第83話「主の速さ」
朝の息が薄く白い。
宿を出る時の風が夏とは変わっていた。
袖を一枚足しても朝のうちは薄ら寒い。
仲秋の入りに僕とナギはまたひとつ歳を重ねた。
17歳になった季節がそのまま先へ進んでいる。
前を行く皆の背中はいつもの並びだ。
枯れ始めた草の間で袋の金具が鳴っている。
道の脇の畑はもう刈り終わって、株の列だけが白い息の向こうに残っている。
坑の入り口、溜まりの前で足を止める。
沈んだままだった印の頭が水の上にはっきり出ている。
際の泥が乾いて、水のいた高さが薄い縁になって残っていた。
セナが隣で溜まりの際を覗き込んだ。
「下がったね」
「五日で指二本分。いい速さだよ」
ノートを開いて水位の欄に足す。五日ごとに一本ずつ増える線だ。
線は下がり続けて、去年の秋の欄と同じ傾きに乗った。
引きの季節では深層へ下りられる日が続いている。
ページを深層の欄までめくった。
下りるたびに、区画ごとの頭数を数え足している。
満ちの前に、柵の先の奥の区画を間引いて空にした。
引きに入ってから三度下りて、三度とも欄は13に戻っていた。
剥いだ分がそっくり埋まっている。
間引きにかけた日数ごと、なかったことになっている。
「戻ってるのか」
マルセルが肩越しにページを見下ろす。
「はい、戻っています」
「先月も同じ数字だったな」
「浅場ではこんなことはなかったです。補う何かが奥にいるのかも」
マルセルはしばらく欄の数字を見ていた。
それから坑口の暗がりへ顎を向けた。
「なら今日は、その元まで行くぞ」
袋の口を締め直して皆が順に灯りを提げる。
入りの並びはいつもの形だった。
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深層への段を数えながら下りる。
石の冷えが襟から入ってくる。
壁の継ぎ目には水のいた高さが白い線で残っていた。
灯りの外で水滴の音が間遠に落ちる。
奥で鳴る流れの音は、来るたびに細くなっている。
歩きながらテルナで聞いた話を頭の中で並べ直した。
森の主持ちの群れの話だ。
いくら間引いても、主が生きている限り数は元へ戻る。
そして主のいる群れは人の気配が濃くなると巣ごと奥へ引く。
だから仕掛けは一度きりだ。
森なら主の顔は土地の猟師が知っている。
坑に猟師はいないが、代わりにノートの数字がある。
戻りの速さと、戻る順と、戻る道。
数だけなら坑の方が読みやすい。
森は広すぎて、数える端から向こうが動く。
坑の群れは道の上でしか動けない。
道の上の数なら僕にも追える。
分かれ道で一度止まって皆で図を囲んだ。
灯りを寄せると三枚の図の線が同じ向きに揃った。
「戻りの早い区画は三つ。どれもこの奥で同じ場所に集まります。
進むほど戻りが早いので、主がいるとしたらいちばん奥です」
「先は」
「広間がひとつ。水が引いた今なら床が出ています」
エマが弓を下ろして肩を回した。
「主は群れが減るまで出てこないよ。狩りの終わり際がいちばん危ない」
「広間で受けます。取り逃がせば、次はもっと奥へ引かれます」
セナが図の広間の丸を指で叩いた。
「床が開けてるなら輪が置けるね。流れ込む先は私が受け持つよ」
「頼む。群れは輪で受けて、主は分けて仕舞う」
前はマルセルとレオ。矢はエマ。灯りはユル。僕は口の側で数と線を持つ。
レオが目を閉じて先の気配を測っている。
「奥で動いてるな。数は多めだが急ぎ足じゃない」
「気づかれないうちに一度で、ですね」
ユルが手元の灯りの芯を短くした。
マルセルが先頭で盾を担ぎ直す。
「行くぞ」
狭まりの手前で灯りをさらに落とした。
道は下りながら右へ巻いていく。
水の抜けた床はまだ乾き切らず、靴の下で砂が湿った音を立てた。
壁際の苔に剥がれた痕が並んでいる。
食み跡だ。新しい痕ほど奥へ寄っていた。
欄の数字と同じことを、壁が別の書き方で言っている。
先頭のマルセルの手が上がって隊列が止まった。
灯りの輪の先で低い影がいくつも動いている。
群れが狭まりの先の広がりに散って、床の苔を剥いでいた。
殻の背が灯りを鈍く返して、石を擦る細い音が重なって聞こえる。
13頭。
おとといと同じ数字がそのまま目の前にいる。
数が合うのを確かめてから、後ろへ手で合図を送った。
風はこちらから奥へは流れていない。
灯りを落とした分だけ、気配はまだ届いていない。
マルセルが盾の縁を短く鳴らした。
低い音が壁を伝って群れの頭が一斉に起きる。
音から離れる向きへ、殻が自分の足で奥へ下がり出した。
僕らは同じ歩の速さで後ろから続いた。
急かせば散るし、間が空けば食みに戻る。
その間の速さを、一定の間で足される盾の音が刻んでいた。
流れは細く長く、狭まりの奥へ向かっていく。
その流れが途中で割れた。
右の壁の低い口へ、影が続けざまに吸い込まれていく。
逸れた数を目で拾う。4頭。
図にない口だ。割れ口が新しい。
奥は灯りが届かず、抜け先は暗がりのままだ。
読めない道は追わない。
「エマ、枝の口は矢で止めるだけ。中へは入らないで」
「はいよ」
「ユルは灯りをその口へ。影を切らさないでください」
言い終える前に二の矢がもう口の縁で鳴っている。
ユルの灯りが枝の口を照らして、暗がりの底で四つの影が足を止めた。
「4頭は捨てるのか」
マルセルの声が前を向いたまま飛んでくる。
「捨てません。主が落ちれば、あの4頭は戻る群れがなくなります。次の入りで仕留めます」
「ならいい」
「帰りの線も変えます。来た道じゃなく水路側の広い方へ。枝の抜け先が分からないので」
通りざまに口の脇へ炭で印を置く。
ナギは既に枝の口と本流の間にある岩の上に立っていた。
逸れが増えれば押し戻せて、増えなければ広間へ最短の位置だ。
帽子のつばがこちらへ一度だけ動いて、すぐ群れへ戻った。
群れの本流が狭まりを抜けていく。
僕らはその背後について走った。
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広間は思ったより天井が高かった。
口を抜ける時、マルセルが盾を半歩だけ先に入れた。
中の空気は狭まりより乾いている。
宿の広間が幾つも入る広さで、床の石は水が引いたばかりで黒い。
灯りを底の方まで返して、壁の際だけが暗く残る。
足音が壁まで往復して薄く返ってきた。
奥の壁際に水の残った浅い溜まりがひとつ。
その縁に、主がいた。
ひと回りどころではない。
殻の高さが他の倍近くある。
角の根が僕の腕より太く、甲の古い傷が灯りの下で白く並んでいた。
傷の数だけ、誰かの得物を受けて生き残ってきている。
主は群れが流れ込んでも動かなかった。
溜まりの縁に低く伏せたまま、頭だけがゆっくり群れの音を追っている。
灯りが近づいても伏せた高さは変わらない。
目はこちらを向いたまま、群れの厚みの向こうから離れなかった。
セナは広間へ入りながらもう杖を払っていた。
床の開けた所に光の輪が三つ、群れの流れ込む先へ順に置かれていく。
殻が踏むより先に置き終わっている。
追いかける輪ではなく、待っている輪だった。
先頭の殻が輪を踏んで足ごと床に縫い止められた。
続く殻が詰まって流れが輪の手前で折り重なる。
盾の音と刃の音が重なった。
マルセルとレオが手前から仕留めていく。
輪の外へ転がり出た一体はエマの矢が床へ戻した。
手順は浅場と同じで、数だけが多い。
僕は広間の口に立って灯りを掲げた。
戻りかけた殻は光の前で折れて、また輪の側へ流れていく。
輪の中の数が減っていく。
主の前の厚みが薄くなっていく。
主は動かない。
伏せた高さのまま、頭だけが減っていく数の分だけこちらへ回っていた。
足の一本も動かさずに、身を隠す群れが減るのを見ている。
(待ってる)
僕がそう思った時にはもう、主は溜まりの縁を蹴っていた。
殻の大きさに見合わない速さで床を回り込んでくる。
縁の水が跳ねて灯りの色に光った。
盾より低い姿勢のまま、殻の縁が床を擦る音だけが近づいてくる。
狙いは灯りだ。
ユルの手元の火へまっすぐ寄せてくる。
灯りが消えれば、広間の底で目が利くのは向こうだけになる。
セナがその前に動いていた。
主が頭を向けた時には、もう灯りと主の間に立っている。
指が鳴った。
糸は主のいる場所ではなく、二歩先の床へ走った。
主の前脚が糸に掛かって巨体が石の上で半回転する。
(動線ごと読んでる)
殻の底が床を叩く音が広間の天井まで響いた。
倒れた拍子に溜まりの水が縁を越えて、床の黒が一段濃くなる。
マルセルが盾を寄せて主の首へ刃を入れた。
刃は甲の合わせ目を滑って白い筋だけを残す。
エマの矢も一本、角の根で乾いた音を立てて跳ねた。
「硬えな」
「合わせ目は首の後ろです。角の内側からは刃が届きません」
灯りの下で甲の板の重なりを目で追う。
板の合わせは首の後ろに一本だけ通っている。
「マルセルは肩を押さえてください。レオはその後ろへ」
二人が同時に入った。
マルセルの盾が肩の付け根を押して、レオの刃が板の合わせをなぞる。
主は押された分だけ床を擦った。
刃の先は板の縁に当たって、そこから先へ入らない。
倒れたまま主が角を振った。
盾ごとマルセルが横へ流されて、石の上で足が一歩ぶん滑る。
レオが逆の側から入り、肩で受けて後ろへ退った。
「エマ、角の根でなく目の脇へ」
矢は狙った所へ入って、殻の縁で向きを変えた。
主が体を捻って殻の縁で床を薙ぐ。
ユルの立つ所まで来て、灯りの火が横へ長く倒れた。
「ユル、下がってください」
火は消える手前で立ち直った。
角の先が通った所に、さっきまでユルの膝があった。
主が掛かった脚を引き抜いて立ち上がる。
起きるまでの速さが、群れのどの殻とも違った。
セナの指がもう一度鳴った。
糸は主の前の床へ置かれている。
主はその床を踏まなかった。
一度掛かった所を避けて、外へ膨らんで回る。
セナの糸は同じ場所へ二度掛からない。
一度掛けた所は殻が避けるからだ。
避けた先へ次の糸が置いてある。
三つ目の糸は、その膨らんだ先で光っていた。
読みは合っている。
合っているのに、主の体が半分速い。
糸が縫い止めたのは主の頭が抜けたあとの床だ。
半歩、遅かった。
太い角がユルの灯りへ届く。
その間合いの内側に、もうナギがいた。
いつ抜いたのかも見えなかった。
刃は甲の傷をなぞるように走って、首の合わせ目へ吸い込まれた。
音はひとつ。主の突進が石の上で崩れてそのまま動かなくなった。
崩れた殻の高さが、床に伏せてもまだ膝より上にある。
広間の音がひとつ減って、残りの殻の足音だけになった。
ナギは刃を返して、二歩下がって残りへ向き直る。
振り抜いた刃が灯りを細く返した。
セナの指が握りの革紐の上でもう一度締まった。
締め直した音は聞こえない。
それから次の輪を、散り始めた殻の逃げ先へ置き直す。
置く速さは最後まで変わらなかった。
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主が落ちてから、群れは群れでなくなった。
殻はてんでの向きに散って、奥へ押し返してくる足が消えている。
輪と矢で順に拾って、最後の一体はマルセルの盾が壁際で受け止めた。
盾の音が消えると広間には水滴の音だけが戻った。
静かになった床で数を取り直す。
床の上は9。枝へ逸れた4頭を足せば13でおとといの欄と合った。
頭数の欄に9と書いて、枝の分は別の行に分けた。
この行が次の物差しになる。
主の殻は運べる大きさではない。
角の根の太さと甲の傷の並びだけ図に写して、魔石は皆で剥いだ。
両手で抱える大きさの石が灯りの下で深い色に光っている。
浅場の石を全部足しても、このひとつに届かない。
マルセルが主の殻をひと回りした。
角の根に古い矢尻がひとつ埋まって、錆びて殻と同じ色になっていた。
どこかの誰かが、ここまでは届いていた。
届いて、仕留め切れずに帰った誰かだ。
「五日置いて、もう一度数を取るぞ」
マルセルが殻から目を離さずに言った。
「欄が戻らなきゃ、それで仕舞いだ」
「枝の4頭は次の入りで仕留めます」
「ああ。……上等だ」
セナは輪の消えた床を確かめて杖を背へ戻した。
ナギは刃を拭いて鞘へ収めている。
帰りは水路側の広い道を引いた。
床の石が揃っていて、行きより早い足で狭まりを抜ける。
途中でエマが枝の口へ一度だけ矢先を向けた。
中の気配は動かなかった。
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坑口の外はもう夕方の入りだった。
秋の日は落ちるのが早い。
草の匂いが坑の土の匂いを少しずつ上書きしていく。
西の空の低い所に細い月が早くも出ていた。
歩きながら今日の分をノートに足した。
主の出た広間。糸と輪の効いた床。
枝の口の位置。残った4頭。
書く手が枝の口の所で一度止まる。
図の線が今日も一本増えた。
急いで書いた字は少し右へ倒れている。
ナギが隣に並んでページを覗き込んだ。
「キミは、毎回この量を書くのかい?」
「今日は多いよ。初めてのことが多かったから」
「そうかい」
差し出すと、ナギは歩の速さを変えずに受け取った。
つばの下の目が行の頭からゆっくり文字を追っていく。
読み終えるとナギは何も言わずにノートを返してきた。
それから自分の荷の口を開けて小さな帳面を取り出す。
歩きながら短く何かを書いてすぐ胸元へ戻した。
帳面の角は買いたての形をもう失くし始めている。
僕はノートを物入れへしまう。
表紙の炭の黒さが指に薄く残った。
秋の虫が草の低い所で鳴き出している。
前を行く五人の背中で袋の石が歩の間に鳴っている。
七つの影が夕日を背に東へ長く倒れていた。




