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第81話「歩幅」

朝の光が屋根より高い所から来る。

増水の日から数日が経った。


通りの水たまりはもう乾いて、跡の縁だけが白く残っている。

沢の水はまだ多いがもう増えてはいない。

軒下の泥は掃かれて、通りに朝の足音が戻っている。


宿の広間で朝を片づけていると戸口の光が一度切れた。

ナギが入ってきて卓の端に腰を下ろす。

依頼の朝はこの広間で落ち合う形にしている。


セナが階段を下りてきて、ナギの隣の椅子を引く。


「おはよ。今日も暑くなりそうだね」

「そうだね。水は多めに持っておこう」


セナが焼き直しのパンをちぎって、湯気に息を吹きかけている。

広間の竈で湯が鳴り、皿の片づく音に宿の主人の声が混ざる。


パンをちぎる手がふと止まった。


「その帽子、流されたのと同じ形だよね。よく同じのがあったね」

「替えは何個か持っているんだ。形もつばの広さも同じのをね」


ナギはつばに指を添えて、深さを一度直した。


僕は依頼の控えへ目を戻した。

戻すのは少しだけ早かった。


セナの目がこちらを一度かすめてパンへ帰っていく。


「へえ。用意がいいんだ」

「長く使う物は予備を持つことにしているだけさ」


エマが階段を下りてきて卓の空いた所に着いた。

ユルは竈の前で宿の主人から湯を分けてもらっている。


朝の広間は音が多い。

誰の声も昨日と同じ高さで回っていた。


増水の日の話はもう誰もしない。


ナギの肩の傷は塞がりかけている。

腕を高く上げる時の硬さが残るだけで、それも数日前より小さいと聞いた。


マルセルが窓口で受けた依頼の控えを卓に置く。

いつもの間引きと浅い順路の調べの続きだ。


満ちの水位が高い間は深い区画へ下りない。

浅めの区画で数を稼ぐ。この時期はそうすると決めてある。

マルセルも急かさない。


物入れには為替の控えが一枚入っている。

控えの隅が水を吸って波打っているが字は読める。

あとは次の便に母さんへの手紙を載せるだけだ。


書くことは決めてある。

季節が進んだことと、変わりなくやっていること。

手紙は短くていい。無事の分かる字が読めればそれで足りる。


宿を出る時、ナギはいつもの速さで戸口をくぐった。

誰もそれを目で追わない。


---


朝の風は温かい。坑口までの道の草は膝の高さのまま、色だけ濃くなった。


入りの前に溜まりを見ると印はまだ水の下にあった。

それでも際の泡は消えて水位が上がる気配はない。

ノートの欄に短く足す。線の先が最近で初めて下を向いた。


深層への下り口は今日も横目に過ぎた。

奥から昇る空気に水の重さが混ざっている。

下りられる日はまだ先だ。


浅層は道が短い。水音も細い。

深層の底で聞いた流れの音とは太さが違う。

温い風が入り口の側から通って、灯りの炎を浅く倒す。


角ごとに歩数を締めて袋の仕切りを順に埋めていく。

何度か殻と遭遇したが、隊列を崩すことなく終わった。


最初の殻は灯りの輪の外で足音を立てた。

糸の鳴りが先で、盾の受ける音が続き、最後に刃が石を打つ。

声はどこにも要らなかった。


二度目の殻は影の側から来た。

灯りを寄せる前に、皆の足が持ち場へ動く。

剥いだ石が仕切りに落ちる音が順に続いた。


その次は狭まりの奥だった。

セナが糸を張り替える間に、レオの耳が先の気配を測る。

出る場所は見当の内で数も外れない。

袋の仕切りは昼までに半分埋まった。


満ちの間はこの積み方でいい。

浅場の稼ぎは一日では目立たない。

それでも袋と図は毎日確かに重くなる。


午後は西側の枝道を回った。

殻の出は朝より薄い。薄い分は歩いて埋める。

マルセルは順路の先を指して、そのまま歩き続けた。


ナギの踏み込みは増水の前の速さに戻っていた。

肩の分の遅れは、石を剥ぐ手つきにしか残っていない。


昼の休みに袋の口を締め直す。

回ってきた水筒を、ナギは傷の側の手で受け取った。


「浅い分は数で埋める。急がなくていい」


マルセルの声が順路の先へ通る。


分かれの口では幅を測り直した。

増水の後は形の変わる場所があるが、今日は二つとも図の線のままだった。

ノートの隅に変わりなしと書く。


変わらない日の行は短い。


角に置いた炭の印は薄くなっていたがまだ読めた。

上からなぞって濃くする。

帰りに同じ道を引く時は、この印が先に目へ入る。


測りは浅い順路の続きを一本だけ延ばした。

歩幅は変えない。壁の継ぎ目を目印に数を刻み、角で一度締める。


浅い順路の図はもうすぐ端まで届く。

水が引いたら次は深層の続きだ。

その日のためにここの線を先に片づけておく。


戻りの並びは行きの順のままだった。

ナギは先頭の少し後ろで、歩の速さを皆に合わせている。


坑口の外はまだ日が高かった。夏の日は長い。

帰り道の草いきれが行きより濃い。


---


夕方、宿の裏の井戸で装備を洗う。


布が先で革は後。洗いの手順は皆それぞれに決まっている。

洗い場の石が昼の名残で温い。

井戸の桶が鳴る音に、通りの子供の声が遠くで混ざる。


セナが桶を井戸へ落として水を汲み上げる。

僕は数歩離れた流しの台で袋の泥を落としていた。


「ねえ、今日は魚が食べたいな。揚げたやつ」

「いいね。夜、皆で食堂に行こう」


話の途中でナギが自分の洗い物を抱えて来た。

洗い桶を石の上に置いてセナの隣に立つ。


ナギは布を水に沈めた。

肩の側の手は添えるだけで、力は入れていない。


洗い桶が石の上でわずかに滑った。

僕が手を伸ばして縁を押さえる。

ナギは何も言わずに洗いを続けた。


セナの手元の縄が汲み上げの途中で一度止まり、また動き出す。

桶が縁へ上がって水が石の上で跳ねた。


二人分の布が水の中で泥を吐いていく。

坑の土の匂いが薄まって石鹸の匂いに替わっていった。

泥の落ちた水を流して汲み替える。

替えた水もまだ薄く濁った。


革帯は水に浸けない。

濡らした布で泥だけ拭って、風の通る台に伏せる。

乾いたら、夜のうちに油を入れる。


夕日が屋根の間から低く回って、井戸の影が石の上で長い。

井戸の縄が乾いた手の中で鳴る。


セナとナギが井戸の縁に並んで布を絞る。

絞られた水が細い筋になって石へ落ちた。

セナの絞った布は固く絞れている。ナギのは少し緩い。


ナギが布を持ち替えた。


セナの手がふと止まった。

それから自分の手のひらを上へ返して、皮の薄い所を見た。

絞りかけの布から水が落ちる。


口が開いて、音にならずに閉じた。


「……どうかした?」


ナギが顔を上げた。

つばの影の下から、目だけがセナを見る。


「ううん。魚、ナギも揚げたのでいい?」

「いいよ。骨の少ないのがいいな」

「注文が細かい」


セナが笑って、桶をもう一度井戸へ落とした。

汲んだ水が洗い桶に足されて泡が縁で回る。


ナギは絞り終えた布を先に竿へ運んだ。

肩を高く上げない掛け方で、それでも手早い。


干し紐に布が順に掛かっていく。

布の雫が石に点を打って、乾いた分から色が薄くなっていく。

ナギの布もセナの布も同じ紐の上で夕方の風に揺れた。


明日はこの布がまた坑の泥を吸う。

洗って干して、また同じ紐に掛ける。


僕は袋の泥を落とし終えて流しの水を替えた。


---


日が沈んで、広間の灯りが入った。


食堂へ出るまでにはまだ間がある。

洗った布はまだ裏の紐の上だ。

次は革帯に油を入れる番だ。


セナは先に部屋へ上がった。

エマとユルは買い足しに出ている。

マルセルとレオは精算の控えを取りにギルドに出ている。


広間の隅で僕は革帯に油を入れていた。

増水の日に水を吸った革は乾くと固くなる。


油を薄く入れて指の腹で揉んで戻す。

留め具の緩みもひとつずつ確かめる。


卓の向かいでナギが刀身を拭いている。

布の走る音が灯りの下で規則正しく続く。

刃に布を当てる回数が決まっている。それが分かる速さだった。


革と油の匂い。竈の残り火。

二人だけの広間は、坑の中より静かだった。


鞘に刃が戻る音がした。

僕は油の蓋を閉めてから、顔を上げずに言った。


「セナたちには言わないの?」


布を畳む音が止まる。


「隠してはいないよ」


ナギの声はいつもの高さだった。


「聞かれたら答える。ただ、ボクから触れて回る話でもないからね」

「……そう」


僕は次の革帯を手に取った。

油を含ませた布で、留めの裏を拭く。


「キミはどうしたらいいと思う、とは聞かないのかい?」

「それはナギが決めることだからね」


ナギが息だけで短く笑った。


「キミのそういうところは変わらないね」


ナギは鞘ごと刀を膝に立てて口金を布で拭っている。

手入れの順は今日も変わらない。


「言って回るのも、隠して回るのも、どちらでも歩幅が変わる。ボクは変えないよ」


拭き終えた刀が卓の脇へ静かに立てかけられた。

黒い鞘が灯りを細く返している。


「朝のは気にしなくていいよ」

「朝の?」

「帽子の話さ。キミの目が先に逃げただろう」


(見られていた)


「キミが下手なのは知ってるよ。だから頼んだんだ」


僕は留め具の油を拭き取った。

革帯を裏へ返して、縫い目の切れを指でたどる。


「僕からは言わないよ。誰かに聞かれたら、ナギに聞いてくれと返すよ」

「ああ、それでいい」


灯りの芯が短く鳴った。

僕は油の壺に蓋をして拭きの布を畳む。

畳んだ布は油の側と乾いた側で分けてある。


「セナは、いつか自分から聞くよ」

「だろうね」


構える色のない声だった。

急かす気も、待たせている気もない。


ナギが立ち上がって刀を腰へ戻した。

帽子のつばを指で直す。前と同じ深さに収まった。


「一度宿へ戻るよ。食堂には先に行っててくれ」

「魚は骨の少ないのを頼んでおくよ」

「セナにも念を押しておいてくれると助かるね」


戸口の外はもう夜の色だった。


ナギの足音が通りを東へ遠ざかっていく。

外の夜気が広間の隅にまだ残っている。

手の甲がその分だけ冷たい。


僕は最後の革帯に油を入れ終えた。

灯りの下に、革と油の匂いだけが残った。


---


食堂は今夜も混んでいた。


奥の卓が空くまで壁際で少し待った。

給仕が大皿を抱えて卓の間を縫っていく。


六人で卓を囲むと椅子の間はすぐ狭くなった。


マルセルが手前の大皿を回す。

エマが端から受け取ってユルへ送った。

レオは飯の椀をもう半分空けている。


大皿は端から順に回り、取り分けは各自の皿へ。

配られた汁の椀から白い湯気が並んで立った。


「そっち、まだ残ってる?」

「残ってますよ。回しますね」


セナが向かいへ首を伸ばすと、ユルが大皿をセナの方へ回した。

大皿を受け取ったセナは豆の残りを自分の皿へ取った。


戸口が開きナギが来て、卓の端の椅子に座った。

椅子はこれで全部埋まった。

帽子のつばを一度直して袖をまくる。


「遅くなったね」

「まだ魚は来てないよ」


セナが自分の椀を少し寄せて場所を空けた。

マルセルが飯の椀を先に空けて二杯目を頼んだ。


給仕が揚げた魚の皿を卓の真ん中へ置いた。

油の匂いが立って、話し声が一度途切れる。


僕はその皿をナギの前へ回した。

ナギが縁に指を掛けて、一切れを自分の皿へ取る。


話し声と椅子の音が天井の下にこもっている。

魚は骨が少なくて、セナの皿がいちばん先に空いた。


帰り道は夜風が緩い。

通りの店はもう戸を閉てて、軒灯だけが間を置いて並んでいる。


七人の並びはいつもの形だ。

マルセルが先で、エマとユルがその後ろに続く。

セナとナギが真ん中で、魚の値段の話をまだ続けていた。


僕とレオは最後尾を歩く。

軒灯の下を通るたび七つの影が伸びて縮む。


夜気に水の匂いはもう残っていない。

増水が通りに置いていった分はこの数日で乾いた。


坂の下で沢の音がする。

太さはもういつもの夜のものだ。


分かれ道でナギとレオが足を止めた。

二人の宿は東門の端にある。ここから道が分かれる。


「じゃあ、また明日」

「うん。朝、いつもの広間で」


ナギが帽子のつばに指を添えて軽く下げた。

レオが手を上げる。二つの背中が東の通りへ折れていった。


足音が二組分減って、夜の通りは急に広くなる。


セナは手を振ってから、すぐには前を向かなかった。

視線が一度だけ遠ざかる帽子の上に残る。


「……よし、帰ろ」


誰にでもなく言ってセナは歩き出した。

足の運びはもう元の速さに戻っている。


前を行く三人の声が夜の通りに低く続いている。

僕はセナの隣に並んで歩幅を合わせた。


軒灯の間隔と同じ間で、五人分の足音が宿への坂を上っていく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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