第84話「七つの杯」
朝の霜が通りの板の上で白い。
初冬の日は低く、屋根の影が長いまま昼の方へ動いていく。
道の水たまりには薄い氷が張っていた。
荷車の輪がそれを割って通る。
割れた氷が轍の形に残った。
袋を担がない日の肩は軽い。
息だけが白く前へ流れて消えた。
通りの店は冬の売り物に棚を替え始めている。
軒先に干した根菜の束が並んでいた。
藁の匂いが朝の冷えに混ざる。
角の井戸では桶の縁に薄い氷が残っていた。
坑の水は引いたまま冬に入った。
五日置いて取り直した数はあれから育っていない。
枝に逸れた4頭も次の入りで落とし、主の区画の行は仕舞いになった。
ノートの水位の欄も冬の形だ。
線は低いところで横ばいになり、書き足す数字が小さくなった。
冬の坑は入れる日が減る。その分だけ図の写しがよく売れた。
ギルドの前で皆と落ち合った。
呼び出しは昨日の夕方に届いている。
宛名は一枚ずつ別々で、書いてある文面は同じだった。
エマは襟を立てて欠伸をしている。
ユルは呼び出しの紙を畳んで胸元へ入れた。
ナギはいつもの帽子のまま、戸の開くのを待っている。
中は朝の受注の列で混んでいた。
呼ばれたのは列に並ぶ前だ。ミラさんが台の内から僕ら五人を目で集める。
奥の棚から布の包みが五つ、台の上へ並んだ。
「主持ちの討伐が一件。あとはこの一年の深層の依頼と実測図の買取です」
ミラさんが綴りを開いて指で行を押さえていく。
「同じ実績が五人分載っています。審査はお一人ずつです」
規定の言い方は最後まで崩れない。
綴りの五つの行は日付の欄まで一続きに並んでいた。
後ろの列が少しずつ詰まってきていた。
「現在のプレートを台へお戻しください。引き換えでCのプレートをお渡しします」
僕はDのプレートを紐から外して台に置いた。
一年使った角は丸くなって、表の刻みには炭の黒さが染みている。
坑へ持って入った日の数だけ、擦れた痕が重なっていた。
新しいプレートは色が濃い。縁の打ち出しの形も違う。
重さは変わらないのに灯りの返し方が違った。
紐を通す穴の位置だけが前と同じで、指が迷わずに済む。
隣でセナが受け取る。エマ、ユルと続いた。
ナギが最後に受け取り、つばの下で表と裏を一度だけ返した。
ナギは僕がまだEだった夏に、僕より半年早くDに上がっている。
台の上で新旧の五枚が入れ替わっていくのを僕は端から見ていた。
列の後ろで顔見知りの常連が二人、首を伸ばしてこちらを見ている。
「あの若いの、Dで一年か」
「一年で主持ちまでやったって話だぜ」
声は低かったが隠す気もなかった。
セナの背筋が少しだけ伸びる。
ナギのつばは動かない。
ミラさんが五つ目の受領の判を押して、それから顔を上げた。
「以上です。……おめでとうございます」
台の上の判の朱が乾く前に、次の呼び出しの声が飛んでいた。
台を離れてすぐ、それぞれが新しいプレートに紐を通した。
セナは結び目を二度確かめる。
エマは通すなり無造作に首へ掛けた。
五枚が五人の胸元へ散って、布の包みだけが手に残った。
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精算の列が引けた昼過ぎに、為替の窓口へ並び直した。
窓口の前には荷揚げ帰りの男が一人だけいた。
壁の棚には束ねた為替の紙が枠ごとに立ててある。
西行きの枠がいちばん厚い。
「今月の分をお願いします。テルナ支部のルナさん宛てで」
「月の取り決めの分ですね。額はお変わりなく」
セナが先に月の締めの日を確かめていた。
壁の便の表を指の先で二度叩く。
「締めはあさってまでだって。さっき聞いといたよ」
「助かる。締めを跨ぐと一月ずれるところだった」
月の額は去年の冬から銀貨5枚のままだ。
上物の薬のひと月分と同じ額。問屋で聞いて知っている。
あの為替はテルナで薬に変わって、村の母さんまで届く。
額の欄に書き足すものはもうない。
窓口の脇に買取と扱いの品目の表が貼ってある。
いくつかの行の左端に、Cから、と小さく入っていた。
昨日までは読み飛ばしていた場所だ。
自分で買えるようになりたいなら、自分が上がればいい。
テルナの帳場でルナ叔母さんにそう言われた。
その時は、額の話だと思って聞いていた。
為替に添える手紙は昨夜のうちに書いてあった。
封をする前に、今日の分を書き足す。
叔母さんへ。
今日、Cのプレートを受け取りました。
母さんの手紙にいい日が増えたと書いてありました。
薬の買い方について考えていることがあります。
今度そちらへ行けた時に話します。
それより先は書かない。紙で渡す話じゃない。
書いた行を一度読み返してから封をした。
宛名は為替と同じにする。
テルナ支部、ルナ気付。
セナも自分のポーチから折った紙を出して、台へ載せた。
「私のも同じ便でお願いします。宛先は前と同じで」
村のセナの家へ向く便りだ。月に一度の分が今月も揃った。
窓口の控えに今月の判が押される。
台を離れる時、束ねた為替の紙が西行きの枠へ立てて差された。
あの束の中の一枚が便の日に西へ動く。
外へ出ると日は屋根の上にあった。
戸口の脇でエマが待っていて、僕とセナを順に見た。
「あんたら、夜は空けときな」
それだけ言って通りを下りていく。
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日が落ちてから、行きつけの食堂の奥に皆で集まった。
戸を開けると店の親父が黙って奥を指す。
もう分かっている顔だった。
奥の長机をひとつ、まるごと使う。
壁のランプは油が細って、火が時々背を低くした。
湯気の立つ皿が運ばれるたび、卓の上で場所の取り合いになる。
炙った肉と根菜の煮込みと固いパンの籠が二度往復した。
奥の椅子にはマルセルが座っていた。両脇にエマとユル。
こちら側は僕とセナとナギで、レオが端の椅子を引いた。
卓の真ん中には商会から届いた酒がひと瓶据えてあった。
峠の荷に載って来た瓶だと、店の親父が置きながら言った。
注いでみると思ったより甘くて喉に残らない味だった。
全員の杯が満ちるのを待って、エマが大ぶりの杯を持ち上げる。
卓の声が自然と切れた。
「新しい五枚に」
一拍おいて、付け足した。
「あと、先に上がってた二人に」
レオが目を上げた。マルセルが鼻を鳴らす。
七つの杯が卓の上でぶつかって、泡がいくつか飛んだ。
飛んだ泡をユルが布巾で拭く。手際は宿の広間と同じだ。
最初の皿が空く頃、マルセルが串を一本抜いて言った。
「それにしても、ガキが三人揃ってCかよ」
「もうガキじゃないよ。Cにも並んだんだから」
セナが串を置いて背筋を伸ばした。
「そう言ってるうちは半人前だ」
マルセルは串の先で自分の杯を指す。
セナの頬が膨れて、杯の縁が唇から離れた。
「私はもう成人した大人の女だよ。ナギもそうでしょ」
言い終わってから、セナの口が半分開いたまま止まった。
卓の音が一拍だけ引いた。
先に口を開いたのはエマだった。
「なんだ、あんたらも知ってたのか」
セナの目がエマへ動いた。僕も杯を持つ手を止めていた。
「ああ、エマたちはもう知ってる。テルナにいた頃から知っていたよ」
ナギの手はパンを割るのを止めない。
つばの下は見えないままだ。
「まあ、こういうところが大人ってやつさね」
エマが杯を傾けて、ユルが横で頷いた。
「じゃあ、知らないふりしてた私がバカみたいじゃん」
セナが卓に肘を置いて、両手で顔を半分覆う。
「だからお前はガキなんだよ」
マルセルが骨を皿へ落とした。
セナが指の間から目だけを出す。
「む。ナギ、リク、私たち言われてるよ」
「ボクを一緒にしないでくれ」
「いや、お前も同じようなもんだろ」
レオが杯を置いて、ナギの方へ顎を向けた。
つばが跳ね上がって、ナギの目がまっすぐレオへ向く。
「どこが同じなんだい?」
「そういうところ」
坑の底で刃を向ける時のナギには近寄れない圧がある。
その声が今は一段高くなってレオに言い返し、軽くいなされている。
ユルが皿を回しながら「まあまあ」と間に入った。
「めでたい席ですよ。数でも、中身でも」
マルセルが酒瓶を持ち上げて、僕とセナの杯へ先に注いだ。
注ぎ口が杯の縁に当たって鳴る。
テルナの祝いの卓では、僕は祝う側の端に座っていた。
今夜は皿が先に僕の前へ置かれていく。
座っているだけで杯が満ちていくのは慣れない。
店の奥は僕らの声だけで埋まっていた。
他の卓の客が一度こちらを見て、すぐ自分の皿へ戻る。
エマの杯はもう二杯目で、ユルの皿の減りは誰より遅い。
ナギは骨付きの肉を器用に外しながら、時々卓の声に短く混ざる。
マルセルの皿は誰より早く空いて、骨だけが山になっていく。
セナが串の皿を数えて、足りない分を店の親父へ頼みに立った。
ついでにナギの器へ白湯を足して戻ってくる。
それから僕の隣へ座り直した。
「リク、また考えごとしてる顔」
「今日は違うよ。食べる方で忙しい」
「ん、ならいいけど」
セナの口の端が上がった。笑うのを我慢する時の顔だ。
胸元の新しいプレートが皿の湯気の向こうで揺れていた。
皿が二巡した頃、ユルが杯を置いて言った。
「そういえば、窓口で小耳に挟みましたよ。マルセルをBへ推す話が出てるって」
「上申ってやつかい?」
ナギが聞き返す。マルセルは串の先を横に振った。
「まだ先の話だ」
「でも、悪い話じゃないですね」
「Bに上がったって、面倒な依頼が増えるだけだろうが」
エマが身を乗り出した。
「プレートの時と同じ顔になってるよ」
「なってねえ」
「なってる。杯で隠しても目尻が動いてる」
セナがさっきの仕返しとばかりに乗ってきた。
指を折り数え始める。
「主持ちでしょ、深層の図でしょ、それから——」
「数えるな」
マルセルが短く切って、酒瓶を引き寄せた。
そのまま立ち上がって全員の杯へ注ぎ足していく。
「ほら、飲め。今日は俺の話じゃねえだろうが」
注ぎながら親指がベルトのプレートの縁に一度触れた。
口より手の方が正直なのは、あの日から変わらない。
「Bの依頼って、どんなのが来るのかな?」
ナギが器を寄せながら聞く。
杯を空けながらレオが答えた。
「街を跨ぐのが増えるな。護衛でも討伐でも日数は伸びる」
「へえ。じゃあ王都に行くような依頼もあるのかな?」
「多分な。それこそ月跨ぎになる」
「なら図の出番ですね」
ユルがこちらへ杯を向けた。
マルセルが座り直して、面倒くさそうに息を吐く。
「気の早い話をするな。飲め」
言い方は雑でも杯を突き返しはしない。
ユルとナギが目を見合わせて笑った。
卓の笑い声がまたひとつ大きくなる。
ランプの火が揺れて、皿の湯気がその光を横切った。
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夜が深くなって、卓の声はいくつかの塊に分かれた。
真ん中ではエマとマルセルの声が大きい。
ユルとセナがそれを聞いて笑う側に回っている。
皿が引かれて、僕は椅子をひとつ分ずれた。
卓の隅はレオの隣になる。
席は灯りの輪の際で、ここから見ると卓の灯りはひとつの島みたいだ。
レオの前の杯は僕のより早く空く。
注ぎ足す手つきは静かで、飲む速さだけが速い。
「……昇格、妥当だと思うよ。数字を見れば誰でもそう言う」
「レオに言われる方が、審査より効くよ」
レオは答えずに杯を傾けた。
戸口の側の喧噪を聞くともなく聞いている横顔は、いつもの形だ。
二杯目が空いて、背もたれへの預け方が深くなった。
「お前さ」
呼び方が変わった。
「お前さ、Cになっても全部書くのか。あれ」
「書くよ。書かないと忘れる」
レオの目が僕の胸元へ一度落ちる。
「主持ちの晩もか」
「あの晩は多かったかな。初めてのことばかりだったから」
レオが杯の底で卓を軽く突いた。
木の音が二度鳴って、真ん中の笑い声に飲まれる。
「重くならないのか。あれだけ書いて」
「紙は軽いよ。荷のうちに入らない」
レオが短く笑って、杯を卓に置いた。
指が縁を一度なぞる。空の底に灯りの粒が落ちていた。
「お前さあ……そういうところだぞ」
「どういうところ」
「さあな。自分のノートに書いとけ」
ナギが杯を持って隣の椅子へ来た。
椅子の脚が板を擦って、レオが半分だけ体を寄せる。
「二人とも、杯より口の方が進んでるね」
「レオの口が回るのは珍しいでしょ」
「珍しくないさ。二杯で増えるのは、ボクは前から知ってるよ」
「三杯だ」
レオが真顔で言い直して、ナギが帽子のつばの下で笑った。
「じゃあ三杯目を持ってこようか。話の続きが聞きたいからね」
「頼む」「お願い」
レオと僕の声が重なった。
ナギが瓶を取りに立って、レオがまた背を預ける。
「お前さあ」
続きは来なかった。
代わりに、空の杯が僕の杯へ軽く当てられた。
僕も上げて受ける。
中身のない乾杯の音は思ったより高く鳴った。
「次の入りも同じ並びで行く」
レオが前を向いたまま言う。
問いの形はしていなかった。
「ん。同じ並びで」
レオの耳の縁が少し赤い。
酒のせいにしておくことにした。
卓の真ん中でエマの笑い声が上がる。
ユルが何かを取りなして、マルセルの声がその上へ被さった。
セナが手を叩いて笑っている。
ランプの火がまた一段細くなった。
油の残りが少ないのに、誰も灯りを足しに立たず、帰る支度も始めない。
窓の外はとうに暗く、通りの音も絶えている。
この店の奥だけが暖かかった。
卓の端には新しいプレートが五枚並べてある。
消えかけの火の下でもそれらは同じ色に光る。
縁の打ち出しが火を受けて、揃いの影を落としていた。
ナギが戻って、レオの杯へ注ぐ。
マルセルが何か言って、また笑いが起きた。
笑いの尾が壁の灯りをひとつ揺らす。
七つの杯が、細い灯りの下で鳴っている。




