第85話「声の順」
主の居た区画を踏破し、そこまでの道は図を埋め切った。
冬のあいだも坑の水は引いたままで、深層へは降りられた。
それでも雪と道で入れる日は減る。空いた日は図の写しが埋めた。
Cの札で回ってくる依頼も、冬のうちに何度かこなした。
春の入りから水位が戻り始めた。
上がる一方のまま、季節はもう晩春の中ほどにいる。
朝の風は緩んで、宿の窓から入る光は冬より高くなった。
通りの店は棚に日除けの布や虫よけの草を並べ始めた。
角の井戸で汲む水はもう手に沁みない。
峠開きの荷が着く季節で、通りを行く荷車は冬より数が多い。
階下の広間では竈の火が立って、麦粥の湯気が卓の上で揺れている。
泊まり客の出入りするたびに戸が朝の音を立てた。
僕は椀を空けてから荷を確かめる。
炭とノート。灯りの油。小刀と手当ての布。
手を通す先はここに来た頃から変わらない。
胸元のプレートだけが色を変えた。
油を継ぎ足して灯りの芯の残りを見る。
短くなっていれば替えるが今日はまだ足りた。
戸口からマルセルが入ってきた。
朝の外の匂いを連れている。
「東門の方から回ってきた。遠回りだがな」
誰に言うでもない言い方だった。
僕は油の栓を確かめてから顔を上げた。
マルセルは向かいの椅子を引いて、僕の空いた椀を目で指した。
「Cになっても麦粥かよ」
「口に合ってるので」
店の親父に自分の椀を頼んで、マルセルは僕の手元へ目を戻した。
「そういや三年目だな」
袋を探る手が一拍だけ遅れた。
「聞いたことがなかったが、お前、朝は緊張しねえのか」
「します。だから支度の順は変えません」
言いながら袋の中を手でなぞる。
炭の袋から布の端まで、触れていく先は毎朝この並びだ。
油の瓶は炭の次と決まっている。
視線が僕の手の動きを追い、マルセルが鼻を短く鳴らした。
「そうかよ」
粥の椀がマルセルの前に届く。
今日も息を吹かずに口へ運ぶ。
それきり支度の話は出なかった。
荷を確かめ終え、僕は袋の口を締めた。
手の先で金具がいつもの音を立てた。
表の通りはもう明るい。
晩春の朝は、外へ出るのに上着が要らない。
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ギルドの前で三人と落ち合った。
セナとナギ、それからレオ。
主の区画が片づいてから、この四人で入る日が増えた。
受付ではCランク向けの依頼が回ってくるようになっている。
今日の分は旧坑の浅層の間引きだ。袋の中身は冬と同じだ。
ミラさんが棚から入域札を四枚出して台へ並べた。
備え付けの炭を回して、裏の欄に戻りの日付を書き入れる。
坑口までの道は草の丈が上がり、朝の露が裾に残る。
道の脇の畑は麦の緑が伸びていた。
冬に刈り株だけだった列が、いま膝の高さまで戻っている。
入り口手前、溜まりの前で足を止めた。
印の頭が水の下にある。
際の泥は乾く暇のない色をしていた。
溜まりの向こうに顔見知りの古株がいた。別の依頼の札で来ている。
坑口の脇で桶を空けながら、こちらへ声を寄越した。
「今年は満ちだ。夏の間、下は閉まるぞ」
「はい。僕たちはしばらく浅層で回す段取りです」
壁の痕から水面までを測り直す。
数だけをページの端に控えた。
過去二年の同じ時季より高い。
セナが横から数を覗いて、先に言った。
「水際の岩の角、もう水の下だよ。乾いた側の角に張るから動き方注意してね」
「お願い。浅層は道が広いからその方が合う」
ポケットから札を出して紐へ通した。
四人の並びは、この頃どの入りも同じ形になった。
前がレオ。僕が口の側で数と線。セナが糸、ナギが遊撃。
レオは何も言わずに前の位置へ立った。
灯りを提げて、段の下り口とは逆の順路へ足を向ける。
灯りは腰の高さで揺れない。
レオは一度も振り返らず、僕との間は三歩ぶんのまま動かない。
床は水際に近いほど水を含んでいて、踏むと靴の底が沈んだ。
逆の側は土が乾いていて、足の置き所に迷いがない。
最初の広がりで群れに当たった。
セナの糸が乾いた側の角に渡って、食み場の外で先に待つ。
掛かった殻から止まって、レオの刃が手前から仕留める。
逸れた一体はナギが潰した。
二度目の広がりは数が少ない。角ひとつに糸を渡して先へ回した。
僕は口の側で数を取る。
落とした殻は数え違いのないよう、列の外へ寄せて置いた。
欄の数字は冬の終わりより少し増えている。
壁の水の痕に白い粉は出ていない。
濡れた縁がそのまま上へ延びていた。
奥で鳴る水の音が冬より太い。
柵の先へ下りる段は途中から水の色に変わっていた。
満ちの年の夏はあの段の先が閉じる。
引きに転じる秋まで、深層の依頼は掲示から下がる。
ナギが深層への下り口に灯りを一度だけ向けた。
「夏の間、ここは閉まったままだね」
「うん。引きに転じるまでは深層はお預け」
「上の殻はもうボクの敵ではないよ」
灯りが下り口から戻り、ナギの手の中で揺れる。
昼前に坑を出ると、外の光が土の色まで届いていた。
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昼からは僕とセナでジョゼ商会に入った。
春は峠開きの荷が動く季節だ。
店先は人と声で埋まっている。
店の中は荷の埃の匂いがした。
台の前では革の前掛けの男が声を張っていた。
明後日の便の荷なのに、先に台へ通っている。
台の内の若い衆が男の荷を先に検めて、奥へ目をやる者はいない。
順の札があるわけではない。
声の通った方から台が空いていく。
奥の台には荷が積まれたまま残っていた。
札の記録では明日の便に載せるはずなのに、手がまだ付いていない。
積み替えの荷を二人で数えて控えと合わせた。
数はルカさんが帳面を開く前に合う。冬から変わらない半日だ。
昼過ぎの荷が出ていくと、店先の声が少しだけ薄くなった。
帳場でルカさんが控えの束をめくっていた。
「手が回っていません。人は冬より増やしたのですが」
「お店には人はいるのになんでだろう?」
小間使いの少年が水の椀を差し出す。
セナは受け取った椀を持ったまま、店先の方を見ていた。
僕は台の内へ目を戻した。
「さっき先に台へ通ったのは、明後日の便の荷でした」
「奥のは明日の便だよね。誰も見にいってない」
セナが椀を置いて、奥の台の方を指した。
ルカさんの手が控えの束の上で止まる。
僕は若い衆の動く手を数えた。
「人の数ではなく、どの荷から手を付けるかだと思います」
僕は控えの束から今日の分を抜いて卓上へ並べた。
セナが台の側から荷の名を読み上げて、控えとの揃いを確かめていく。
「まず二つに分けます。急ぎの荷とそうでない荷。
具体的には明日の便に載せないといけない荷と、次の便でも間に合う荷です」
紙が二つの山になる。
ルカさんの目が山と山の間を往復した。
「その二つをもう一度ずつ分けます。どうしても落とせない荷と、そうではない荷です」
「例えば?」
小間使いの少年が水のお代わりを運びながら聞いてきた。
「遅れたら店に損が出る。それこそ返金を求められるような荷と、急かされているだけの荷です」
二度分けた紙は四つの山になった。
明日の便で落とせない荷が、いちばん手前の山に集まる。
声を張っていた男の控えは、いちばん奥の山へ移った。
ルカさんはしばらく黙って山を見ていた。
指が手前の山の縁を揃える。
「……声の大きい方から、やっていたということですか」
「来た順と声の順です。紙は文句を言わないので後ろへ回ります」
「耳の痛い分け方です」
ルカさんは四つの山を自分の手でもう一度なぞった。
「貼り紙は要りますか」
「要りません。朝いちばんにこの形へ紙を並べ替えるだけです。
あとは手前の山から手を付けます」
ルカさんが手前の山を左へ寄せて、帳面の隣に置いた。
置く場所まで決めてから顔を上げる。
「分け直しは朝だけですか」
「朝だけです。昼に迷ったら、手前の山へ戻ればいいので」
「……考えてみましょう、ではなく。明日の朝からやります」
ルカさんが台の側へ声を掛けた。
「残りは手前の山の分からお願いします」
若い衆の一人が控えを受け取って、奥の台の荷へ向かう。
手つかずだった明日の便の荷が動き出す。
「もう一つ。朝の分け直しは必ずやってください。
今日は急ぎではない荷が、明日は急ぎの荷になることもあるので」
「わかりました。必ずやります」
話を終えるとルカさんが裏へ下がっていった。
卓の端に帳場の帳面が開いたままになっている。
目が行の頭を三つ分だけ追って止めた。
今日の話はここまでだ。
茶の湯気が卓の端へ届いた。
クリスが盆を持って帳場へ来ている。
金髪のリボンは前に見た時と同じ結び方だ。
盆を置く手つきに音がない。
クリスは僕とセナを順に見て口を開いた。
「……あの」
そこで止まった。
視線が一度だけ僕の胸元のプレートの上を通る。
「……いえ。お茶を、どうぞ」
盆を胸に抱えてクリスは帳場の奥へ下がっていった。
戸口の手前で一度だけこちらを振り返る。
セナが小さく手を振った。
僕は手元の山を崩さないように揃え直した。
二つ目の山を終えた頃にルカさんに声をかけられた。
ルカさんは控えを仕舞ってから声を一段落とす。
「東への荷の話が来ています。夏の峠越えです。
決まればギルドを通しますが、その時はリクさんとセナさんにお願いしたいのですが」
隣でセナが控えを持つ手を止めた。
「ありがとうございます。話が来たら皆と決めます」
「ええ。それでかまいません」
帰り際、ルカさんが戸口まで送りに出た。
頭の下げ方は当主の形のままだった。
店先の声はまだ大きい。
台の上では残りの山が明日の朝を待っていた。
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店を出たところでセナとは分かれた。
夕方、ギルドの為替の窓口へ寄る。
窓口の前に人はいなかった。
夕方の光が台の木目まで届いている。
西行きの枠には束ねた紙が立っていた。十日便の前はいつも厚い。
台の脇に便の荷紐が束のまま積んであり、麻の匂いがした。
「今月の分をお願いします」
窓口の人が台帳の行を指で押さえて、テルナ支部のルナさん宛てだと声に出して読み直した。
月に銀貨5枚。額は上げたときのまま動いていない。
枚数を数えて台の上へ並べ、そのまま布の袋へ落としていく。
十日ごとに同じことをしている手つきだ。
手紙は寝る前に書き上げてある。
封をする前に一度だけ読み返した。
叔母さんへ。
こちらは変わりありません。
最近届いた母さんの手紙は、字に力があって安心しました。
母さんの手紙は先の便で届いている。
字は行の終わりまで細らず、真っ直ぐになっていた。
今月も三行で終わった。
書き足すことを探して、炭を持ったまま少し止まった。
判が押されると、紙は二枚に分かれて一枚が控えの箱へ入る。
束の厚みを整える手が動いて、西行きの枠に紙が一枚増える。
外では荷車が便の木箱を積み替えていた。
麻の紐が箱の角で締まって、短く鳴る。
便の日、束はまとめて西へ出る。
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夜の広間は窓を細く開けてあった。夜気はもう冷たくない。
泊まり客の波が引いた刻で、卓の灯りは僕らの側だけ濃い。
隅の卓に手入れの道具を広げると革と油の匂いが卓上に溜まった。
肩の当ての革、袋の帯、灯りの金具。ひと冬使った分の緩みを締め直す。
縫いの弱った所には目印を付けた。革屋へは明日の道すがらで出せる。
隣でセナが杖の握りの革を巻き直している。
ナギは鞘の口金を布で磨いて、レオは短く刃を当ててすぐ仕舞った。
金具の鳴る音が広間の遠い話し声に混ざる。
エマとユルが階段を降りてきて、卓の端に椅子を寄せた。
「夏の間、私らは近郊の護衛につくよ。マルセルもだ」
「街道の巡回が主ですね。日帰りで回す依頼と聞いています」
エマが僕の手元の金具を一瞥した。
セナが顔を上げる。
「日帰りなら、夜はこっちに戻るんだよね」
「戻るさ。飯の量は変わらないよ」
エマが椅子の背に肘を掛けながら答えた。
ユルが卓の端の金具をひとつ拾って、僕の手元へ寄せる。
「依頼は三人まとめてです。日のあるうちだけ回って、夜は受けません」
セナの指が革の巻きを止めた。
「護衛に出るのはいつ頃なの?」
「峠開きの荷が落ち着いてからだね」
エマの目が窓の方へ動いて、すぐ卓へ戻る。
セナが頷いて、巻きかけの革へ目を戻した。
僕は袋の帯の緩みを引いて、金具の穴をひとつ詰めた。
革が短く鳴り、帯が手の中で張りを戻す。
外した灯りの金具は布の上へ並べた。
ひとつずつ油を薄く引く。
エマが椅子の背から肘を外した。
「そっちはそっちで回しな。このところジョゼ商会の仕事も受けてるんだろ?」
「はい。浅層と街の仕事で回しています」
ユルが灯りの油を一瓶、卓の端に置いていく。
「余りものです。夏は日が長いので、うちでは減りません」
二人が階段を戻っていって、卓は手の音だけになった。
手入れを終えてからノートを開く。
溜まりで控えた数を水位の欄へ移して、線を一本引いた。
線の脇に今日の日付を添えて、炭の粉を指で払う。
欄は三つの並びに分かれている。
一年目の分と二年目の分。
その隣に、始まったばかりの今年の分。
今日の一本は去年の春のどの一本より長い。
欄は五日ごとに一本ずつ増えていく。
夏の行はまだ空いたままだ。
ページの端に一行だけ書き足した。
商会の帳面。入った金と出た金が同じ紙に混ざっている。
それ以上は書かずに炭を置いた。
セナが横からページを覗いた。
「今年、高いね」
「うん。満ちの年はこうなるって古株も言ってた」
「秋になったら、もう一つ先だね」
セナが巻き終えた革を指で確かめる。
ナギが口金を鞘へ戻して、レオが椅子の背に体を預けた。
レオが道具を布へ巻き取って、先に立った。
「じゃあ、俺たちも宿に戻るよ」
ナギも帽子を被り直して、戸口へ足を向けた。
「明日はギルドの前でいいかい?」
「うん。いつもの刻で」
戸が開いて、通りの音が短く入る。
二人が出ていって、戸はすぐに閉まった。
広間の灯りが一段細くなる。
灯りの下で、三つの並びをもう一度見比べた。
過去二年の並びは同じ帯の中で上がって、下がっている。
今年の並びだけが帯を離れて、上へ伸びていた。
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