閑話⑦「ボクのまま」
宿の広間は静かだ。
竈に残り火が沈んでいる。
床板の継ぎ目だけが浅く赤い。
薪が小さく爆ぜて火の粉が一つ浮いて消える。
階段の上から物音はしない。
戸の外に人の声もない。
夜気が板戸の隙間から入って火の匂いと入れ替わる。
夜はもう深い。
ボクは隅の長椅子に腰を下ろした。
濡れた上着を火のそばへ広げる。
袖から水が抜けて布の重さが少しずつ戻っていく。
裾に乾きかけの泥がついている。
指で摘まめば、砂のように崩れて落ちた。
乾いていく匂いの底には坑の土がまだ残っている。
手袋と脚絆も並べて干してある。
革は火から離して置く。急かせば縮む。
乾かし方にも先後がある。
肩の傷が浅く疼く。
肩口から鎖骨の外れへ、幅のある浅い裂き傷。
血はもう止まっている。
脇腹の打ち身は座っていれば忘れる程度だ。
布の結び目は傷を外した位置にある。
指二本分の緩みで息を吸っても引き攣れない。
布の下で疼きが浅く脈を刻んでいる。
息の間隔と揃っている。
あの時リクの手は一瞬だけ止まった。
掌の縁が首筋に触れた、その一瞬だけ。
すぐ目を逸らして手は動き続けた。
「傷を見る。いい?」
確認はそれきりであとは速かった。
巻いて結んで、緩みを確かめる。
膝の上にもう一枚上着がある。
ボクのものではない。リクのだ。
袖丈が合っていない。
ボクの腕には長すぎる。
帰り道で肩に掛けられたまま返しそびれた。
畳んで広げて結局膝に置いている。
首の後ろでは借りた布が髪を留めている。
帽子は水に持っていかれた。
結い紐も一緒に流れ、下りた髪の重さを久しぶりに首で覚えた。
帽子が飛んだ瞬間のことは順を追って思い出せる。
つばが水を滑って届かない場所へ行った。
髪が落ちて視界の端で金色が揺れた。
隠す手より止血の手のほうが先に来た。
あの場のボクもそれでいいと決めていた。
知られた。
その事実を、波の引いたあとの砂浜を見るように眺めている。
波がひとつ来て、去って、砂の形が少しだけ変わった。
それでも浜は浜のままだ。
胸の内は凪いでいる。
そんな自分をもう一度確かめる。
小さい頃、一度だけ海を見た。
浜では波が来るか引くかのどちらかだった。
寄せると決めた波が寄せて、引くと決めた波が引く。
ボクは日が傾くまでそれを見ていた。
波は相手を選ばない。
誰の浜にも同じ高さで寄せる。
名前を確かめてから引く波はない。
波音は今でも耳の奥にある。
人の稽古場は浜と違った。
木剣を合わせた相手が、こちらの名を知った途端に腰を引く。
打ち込みが浅くなり目が泳ぐ。
剣先が触れる前から勝負の外へ出ていく。
ボクは相手の速さが見たかった。
見せてもらえたことは一度もない。
勝ってもその勝ちは名前のものだった。
負けすら本物にならなかった。
名を伏せると決めたのはボク自身だ。
名を出せば道は先に均される。
剣を振る前から評価が置かれる。
席も、勝ちも、形だけ用意される。
ボクはそれを受け取らないと決めた。
名前は借りられる。
速さは借りられない。
名前を使わず実力で道を切り開いた人を、ボクは一人だけ知っている。
初めて髪を結い上げた朝を覚えている。
鏡の中に見知らぬ小柄な少年が立っていた。
似合うかどうかは考えなかった。
これで打ち込みが浅くならない。
確かめたのはそれだけだ。
以来、結い上げは毎朝の手順になった。
波が満ちて引くのと同じ周期でボクの一日が始まる。
だから纏うものだけを変えた。
髪を結って帽子に収める。
つばを目深に下ろす。
襟を立てて声を低く保つ。
歩幅を変えて笑い方を減らす。
それで小柄な少年が一人できあがる。
中身は何も変えていない。
纏うものだけが変わる。
選んだのはボクだ。
潮を読んで沖へ出る日を決めるのと同じだ。
決めた日から迷っていない。
人を見る時、ボクは速さを見る。
決めるまでの間合い。
迷いが挟まるか、挟まらないか。
退き時を先に決めてある者かどうか。
迷いには匂いがある。
半歩の遅れ、視線の往復、言い訳の前置き。
浜で波を見ていた目はそういうものを先に拾う。
看板より、間合いのほうが嘘をつかない。
一年余り、この街で同じ卓を囲んできた。
速い者も、速さを装う者も見てきた。
装いは深い場所で剥がれる。
今日の坑のような場所でだ。
帰り道のマルセルを思い出す。
一度だけ、ボクとリクを見た。
一拍。無言。
それだけだった。
あの人の判断は速い。
今日の退き際も、号令に迷いがなかった。
あの一拍のあと、歩幅すら変えなかった。
値踏みも、詮索も、間に挟まらなかった。
聞かない理由をボクは聞かない。
それで釣り合いが取れている。
リクも聞かなかった。
聞かなかったのは理由のほうだ。
なぜ男として立つのか。
いつからか。
誰に隠しているのか。
どれも口にしなかった。
目を逸らして、上着を脱いで、掛けた。
手当ての速さだけが続いた。
手の運びを思い出してみる。
止血が先で、問いは無し。
上着が先で、視線は外。
速さの要る場面であの手は一度も遅れなかった。
あの坑でリクは前を向いたまま言った。
「先に上がっててください。ナギは僕が見ます」
段取りに迷いがなかった。
先後を間違えない者の声だった。
街道で二人になった時、ボクは一つだけ確かめた。
「……キミは、口が堅いかい?」
リクは息を一つ吸った。
「堅いよ」
それだけだった。
理由を問い返さなかった。
約束の言葉も足さなかった。
短い答えのまま、並んで歩き続けた。
あの息継ぎの短さを覚えている。
問いから答えまで、波が一つ寄せるほどの間だった。
まっすぐ答えが返ってきた。
明日もリクは同じ呼び方をするだろう。
ナギ、と。短く呼んで先を歩く。
軒のどこかで水滴が落ちる。
数える気はないのに耳が拾う。
階段の上から音は下りてこない。
ボクは波打ち際に貝を並べる手つきで今日の事実を並べる。
一瞬だけ止まった手。
掛けられた上着。
「堅いよ」という短い答え。
最後にマルセルの一拍が並ぶ。
どれも静かで、どれも引いていかない。
明日の支度を頭でなぞる。
荷の底に替えの帽子がある。
形もつばの広さも変わらない。
荷を開けてつばの張りを指で確かめた。
見慣れた堅さが返ってくる。
朝が来たら髪を結い直す。
この帽子を目深にかぶって階段を下りる。
リクの上着は畳んで返す。
借りた布は洗って返す。
結び方は手が覚えた。
礼は一言でいい。
竈の火が細くなった。
上着はもう半ば乾いている。
夜の底が凪いでいる。
ボクは、ボクのままだ。




