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第82話「忘れた方が楽なこと」

坑口からの道の草に穂が出ていた。

夏の間は青かった草は、季節の変化と共に穂の色が抜けて風に靡いている。


朝晩の冷えが戻ってきた。

袋を担ぐ肩に汗より先に風が通る。

日の落ちる場所も、夏より低い側へ寄った。


前を行く皆の背中は行きと同じ並びだ。

袋の石の音が歩の間で低く鳴る。


街道の先で屋根の連なりが夕方の色に沈み始めている。

虫の声が草の低いところから途切れずに続いていた。

途中の畑では、刈った株が列のまま乾かしてあった。


門の内の広場には刈り入れの荷が積んである。

麦藁の匂いが通りの埃に混ざり、荷車の轍が乾いた道に白く残っていた。

積み荷の脇で子供が麦の穂を振り回して、振るたび粒が飛んだ。


皆と別れる前にギルドへ寄った。

今日は十日便の着く日だ。


中は夕方の混みで、依頼帰りの列が窓口の前で折れている。

今日の分を話す声と、明日の分を話す声が重なっていた。

奥の机では紙の束が仕分けられている。


ミラさんが紐で括った束の間から一通を抜いて、台の上に置く。


「村からのお便りが一通。テルナ支部経由です」

「ありがとうございます」


封の表に母さんの字がある。

紙が道中の日を吸って、端が薄く焼けていた。

物入れの内側に立てて差した。


精算の列を待つ間にノートを開いて今日の分を短く書く。

角の数と水の際と、殻の出た場所。行はすぐ終わる。


書き終えて指で残りの厚みを送った。

白い紙は数ページしかない。


夏の記録で厚みのほとんどが埋まっている。

浅層の図は端まで届き、深層の順路も線が増えた。

めくった紙の縁が柔らかい。


隣の列で袋の石が台に出されて、数えられていく音がする。

窓口の呼び声で列が一つ進んだ。


僕はノートを閉じて袋を担ぎ直した。


---


宿の部屋の窓辺で封を開けた。

夕方の光がまだ床の半分に届いている。


便箋は二枚。折り目が固い。

指の腹で折りの山を伸ばしてから読み始めた。


母さんの字は行の終わりが右へ軽く上がる。

癖は昔から変わらない。


いい日が増えた、と最初の行にあった。


薬は毎月届いている。

起きて畑まで歩ける日が続いている。横になる日は減った。

刈り入れの支度が始まって、村は朝から人の声が多い。


父さんは朝から畑に出ている。

テルナのルナ叔母さんにもよろしくと書いてある。


読む速さがだんだん遅くなる。

二枚目は日々の細かいことで埋まっていた。

垣根を直したこと。隣の家に子が生まれたこと。

祭りの餅の出来が去年より良かったこと。


冬の前に屋根の草を替えるそうだ。

人手は隣と貸し借りで足りている。


そっちの秋は早いか、と聞く行もある。

返事に書くことを頭の中で先に並べた。

秋は早いこと。こちらは変わりないこと。


ノートのことは書かないでおく。

村では説明が長くなる。


二枚目の下の隅に、父さんの字が一行だけ足してある。


『道具の手入れを怠るな』


それだけだった。

字が濃い。筆の先で紙が薄く窪んでいる。


読み終えて、便箋を折り目どおりに畳んだ。

折ると母さんの字が内側になる。


窓の外で日が屋根に触れた。

便箋の間にもう一枚、小さく畳んだ紙が挟まっていた。

表に『セナへ』とある。アーシャさんの字だ。


階下へ持って下りた。

セナは広間の卓で杖の握りの革紐をほどいていた。


「セナ。便りの中にセナの分が入ってたよ」

「え、ほんと?」


セナは革紐を置いて手紙を受け取ると、表を見てすぐ開いた。


「お母さんの字だ」


読む間、セナの手は動かなかった。

二度読んで、畳んで、胸元のポケットにしまった。

その上から手のひらが軽く押さえる。


「なんだって?」

「元気でやりなさい、って。あと、傷を軽く見るなって」


セナが笑って革紐に戻った。

階段の窓から入る光はもう低かった。


部屋の木箱には、村からの便りが溜まっている。

紐で束ねた厚みが季節の分だけ増えていた。

今日の一通を上に載せて蓋を閉じる。


それからノートの隅に短く書いた。


母さん、いい日が増えた。

便りは十日ごとにちゃんと動いている。


---


広間の隅の卓で今日の図を清書した。


夕飯は既に片づいて、広間には五人が残っている。

マルセルは竈の前で薪を足していた。

エマとユルは二階だ。ナギは竈の近くで白湯を飲んでいる。


セナは僕の斜め向かいで革紐の巻きの続き。

レオは戸口の側の椅子で通りの音を聞くともなく聞いている。


竈の火は落ち着いて、薪の白い灰が縁に積もっていた。


灯心を一度整えて、角の炭の印を図の線へ移す。

昼に急いで引いた線を物差しで正しい太さに直す。


分かれの口の幅。水の際の位置。殻の出た場所の印。

出なかった場所にも小さい点を打つ。出ないことも数のうちだ。

書く手の運びは毎晩同じだった。


図の分かれに名前は付けない。

形と幅で覚える方が、現地では速い。


今日の欄の下に明日の持ち物も書き足す。

替えの灯心。削った炭。図の写し。


最後の行が、ちょうどページの下の端で止まった。

めくると、もう白い紙がない。


一冊が埋まった。


表紙を閉じる。買った日と厚みの手応えが違う。

書いた分だけ紙が息を吸って、角が丸くなっていた。

表紙には炭の粉が染みている。拭いても落ちない黒さだ。


親指で端を送ると、春からの日付が流れていく。

水位の欄は夏の頭で上を向いて、秋の口で横ばいになった。


途中に一箇所、水を吸って波打ったままのページがある。

乾いても皺は戻らなかった。増水の日の分だ。


最初の方のページは字が小さい。

一行に詰め込んで、消しては書き直した跡がある。

今は行の頭が揃って、線の太さも一定になった。


日付の横に天気の欄を足したのは、クレウスへ来てからだ。

欄の形は季節を跨ぐたびに今の形へ寄っていった。


部屋の荷の底から新しい一冊を持って下りた。

同じ店で買い足した揃いの形で、表紙の色だけ少し濃い。

紙の匂いはまだ店のままだった。


卓に置くと角が立っている。

炭を削って先を整えた。


二階で床の鳴る音が行き来している。

レオの椅子が板を鳴らした。


セナが革紐の端を親指で押さえて握りの上へ重ねていく。

一巻きごとに引いて締める。

ナギの白湯の湯気が細くなった。


マルセルが自分の卓の書き物を伏せて、薪を一本火に送ってから来た。

立ったまま卓の端に手をついて、埋まった方のノートを顎で指す。

卓についた手は指の節が太く、爪の縁に石の粉が残っていた。


「終わったのか、それ」

「今日でちょうど。次の一冊に入ります」


マルセルはノートに手を伸ばさない。

手はついた場所から動かさず、表紙の擦れた角だけを見ている。


「何が書いてあるんだ、そんなに」


僕は炭を置いた。

炭が板の上で一度だけ転がって止まる。


「歩数と水の際と、殻の出た場所です。あとは図の続き」

「俺の悪口は」

「書いていません。書く欄がないので」


マルセルが鼻で笑った。


整えた灯心はもう短くなっている。

卓の向こうで革紐の締まる音が一つした。

ナギが器を両手で持ち直した。


「最初にお前がそれを広げた時は、そんなもん要るかと思ったがな。今じゃ俺も朝に控えを二度読む側だ」

「読み合わせが早いと、入りも早いです」


マルセルが卓から手を離して腕を組んだ。

組んだ腕の袖口がほつれている。


「よく続くな」

「書かないと忘れるので」


マルセルが椅子を引いて向かいに腰を下ろした。

背を背もたれへ預けて、脚を前へ投げ出す。

竈の火明かりが顔の片側に当たっている。

明かりの側の頬に剃り残しが見える。


「昔の分も取ってあるのか」

「全部あります。テルナで書き始めた分からです」


僕は新しい一冊を卓の縁へ揃えた。

指で角を押さえると、表紙はまだ固い。


「読み返すのか、それ」

「たまに。同じ形の崩れは、二度目の方が早く気づけます」

「俺なんか昨日の晩飯も怪しいぞ」

「晩飯は書いていません」


マルセルが竈の火へ目をやった。

火の粉が竈の口で一つ浮いて消える。


「忘れた方が楽なこともあるぞ」

「同じ間違いをしたくないので」


マルセルの目が火からノートへ戻った。

それから短く笑った。

それ以上は何も言わなかった。


竈の火が新しい薪に移って燃える音が変わる。

セナが革紐を締める音がその後ろで続いていた。


マルセルは自分の卓へ戻ると、書きかけの紙を四つに畳んで懐へ入れた。

明日の依頼の控えだろう。畳み方が手馴れている。


階段が鳴ってエマとユルが下りてきた。

エマはもう外套を羽織って襟を立てている。

階段の下でユルと何か短く言い合って笑っていた。


「私らは飲んでくるよ」


マルセルが壁の掛けから外套を取った。

袖を通しながら帯に銭入れを差す。

こういう支度だけは誰より速い人だ。


ユルが竈の火を一段細めて、手提げの灯りを持った。

灯りの丸い影が階段の壁を撫でる。

僕らに軽く頭を下げて戸口へ続く。


レオが立って先に戸を開けた。

開いた戸から夜気が床を這って入る。


まとまった足音が通りを下りていく。

戸の外で道を空ける声がして、マルセルの返す声は機嫌がよかった。

笑い声がひと呼吸遅れて届いた。


戸が閉まると広間は急に広くなった。

竈の火と、僕とセナとナギが残った。

天井の梁で灯りの影が揺れるのが急に目につく。


残った熾が時々爆ぜる。

細くなった火の分だけ灯りの輪が卓の上で濃くなった。


セナが伸びをして椅子の背が鳴った。

それから竈の残りの湯をナギの器に足す。

ナギが会釈を返してゆっくり飲み干した。


器を置いて帽子のつばを直す。

椅子を卓へ戻す脚の音が広間に短く響いた。


「ボクも宿に戻るよ。明日も朝は早いからね」

「途中まで歩こ。月も出てるし」


セナが先に立った。


---


通りの店はもう戸を閉てている。

軒灯の間を三人で歩いた。


夜気が乾いている。

石畳の目地で虫が鳴いて、足音が近づくと途切れた。

月は細い。それでも道の石の白さは拾える。


「明日は深層まで行く?」

「水が引くのはまだ先だよ。浅層の続きから」

「じゃあ、朝はゆっくりめだね」


三人の足音が石畳で重なって間が揃っていた。

ナギの歩は相変わらず音が軽い。

次の軒灯まで誰も何も口にしなかった。


どこかで犬が一度だけ吠えた。

二階の窓の灯りがまだ一つ残っている。


昼の熱の残りが壁からわずかに返る。

麦藁の匂いが夜気の底にまだ薄く残っている。


セナの歩幅が半分だけ広くなった。

僕らの少し前を歩いていく。

その目がナギのつばへ動いて、前へ戻る。


ナギが歩を緩めて僕の隣へ下がった。

歩調はセナに合わせている。

つばの下は動かない。


道が緩く曲がって坂の下の分かれが見えた。

そこから先は軒灯がない。


東門への分かれ道の手前で、セナの足が止まった。


僕とナギも止まる。道はここで二股になる。

右は東門へ、左は僕らの宿への坂だ。


分かれの角に古い道標の石がある。

字は磨り減って読めない。


虫の声が足音の絶えた分だけ戻ってくる。

東の空の低い所で星が瞬いていた。


セナが息を吸うのが分かった。


「ねえ、リク」


セナは前を向いたままだった。


「リクは知ってるんでしょ。ナギのこと」

「僕からは言わないよ。ナギに聞いて」


セナがナギへ向き直った。


ナギは帽子のつばに指を添えて、少しだけ持ち上げた。

つばの影が上がって、目が見えた。


「ナギは、女の子なの」

「……そうだよ」


声の高さも間もいつもと変わらなかった。

つばの下の目と、セナの目の高さが合っている。


「リクが知ったのは増水の日。手当てでね。黙っていたのは、ボクが頼んだからさ」


(言い方を、先に決めてあったんだ)


ナギはつばから指を離さない。

セナの目を受けたままだ。


セナは何か言いかけて、一度口を閉じた。

息を一つ吐いてから聞いた。


「聞いていいことと、だめなこと、ある?」

「理由はなしだよ。それ以外は好きに聞いていい」


ナギがつばから指を離した。

僕は一歩下がって道の端へ寄った。


「じゃあ呼び方は?」

「ナギのままでいいよ。外でも卓の中でもね。帽子もこの形も変えない」


セナのつま先が石畳を一度擦った。

それから両手を後ろで組んだ。


「なんだ。じゃあ、何も変わんないね」

「そうだよ。何も変えない」


セナが短くうなずいた。

それから半歩、ナギの隣へ詰めて並んだ。

二人は同じ向きで東の通りの先を見ている。


細い月の下で帽子のつばが浅く動く。


「また明日。朝は広間で」

「ん。おやすみ」


ナギが右の道へ折れた。

足音が石畳から土に変わって、やがて聞こえなくなった。

道標の石の影が月と反対の側へ薄く伸びている。


セナはすぐには歩き出さなかった。

道標の石をしばらく見ていた。

それから僕の横に並んで、来た道を戻り始めた。


軒灯の一つが油切れで瞬いている。

坂の途中の家はもう灯りを落としていた。

石畳の目地でまた虫が鳴き出す。


セナの足の運びはいつもの速さだった。


坂の上に宿の軒灯が見えてくる。

夜気が首の後ろで少し冷たい。


---


宿の広間はまだ灯りが残っていた。

大人たちは戻っていない。

通りの遠くで誰かの笑う声がして、それきり静かになった。


セナは階段の途中で一度こちらを見て、それから上がっていった。


窓の外の細い月が屋根の際まで下りている。

通りの音はもうほとんどない。

夜気の冷えが板戸の隙間から薄く入ってくる。


僕は隅の卓に戻って新しい一冊を開く。

一ページ目は白い。

灯りの油が減って、炎の背が低くなっている。


開き癖がまだついていない。

手を離すと紙が自分で閉じようとする。

角の欠けた砥石を重しに置いた。


竈にはユルの細めた火がある。

朝までは保つ組み方だ。ユルの組む火は崩れない。


忘れた方が楽なこともあるぞ。

マルセルの声が耳のどこかに残っている。


埋まった一冊を引き寄せて白い一冊の隣に置いた。

紙の数は変わらないのに置いた音が違う。

角の丸い方と角の立った方が同じ灯りの下に並ぶ。


炭を握り直した。

削り口を灯りに向けて確かめる。

先はまだ尖っている。


日付を書く。字が下ろしたてのページの上で濃く見える。

その下に明日の依頼の行を空けておく。

書く事は明日の夜に決まる。


最初の行は決めてあった。

今日の便りのことだ。母さんの字の癖ごと覚えているうちに書く。


僕は日付の下に、最初の行を書き始めた。

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