあった。
買取の窓口も覗いた。
同じ魔石でも、こちらは小さい石の値がいい。
魔導具に埋める分だけ数が要るのだと窓口の男が言っていた。
宿に戻りページを縦に割って書いた。
左にクレウス、右にカルデグ。
掲示の書き方と、値の付き方を並べる。
違うところだけが目で拾えるようになる。
三日目の夜、広間の卓に頼む物を並べ直した。
ナギの剣、僕の肩当てと袋の帯と灯りの覆い。
セナの杖と、布を巻いたままのマルセルの剣を端に置く。
いつの間にか裏から戻ってきたセナが、並びを指で数えて顔を上げた。
「明日、やっと出せるね」
「頼む物は決まってる。明日は出すだけだよ」
並べた物を布ごとまとめて卓の端へ寄せた。
明日そのまま担げる順にしてある。
セナがマルセルの剣の布の結び目を直して端に戻した。
広間の窓の外は上の段だけがまだ赤い。
炉の火は夜も落とし切らない。宿の主人がそう言っていた。
---
翌朝、鉄を打つ音は今日も同じ数だけ鳴っていた。
坂の下からは荷を担いだ男たちが上がってくる。
道具の袋とマルセルの剣を分けて持ち、四人で二つ上の段へ上がった。
戸は名前のとおり青く塗られ、縁だけが煙で黒ずんでいる。
開いたままの戸の奥で炉が鳴っていた。
土間は戸口から見えるよりも奥に深い。
奥の炉には火が入っている。
若い衆がひとり、長い取っ手を前後に押していた。
押すたびに火の色が濃くなる。
炉の熱は入り口まで届き、革と油の匂いがその上に重なっていた。
台の奥の壁には得物が段ごとに掛けてある。
古い掛かりの物ほど油の色が濃い。
台の脇では砥ぎ場の水が細く流れている。
先客がひとり台の前に立って、自分の斧を待っていた。
客の立つ側に椅子はひとつもない。
奥から出てきたのはドワーフの職人だった。
髭は短く刈ってあり、前掛けの革は焼け跡だらけになっている。
声は低く、言葉より先に手が動く男だった。
職人は先に斧を仕上げて男へ渡した。
男は代金を置き、斧を担いで出ていく。
入れ替わりに台の前へ進んだ。
「道具の手入れをお願いします。三人分と、預かり物がひとつです」
職人は返事の代わりに顎で台を示した。
依頼をするのに名前は聞かれなかった。
胸の証を出す間もないまま、段取りだけが決まっていく。
ナギは戸口寄りに立ち、つばの下から土間を見回している。
レオは壁に掛かった得物を下の段から見ていた。
台の上へ順に並べていく。
ナギの剣に僕の短剣。肩当てと袋の帯に灯りの覆い。
セナは渡す前に杖の金具を袖で一度拭いた。
その杖と布に巻いたままのマルセルの剣を端に置いた。
台の縁に手が触れると、炉のそばなのに鉄はひやりとした。
職人は肩当てを手に取り、革を曲げて折り目の白さを確かめる。
「縫い直して油を入れ替える。三年は使ってるな」
「はい。ちょうど三年です」
次に袋の帯を手に取ると、金具の穴に指を掛けた。
「穴が広がってる。金具ごと替えだ」
三年で二度縫い直した帯は、縫うだけでは追いつかないところまで来ていた。
灯りの覆いは振ると小さく鳴った。
「留めが遊んでるな。打ち直す」
「その音、坑の中だとよく響くんです」
セナが横から覗き込んで言った。
職人は覆いを台に置いて、次に杖を取る。
金具の緩みを指で回して確かめた。
「これは締め直すだけでいい」
セナが息を吐いて、握りの下を指でなぞった。
続けて僕の短剣を取り鞘を払った。
刃を明かりへ立てて、切っ先の側だけを見る。
「研ぎは自分でやってるな。筋は悪くない」
「リク、ガレンさんの鍛冶場で研ぎの手伝いしてたもんね」
セナの一言を聞いた職人は一度だけ顔を僕に向けた。
値踏みではない、何かを確かめるような目つきだった。
「これは預からん。自分で続けろ」
職人は短剣を台に戻し、マルセルの剣の布を開いた。
結び目を切らずに指でほどく。
布を開く間も砥ぎ場の水は流れ続けている。
鞘を払い、刃を炉の明かりへかざして根元から先まで目でたどる。
刃の減った所だけ、明かりの返りが鈍い。
職人が刃を返すたび、光の帯が浅い所と深い所で段になった。
「切っ先が丸い。減り方が両側で同じだ。まっすぐ入れて、まっすぐ抜いてる」
太い指の腹が刃の手元側をゆっくりなぞった。
途中で一度止まって、また戻る。
「峰の中ほどに当たりがある。押してるな。これは受けた跡じゃない」
「受けるのは、別の物で」
「だろうな。剣で受ける奴の刃はこうならん」
職人は刃を明かりから外した。
「研ぎ直しで足りる。打ち直す所はない」
「そのままで大丈夫ですか」
「ああ。触るところはない」
職人は柄と鍔も確かめてから剣を鞘へ戻した。
「柄はまだ保つ。研ぎと油だけ入れる」
レオが台の横から刃の仕舞われた鞘を見ていた。
何か言いかけて、やめた。代わりに一度だけ頷いた。
セナは剣の置かれた場所をもう一度見てから目を戻した。
「持ち主に伝えることは」
「ない。このまま使わせろ」
剣は仕事の棚にほかの得物と並べて寝かされた。
巻いてきた布はたたんで剣の横に置かれる。
最後にナギの剣を取った。
鞘を払うと細身の刃が炉の明かりに細く光った。
根元から先まで目でたどり、そのまま鞘へ戻した。
「いい剣だ。減りが正しい」
柄を握って軽く振ると、中で小さく鳴った。
「ここは詰め直す。当たりが減ってる」
誰が打ったのかも、どこの拵えかも聞かれない。
帽子のつばの下でナギが小さく息を吐いた。
「他にあるか」
「はい。作ってもらいたい物が」
「昼に来い。朝は手が塞がってる」
僕らは頭を下げて坂を下りた。
---
市で昼を済ませてから坂を戻った。
昼の土間は朝より熱い。
奥の炉で若い衆が薄い鉄を延べている。
高い音が休みなく続いていた。
台の前に立つと、職人は手を止めてこちらを見た。
「投げるための刃を作ってもらえますか。四本、同じ重さで」
職人はすぐに答えなかった。
「今は何を投げてる」
「石です」
袋から布の包みを出して、台の上で開いた。
掌に収まる石が四つ並ぶ。角は落ちていて、どれも同じくらいの大きさだ。
職人は一つ取って手のひらに載せた。
二つ目へ持ち替えたところで、その手が止まる。
三つ目。四つ目。
載せるたび確かめる間が長くなっていく。
「同じ重さに揃えてあるな。誰の仕事だ」
「自分で選りました。重さが違うと、投げた時の狂いが出るので」
職人は黙って台の奥へ歩いた。
戻ってきた手には小さな秤が提がっている。
皿は掌ほどの大きさで、分銅は使い込まれて角が丸い。
台の粉を袖で払ってから、職人は秤を置いた。
皿に石を一つ載せ、分銅を置いて針を見る。
皿が小さく鳴って針が振れ、止まる場所を確かめる。
載せ替える。針は同じ場所で止まった。
もう一つ。針は動かない。
職人はもう二つを黙って載せ替えた。
針の止まる場所は変わらない。
セナとレオが台の両側から皿を覗き込んでいる。
途中で客がひとり入ってきた。
台の端に鉈を置き、秤と僕を一度見て、そのまま出ていく。
足音が坂の音に混ざって消えた。
職人が秤から顔を上げ、初めて僕の顔をまっすぐ見た。
奥へ引っ込むと、丸椅子をひとつ提げて戻ってくる。
先客の前にも出さなかった椅子が僕の前に置かれた。
「座れ。選りの手を聞かせろ」
腰を下ろすと職人と目の高さが並んだ。
レオが横で短く笑った。
セナは何も言わない。横顔だけが少し得意げだ。
「どこで教わった」
「教わっていません。投げてみて、届く距離が違ったので選り直しました」
「何で量る」
「手で比べて、投げた落ち方で確かめています」
職人は手の中の石を一度回した。
「石で足りてるなら、刃はいらんだろう」
「坑の中では拾い直せません。持てる数も決まっているので」
職人は石を皿へ載せた。
針は今度も動かない。
問いはそれきりだった。
台帳の類いは出てこない。
聞かれたのは選りの手のことだけだ。
頷く代わりに石を布へ戻していく。
戻す順は僕が包んだ時の順のままだった。
「四本だな。基準はどうする」
「一本作ってもらって、それに合わせて残りを」
「合わせるのは誰がやる」
「僕がやります。投げて確かめて、また削ります」
職人は短く息を吐いた。
「柄尻に削り代を残す。刃は触るな」
レオが台に肘を載せた。
「こいつ、雨の日は宿で刃と石ばかりいじってるからな」
職人は手を止めなかった。
可笑しがりもしなければ、呆れもしない。
その横からナギが覗き込む。
「キミのあれは、ここでは珍しくないんだね」
声は軽く、つばの奥で目だけが笑っていた。
「手入れの道具も見せろ。研ぎの癖はそっちに出る」
袋から手入れの一式を出して並べた。
革の油と布、それから布に包んだ砥石。
包みの布も端が擦り切れて薄くなっている。
職人が砥石を手に取った。
指の腹で面をなで、縁を確かめて明かりへかざす。
「これはうちの山の石だ」
職人の手の中で石が返される。
水を含んでいない面までしっとりと暗い色をしていた。
「いい目の石だ。ずいぶん使い込んである」
「譲り受けた物です」
「そうか」
職人はそれ以上聞かず、僕の石の真ん中を指で押さえた。
「真ん中が減って、水が溜まるだろう」
「溜まります」
「面直しをしろ。やって見せる」
職人は砥ぎ場から目の細かい平らな石を持ってきた。
水をかけ、僕の石の使う面を下にして重ねて円を描く手つきで擦り合わせる。
面の擦れる低い音と一緒に灰色の水が薄く広がった。
水の膜が石と石の間で光っている。
「面が全部濡れて、水の膜が切れなくなったら平らだ。窪みが残ってると、そこだけ水が溜まる」
石を返して側面を太い指で二度叩く。
「脇は削るな。石が痩せて割れやすくなる」
途中から代わって、自分の手で擦った。
石は水ごしに冷たく、手の下で重さが逃げない。
「水は多めでいい。乾くと目が詰まる」
擦っては水を足し、面を明かりに透かして窪みの残りを見る。
窪みが消えると使う面だけが新しい色になった。
当たっているのは使う側の面だけで、平らな石は側面に触れていない。
丸くなった角も、そこに残った浅い凹みも、そのままの形で残っている。
職人が鉄の細い棒を面に当て、隙間の光を確かめた。
「これでいい。石が手に合ってる。替える必要はない」
石が僕の手へ戻された。
削った分だけ、持ち重りがほんの少し変わっている。
レオが僕の石を持ち上げ、重さを確かめてすぐ戻した。
それから職人へ短く聞いた。
「山は近いのか」
「尾根ひとつ向こうだ」
レオは腰の袋から布包みを出した。
包みを解いて台へ置く。
角の立った白っぽい石だった。
僕の石とは色も目も違う。
「これも見てもらえるか」
職人は手に取って面をなでた。
縁を明かりへ向けて、すぐ台へ戻す。
「これはよその山だ。目が揃ってない」
「使えないか」
「使える。が、仕上げには届かん」
レオは石を裏返して縁を自分でなぞった。
それから、石を包み直して袋へ戻した。
「取り寄せの品でな。仕上げ用に一つ買いたい。ここに売り物はあるか?」
「棚のは仕事で使う分だ。石屋は坂の下に何軒か出てる」
「見分けは」
「面に水を一滴落とせ。引き込みの遅い方が細かい」
レオが自分の掌を一度指でなぞった。
セナが腰のナイフを台に置いたのはその後だった。
「せっかくだから、これも見てほしいんだけど」
職人が鞘を払い、刃を一目見る。
「研ぎの角度は悪くない。が、間が空きすぎだ。丸くなってから研いでる」
セナが唇を一度結んだ。
それから半歩前に出て、柄を指で示す。
「柄の巻きも替えてください。濡れると滑るので、目の粗い革で」
「粗いと手が痛むぞ。減りも早い」
「それでいいです」
職人は台の端の紙に一行書き足した。
それから、杖の金具にもう一度触れた。
「杖の方は手入れが利いてる。金具は使えば緩むだけだ」
ナイフが仕事の棚に足された。
ナギは壁に掛かった留め金具の列を眺めている。
「引き取りは全部まとめてで良いですか?」
「まとめて渡す。半月後の夕方に来い」
「半月ですか?」
「三人分と預かり物、それに刃が新たに四本だ。うちの仕事はこれだけじゃない」
台の上が空になると、職人はもう僕らを見ていなかった。
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