第87話「火の街」
朝の谷は季節の割に冷えていた。
消した火の跡を囲んで荷の男たちが縛りを確かめている。
東の空に広がっていた赤はもうなかった。
昨夜まで赤かったあたりには、細い煙の柱が何本も立っている。
柱は上の方で溶け合って薄い層になっていた。
セナが東を見てから僕を見た。
どちらも口には出さなかった。
準備を済ませ列が動き出す。
下りの道もつづら折りが続いている。
荷馬は行きより歩が早く、御者が手綱で抑えている。
僕は真ん中の三台の山側に付いた。
持ち場は峠の西側の時と変わらない。
下るほど木の背が戻って、風がぬるくなった。
折り返しのたび、煙の柱が少しずつ近くなる。
振り向くと峠の上はもう雲の中だった。
風向きが変わると匂いが届いた。
石を焼いたような乾いた匂いだった。
セナが鼻の先を風の方へ向けた。
「炭とは違う匂いだね」
「うん。峠では嗅がなかった」
音は匂いより遅れて来た。
高い音と低い音がいくつも重なって途切れない。
ナギが荷馬の背越しに先を見た。
「祭りでもやってるのかい」
「にしては、切れ目がない」
谷が開けると、斜面に石の家が段になって並んでいた。
段の下の方でいくつも太い煙が立って、その根元に火の色が見える。
鎚の音はその火の並びから上がっていた。
昼を回る頃、商隊が街の門にたどり着いた。
門には扉がなく、石の柱が二本立っているだけだった。
柱は人の倍の高さがあり、表面が煙で薄く黒ずんでいた。
門の内側は荷の着け場になっていた。
商会ごとに受けの者が待っていて、長い列がほどけていく。
ジョゼ商会の受け側は革の前掛けをした人間の男だった。
僕らの控えを見ると男は頭を下げた。
「リクさんとセナさんですね。遠いところをお疲れ様です。荷を検めます」
男は縛りを解かずに員数を数えた。
樽の数と梱の数を読み上げて、僕の持つ員数の控えと突き合わせていく。
受け答えの間、セナは荷の縛りに手を添えていた。
「三台、揃っていますね。お預かりします」
判が控えの角に載った。
朱の色は乾く前でまだ濃い。
折り目の朱を目で確かめて袋の内へ仕舞う。
男は控えの束を胸に抱え直して次の商会の車へ歩いていく。
三台の車を商会の男たちが引き取っていった。
御者が僕らへ手を上げて、車と一緒に街の奥へ消えていく。
隊のほかの車もそれぞれの受け側へ散り、御者たちの声が短くなった。
僕らの受け持ちはここで終わった。
---
着け場を出ると、通りは坂の段になっていた。
通りの半分は工房が立ち並んでいる。
炉が道に向かって口を開けて、その前で職人が鉄を打っている。
屋根は炉の上だけに架かって、道に面した側は開いたままだ。
打つ音は一軒ごとに違っていた。
厚い物を打つ低い音と、薄い物を延べる高い音が坂の上下で呼び合っている。
道の石には白い粉が薄く積もっていた。
台の上の品にもその粉が載っている。
炉の前を通るたび、熱が頬の片側だけを押した。
通りの真ん中には細い水路が切ってあった。
炉の脇の桶へ汲む音と、焼けた鉄を沈める音が湯気と一緒に上がる。
行き交う人々は背丈が揃っていない。
僕の肩ほどの高さで、肩幅は僕の倍ある男が籠を担いで坂を上っていく。
そのすぐ後ろを背の高い人間の女が同じ足取りで続いた。
行き交う職人の前掛けはどれも揃って白く汚れている。
低い声の呼び交わしが鎚の音の下を行き来していた。
一人二人ではない。この街は端から端までこうなのだ。
セナが袖で額を押さえる。
「歩いてるだけで汗が出るね」
「炉の数が数だから」
炉のひとつでは子供が鞴を押していた。
押す速さが変わるたび、火の色が浅くなったり深くなったりする。
職人は打つ手を止めずに、押す速さだけを短く直させた。
工房の一軒に客が入った。
腰の剣を鞘ごと外して何も言わずに台へ置く。
奥から出てきた職人は客の顔を見なかった。
先に剣を取り、鞘を払って炉の明かりにかざす。
刃の根元から先までを目でたどって、それから初めて顔を上げた。
「五日だ」
客は頷いて剣を置いていった。
職人は名前も聞かなければ、胸元の証を確かめもしなかった。
隣の工房でも同じだった。
斧が台に載り、職人が刃を指の腹でなぞってから口を開く。
値切る声は聞こえない。客は頷くか物を持って帰るかのどちらかだった。
断られた客もいた。
職人は台の得物を一目見て首を振り、隣の炉を指で示す。
持ち込んだ男は文句を言わずに隣へ歩いていった。
レオが一軒の前で足を止めた。
台の上の得物と職人の手つきを交互に見ている。
「どこも、先に物を見るな」
「置いていく方も慣れた顔だね」
ナギが帽子のつばを上げた。
坂を上がりかけた時、セナが足を止めた。
「リク、あれ」
指の先、工房の軒下に見覚えのある背中があった。
頭ひとつ低く、肩幅が広い。編み込んだ髭が横顔から覗いている。
ダグだ。
峠が開いたら一度、山へ帰る。
冬の窓口でそう言っていた。その山がこの街だった。
台の内に座る姿しか知らなかったので、立って歩く姿は初めて見る。
背負った袋が体の幅と同じくらいあった。
軒下は炉から離れているのに、石の熱がまだ足の裏に残っている。
声をかける前にダグが振り向いた。
僕らをひとりずつ見て髭の奥で短く息を吐く。
「お前さんは、クレウスの図の小僧か」
「お久しぶりです。護衛の仕事で、荷と一緒に来ました」
「そうか」
ダグは僕らの荷へ目をやった。
革の当てのへたりも袋の帯も見たのは一瞬だった。
髭の編み込みには白い粉がついていた。
窓口で見ていた時と変わらない、石の粉だ。
「道具の手入れを頼みたいんです。どこか、いい工房はありますか」
ダグが喉の奥で短く唸って、坂の上を顎で示した。
指し示す指は僕の指の倍は厚かった。
「二つ上の段の青い戸の炉だ。良し悪しは物が言う」
「すぐ見てもらえますか」
「無理だ。夏はどこも詰まっとる。三日は置いてから行け」
話す間もダグの目は時々僕らの後ろの通りへ動いた。
荷を担いだ男が通るたび、袋の膨らみを一目で量っている。
軒下の台には割れた石が並べてあった。
どれも同じ向きに割ってあって、割れ口だけが光っている。
セナが半歩前に出た。
「山の夏は、忙しいんですか」
「石が出る。雪のない間に掘って冬に選る」
「峠が閉じたら、また西へ?」
「閉じる前に下りる。冬は人の背より積もって道が消える」
セナが小さく息を吐いた。
ダグが袋を担ぎ直した拍子に、口から石がひとつ転がり落ちた。
拾い上げて指の腹で二度弾き、袋へ戻した。
窓口の台の上でも同じ手つきを見ている。
「窓口にはまた、わしが座る」
ダグはそれきり坂を下りていった。
担いだ袋が肩の上で鳴って背中はすぐ人に紛れた。
セナがその背中を見送って少しだけ笑う。
「覚えててくれたね」
「うん。小僧って呼ばれたけど」
「リクのことだよ、それ」
レオが坂の上へ顎を向けた。
「三日なら、こっちは急がなくていいな」
「うん。頼む物は宿で決めよう」
僕らは坂の上に向かって歩を進めた。
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坂の途中の広場に市場が開いていた。
鉄物の台と革の台の間に乾き物の棚が並んでいる。
市の声はクレウスより低い。
売り手も買い手も、手に取った物の話だけをしている。
秤の音と升で量る音がよく通る。
薬草の棚があった。
乾いた葉の束と、砕いた石の薬が升に分けて並んでいる。
乾いた草の匂いが棚の前だけ濃い。
セナは隣の革の台を見ていた。
薬草の棚の前で、足が一度止まった。
ギルドは広場に面していた。
戸口の印はクレウスの支部と同じ形だ。
窓口で胸元の証を見せる。
職員は台帳に写しを取って、泊まれる宿の場所を教えてくれた。
両替の分はギルドの為替で替えられるという。
職員が壁の書付を指で示す。
西へ戻る荷の隊が組まれるのはひと月ほど先だ。
宿は市に近い石壁の建物だった。
壁に手を当てると、外の暑さと関わりなく冷たい。
宿の主人はギルド証を一目見て頷き、名は帳面に自分で書く決まりだった。
部屋は狭いが寝台は固くて平らだ。
窓を開けると鎚の音が入り、閉めると石の壁が音を遠くした。
荷の隅からマルセルの剣を出して、鞘の上から傷みを確かめた。
峠越えの間は布を巻いたままにしてあった。
青い戸の炉の手が空くまで、この剣も袋の中で待つことになる。
広間の卓で荷を分け直した。
このまま使う物と、青い戸の炉へ持っていく物だ。
レオが布包みを卓の端へ寄せる。
「砥石は急がない。石を選ぶ日は目の利く朝がいい」
「三日なんてすぐだよ。ボクは明日、通りの上の方を見てくるよ」
ナギが卓に頬杖をつきながら話す。
セナが荷の口を開けた。
「じゃあ先に、頼む物の書き出しだね」
卓の上に頼む物が並んでいく。
ナギの剣に僕の肩当てと袋の帯と灯りの覆い。
セナは杖の金具だけ見てもらうと言った。
夕餉は広間で出た。
椀の中身は豆と干し肉の煮込みだった。
匙が石の器に当たって低い音を立てる。
夕餉の間もレオは通りの話をしていた。
どの炉が刃物でどの炉が鍋釜か、歩いた分だけもう分けて覚えている。
窓の外で鎚の音が夕方より間遠になっていった。
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夜、部屋の窓を細く開けた。
石の壁は冷たいのに、通りから上がってくる空気がぬるい。
鎚の音がまだ聞こえていた。
数は昼より減っている。それでも途切れない。
窓の下の通りにはもう誰もいなかった。
寝つけないまま、表の空気を吸いに戸口を出た。
隣で寝ているレオを起こさないように、靴は手に提げて階段の下で履いた。
通りは下の方が明るかった。
段になった街の下側で炉の火がいくつも点いている。
家々の灯りはもう消えていた。
火だけが高さを変えずに立っている。
坂の石は昼の熱を残していた。
靴の底越しにぬるさが伝わってくる。
炉と炉の間の家は戸を閉てて暗い。
その暗さの間に火のある場所だけが四角く切り抜かれていた。
鎚を打つ音はもう遠い。
火のそばに人の影は少なく、あっても座っているだけだ。
坂を少し下ると、戸の開いたままの炉がひとつあった。
年寄りの職人が炉の前に腰掛けて火を見ている。
鎚は台に置かれたままだ。
炉の口の奥に薪はなかった。
火は床の穴からまっすぐ上がっている。
穴の縁は火に焼かれて丸くなっている。
縁の石は磨いたように光っていた。
薪をくべる音も、勢いを直す手もない。
火は自分で立って、自分で揺れていた。
爆ぜる音もなく、布を裂くような細い音が切れ目なく続いている。
職人の膝の上には何もなかった。
足元に湯呑みがひとつ置いてある。
炉の脇の水桶から細い湯気が立っていた。
夜気より水の方が温かい。
坂の下から猫が一匹上がってきて、炉の前の石の上に丸くなった。
石が温かいのを知っている。
近づく気配に職人がこちらを一瞥した。
石の粉のついた指で火の根元を指す。
「ここは脈が太い。今夜は色がいい」
職人は火に向き直って、もう僕を見ていない。
何の色がいいのか、誰に言ったのかも分からない。
僕は頭を下げて坂を戻った。
戸口を離れる足元をさっきの猫が抜けていった。
坂の途中に井戸があった。
縁に手が触れると、水を汲んでいないのに石が人の肌ほど温かい。
上りの途中で一度だけ振り返る。
灯っている火を目で数えて、途中でやめた。
段ごとに点々と赤が並んでいる。
風はないのに、火の並びの上だけ空気が揺れていた。
宿の窓から街を見下ろした。
煙の腹に赤い照り返しが薄く広がっている。
峠の向こうの野営で見た、あの色だ。
眠る街の下で火だけが起きている。
鎚の音がひとつ、遠くで鳴って止んだ。
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