第86話「峠越え」
夏入りの朝は空気が乾いている。
通りの土は白く、踏むたびに薄い埃が立った。
ギルドの掲示板は紙が減っていた。
深層の依頼は段がまるごと空いて、板の地の色が覗いている。
残っているのは浅層の間引きと街の仕事だけだった。
空いた段には押さえの穴だけが列で残っている。
浅層の段だけ貼り替えの跡が新しい。
割のいい紙は朝のうちに剥がされていく。
街の仕事の段には同じ紙が何日も残っていた。
角が反り始めて端の日付だけが古い。
掲示の前では顔見知りの組が二つ、同じ紙の前で足を止めていた。
夏の間、あの段は埋まらない。
セナと落ち合って戸をくぐる。
朝の列に並ぶ前に、ミラさんが台の内から僕らを呼んだ。
「リクさん、セナさん」
台の上にはまだ新しい紙が置かれている。
折り目がまだ立っていて、頭の欄に僕とセナの名前が並んでいた。
「ジョゼ商会から、東のカルデグへ運ぶ荷の護衛のご指名です。
夏の峠越えの隊に入っていただきます。
お二人に加え、二名までならリクさんたちの裁量で増やしても良いと伺っています」
「わかりました、僕たち二人は受けます。追加の護衛はいつまでに伝えれば良いですか?」
「追加の方は出発の三日前までにお願いします。お二人の受諾はギルドから伝えておきます」
判が紙の角に置かれて、短い音がひとつ鳴った。
ミラさんが控えを一枚切り離して台の上を滑らせた。
受け取って袋の内へ仕舞う。
セナが台の上の紙を覗き込む。
「ルカさんの言ってた話だね」
「うん。皆と決めるって答えたぶん」
戸口を出ると日はもう高い。
通りの先、東の空の下に山並みが薄くかかっていた。
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出立の二日前、昼の広間に人はいない。
窓の光が卓の木目まで届く。
この場には僕とセナ、それにナギとレオ。
指名を受けたその日に二人に話し、その場で参加が決まった。
マルセルたちは先に聞いたとおり、夏の間は街道の巡回に回る。
隅の卓で荷を広げた。
使い慣れた道具が卓を転がる。
三年使った物はその疲れを隠せない。
肩の当ての革は硬くなって、曲げると折り目が白く浮く。
袋の帯は金具の穴がひとつ広がっていた。
砥石は真ん中が浅く窪んで、水がそこに溜まるようになっていた。
使えなくはない。ただ、減った分は戻らない。
靴の底は外の側だけ斜めに減っている。
灯りの覆いは留め金がゆるんで振ると小さく鳴った。
カルデグはドワーフが多く住む土地だと聞いている。
鍛冶で知られていて、腕のいい職人が多いらしい。
道具の傷みはどのみち一度は直さないといけない。
依頼のついでに向こうで見てもらうことにした。
卓上で荷を二山に分けた。
このまま使う物と向こうで職人に見てもらう物だ。
どちらの山にも入れない物は袋の底へ戻した。
ナギが鞘ごと剣を卓に置いた。
「柄が少し鳴るんだ。向こうで見てもらおうと思ってね」
「いいと思うよ。結構長く使ってるの?」
「テルナに行く前に新調したものだからね。手入れはしてるけどいい機会だから」
レオは自分の荷をほどかずに、布包みをひとつ卓の端へ置いた。
「俺は砥石を見ようと思う。取り寄せだと選べないからな」
ナギが帽子のつばを上げる。
「いつもボクに受け取らせてる石かい」
「そうだ。普段は商人に任せているが、今回は自分の目で選ぼうと思う」
セナは杖の握りを確かめてから、荷の紐の長さを測り直していた。
先月巻き直した革だけが、卓の上で色が新しい。
戸が開いて、マルセルが入ってきた。
腰の剣を鞘ごと外して、卓の上へ横に置く。
「カルデグに行くんなら、ついでに俺の剣も見てもらってこい。あっちの鍛冶は確かだ」
「いいんですか。夏の間も使うでしょう?」
「近場の巡回に上等なのはいらねえ。予備ので十分だ」
鞘から少し抜くと、受けの傷が刃の根元に集まっていた。
拵えは古いが手入れの筋は通っている。
窓の光へかざすと研ぎの目が根元から先までそろっていた。
鞘へ戻すと鍔の当たる乾いた音がした。
「預かります。研ぎも頼みますか」
「その辺は職人に任せろ。細かい注文をつけるとうるせえぞ」
それだけ言って、マルセルは店の親父へ飯を頼みに行った。
卓上の剣は僕の荷の側に寝かせ直した。
袋の底へノートを仕舞う。
水位の欄は留守の分だけ空くが、そのままにすると決めた。
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出立の朝、開いたばかりのギルドへ寄った。
窓口の前に人はいない。
台の木がまだ朝の冷たさを残している。
壁の棚では行き先ごとの枠に紙が立ててある。
どの枠も朝のうちは束が薄い。
「今月の分と先の分を、まとめてお願いします。テルナ支部のルナさん宛てで」
「二月分ですね。承ります」
台帳には行がふたつ増えた。
月の欄だけが違って宛先の字は同じ形で並ぶ。
ミラさんが二つ目の行の月を読み上げて、僕に確かめた。
指が同じ数ずつ小さな山を作って、山と台帳の行を見比べている。
数え終えた手が一度止まって台の上が僕の方へ向く。
目で数え直して頷くと、銀貨は布の袋へ落ちていった。
手紙は荷を詰めた晩に済ませてある。
叔母さんへ。
東の街へ仕事で出ます。帰りは夏の終わりになります。
その間、こちらからの便が空きます。他は変わりはありません。
畳む前にもう一度目で紙をたどってから、封の端を指で押さえて平らにした。
ミラさんが控えに判を置いた。
切り離された一枚が西行きの枠へ入る。
残りの一枚は僕の手元へ戻った。
枠の中では僕の紙が一番外に立っている。
「お預かりします。……道中、ご無事で」
規定の言い方の後に、半拍だけ間があった。
ミラさんは目を上げずに枠の紙の端を揃えた。
僕は頭を下げて台を離れる。
外へ出ると通りはもう明るい。
東門の方から荷車の音が続けて聞こえていた。
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東門の内側は荷駄の列で埋まっていた。
商会ごとの荷が並んで、御者が声を掛け合っている。
ジョゼ商会の荷は列の中ほどに三台。
番頭が僕らを見つけると頭を下げた。
隊は商会の寄り合いで、荷の車は数えると十を超える。
護衛は僕ら四人の他に、よそのパーティが前と後ろへ分かれて付いた。
僕らは真ん中の三台を受け持つ。
先頭の車は樽を積んで、次の車は布の梱が高く縛られている。
御者は前の車の名を呼んで間を詰めさせている。
その呼び方で荷主の商会が分かった。
歩く速さは荷馬の速さに合わせる。
休みは水場ごとに入って馬が先に飲む。
轍は前の車ほど深い。重い荷から先に並べてある。
門を出ると街道は東へまっすぐ延びる。
半日で畑が切れて、道の脇は丈の低い草の原に変わった。
草の原の中に行き先と道のりを彫った石が立っている。
彫りの浅い石は雨で丸くなって、字が読めなくなっていた。
小さな祠の前だけ草が刈ってあった。
台には水を張った椀が置かれて、脇に摘みたての草が添えてある。
浅い川には板を渡した橋が架かっていた。
荷車が一台ずつ渡るたびに御者が後ろへ手を上げる。
西へ行く荷ともよくすれ違った。
積み荷は毛皮の束と樽が多い。
御者同士が手だけで挨拶を交わす。
先頭の方から訛りの強い声が飛ぶ。
「今年は開くのが早かったで、道はようやっと乾いとるわ」
東の商人の言葉は語尾が伸びる。
春先に峠の荷と一緒に街へ入ってきた、あの響きと同じだった。
レオは列の後ろ寄りを歩いていた。
すれ違う護衛がレオへ顎で挨拶して、レオも顎で返す。
荷は小さくまとまっている。
縛りの紐は端がぜんぶ内へ入って、引っ掛かる場所がない。
昼の休みに、東の商人がレオへ水の皮袋を放った。
「今年は荷と一緒か」
「ああ」
レオは短く受けて、袋の水を飲んだ。
問いの続きは誰もしなかった。
商人は固く焼いた平たいパンを火で炙っていた。
割ったひとつが僕の方へも回ってくる。
「峠じゃみなこれを齧っとるわ」
噛むと塩気が先に来て、後から粉の甘さが残った。
宿りの火はレオが先に場所を決めた。
風の向きを確かめて石を置く。
古株の護衛は何も言わずに自分の火をその並びに足した。
護衛用に街道図の写しをギルドで取ってある。
夜の宿で広げると、道の線は峠で折れて東へ抜けていた。
図の隅、峠の手前の山裾に古い坑道の印がひとつある。
王国側の裾だ。印の脇に小さく、大坑、と名前だけが入っていた。
荷の男が僕の手元を覗いて言った。
「昔の坑だ。今は誰も入らん」
男はそれきり火の方へ戻っていった。
僕は図をたたんで袋へ仕舞った。
その晩のページは、隊の並びの控えだけで終わった。
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山裾に掛かると荷馬の息が変わった。
道はつづら折りに上がって、荷車は歩く速さより遅くなる。
折り返しのたび、車は一度止まって向きを直す。
車輪の下で小石の砕ける音が続いた。
荷馬は数歩ごとに鼻から太い息を吐いている。
峠道は崖に沿って細くなった。
右は岩壁、左は谷。荷車の幅ぎりぎりに道が続く。
下の方で水の音がするのに、覗いても川は見えない。
上がるほど木の背が低くなって、草の色が浅くなっていく。
風が谷の下から吹き上げて、汗をかいた背中だけが冷えた。
隊が一列になった。
車輪の外側と崖の縁の間は、足ひとつ分もない。
僕は荷車の山側に付いて歩幅を合わせた。
セナは列の中ほどで荷馬の脚を見ていた。
歩くたびに頭が同じ側へ振れる馬が一頭いる。
セナの目がその脚の着き方だけを追い始めた。
二呼吸ほど黙って見ている。
その足取りが急に速くなる。
「停めて。一列、このまま停めて」
セナの声が前へ渡っていく。
御者が手綱を引いて、列が頭から詰まるように止まった。
「三頭目。右の後ろ脚、着き方が浅い」
御者が降りて蹄を上げると、石が食い込んでいた。
石を外すと、馬は脚を確かめるように二度踏んだ。
列が動き出すと、年寄りの御者がセナへ振り返り帽子の縁に指を当てた。
「よう見とったの」
「脚は正直だから」
セナはそれだけ返して、列の中へ戻った。
峠の上は風だけの場所だった。
石が白く草は膝より低い。
空気が薄くて息の数が増える。
道を跨いで石積みの詰所が建っていた。
ここから先は王国の外になる。
詰所の前には先に着いた隊の列が残っていた。
台の上の書付の束が風にめくれて押さえの石が載せてある。
商人は通行の書付を見せ、僕ら護衛は胸元のギルド証を見せた。
詰所の男は証の表を一度だけ見て、顎で先を示す。
判の音は書付の側でだけ鳴った。
僕は証を服の内へ戻して、荷の列に付いて歩いた。
風が背中から吹いて、道は下りに変わった。
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峠の東側は木の背が低い。
日が落ちる前に、隊は道の脇の平らな場所へ車を寄せた。
車は外へ背を向ける形に並んで、真ん中に人の場所が残る。
馬は車の内側へつながれた。
火が三つ焚かれて、鍋の湯気が横に流れる。
鍋には塩の汁が煮えて、昼のパンの残りが割り入れられた。
夜気は峠の上より緩い。
下りの風が背中の側から抜けていく。
見張りの割りは護衛の古株が仕切った。
僕らは夜半まで。持ち場は火の明かりの外。
寝る前に荷の縛りをひと回り確かめた。
セナが火の脇で膝を抱えて、東の方を見ていた。
「リク」
呼ばれて隣に立つ。
セナの目の先、進む先の東の低い空だけが、夜なのに赤かった。
星の色でも、月の色でもない。
山の稜線のすぐ上で、赤が薄く広がっている。
燃える火の色より鈍くて、雲の腹を下から照らしている。
広がりの端は稜線に沿って平らだった。
通りかかった御者が僕らの視線の先を一度だけ見た。
何も言わずに鍋の方へ戻っていく。
ナギが帽子のつばを上げて同じ方を見た。
レオは火に薪を足して、目だけをそちらへやった。
火は薪を足した分だけ明るくなって、また細くなる。
東の赤だけが同じ濃さのままだった。
誰も口を開かない。
薪の爆ぜる音の向こうで、赤い空はそのまま動かなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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