表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
88/94

閑話⑦「ボクのまま」

宿の広間は静かだ。


竈に残り火が沈んでいる。

床板の継ぎ目だけが浅く赤い。

薪が小さく爆ぜて火の粉が一つ浮いて消える。


階段の上から物音はしない。

戸の外に人の声もない。

夜気が板戸の隙間から入って火の匂いと入れ替わる。

夜はもう深い。


ボクは隅の長椅子に腰を下ろした。


濡れた上着を火のそばへ広げる。

袖から水が抜けて布の重さが少しずつ戻っていく。


裾に乾きかけの泥がついている。

指で摘まめば、砂のように崩れて落ちた。

乾いていく匂いの底には坑の土がまだ残っている。


手袋と脚絆も並べて干してある。

革は火から離して置く。急かせば縮む。

乾かし方にも先後がある。


肩の傷が浅く疼く。

肩口から鎖骨の外れへ、幅のある浅い裂き傷。


血はもう止まっている。

脇腹の打ち身は座っていれば忘れる程度だ。


布の結び目は傷を外した位置にある。

指二本分の緩みで息を吸っても引き攣れない。


布の下で疼きが浅く脈を刻んでいる。

息の間隔と揃っている。


あの時リクの手は一瞬だけ止まった。

掌の縁が首筋に触れた、その一瞬だけ。

すぐ目を逸らして手は動き続けた。


「傷を見る。いい?」


確認はそれきりであとは速かった。

巻いて結んで、緩みを確かめる。


膝の上にもう一枚上着がある。

ボクのものではない。リクのだ。


袖丈が合っていない。

ボクの腕には長すぎる。


帰り道で肩に掛けられたまま返しそびれた。

畳んで広げて結局膝に置いている。


首の後ろでは借りた布が髪を留めている。

帽子は水に持っていかれた。

結い紐も一緒に流れ、下りた髪の重さを久しぶりに首で覚えた。


帽子が飛んだ瞬間のことは順を追って思い出せる。


つばが水を滑って届かない場所へ行った。

髪が落ちて視界の端で金色が揺れた。


隠す手より止血の手のほうが先に来た。

あの場のボクもそれでいいと決めていた。


知られた。

その事実を、波の引いたあとの砂浜を見るように眺めている。

波がひとつ来て、去って、砂の形が少しだけ変わった。

それでも浜は浜のままだ。


胸の内は凪いでいる。

そんな自分をもう一度確かめる。


小さい頃、一度だけ海を見た。

浜では波が来るか引くかのどちらかだった。

寄せると決めた波が寄せて、引くと決めた波が引く。

ボクは日が傾くまでそれを見ていた。


波は相手を選ばない。

誰の浜にも同じ高さで寄せる。

名前を確かめてから引く波はない。

波音は今でも耳の奥にある。


人の稽古場は浜と違った。

木剣を合わせた相手が、こちらの名を知った途端に腰を引く。

打ち込みが浅くなり目が泳ぐ。

剣先が触れる前から勝負の外へ出ていく。


ボクは相手の速さが見たかった。

見せてもらえたことは一度もない。


勝ってもその勝ちは名前のものだった。

負けすら本物にならなかった。


名を伏せると決めたのはボク自身だ。

名を出せば道は先に均される。

剣を振る前から評価が置かれる。

席も、勝ちも、形だけ用意される。


ボクはそれを受け取らないと決めた。

名前は借りられる。

速さは借りられない。


名前を使わず実力で道を切り開いた人を、ボクは一人だけ知っている。


初めて髪を結い上げた朝を覚えている。

鏡の中に見知らぬ小柄な少年が立っていた。

似合うかどうかは考えなかった。


これで打ち込みが浅くならない。

確かめたのはそれだけだ。


以来、結い上げは毎朝の手順になった。

波が満ちて引くのと同じ周期でボクの一日が始まる。


だから纏うものだけを変えた。


髪を結って帽子に収める。

つばを目深に下ろす。

襟を立てて声を低く保つ。

歩幅を変えて笑い方を減らす。


それで小柄な少年が一人できあがる。

中身は何も変えていない。

纏うものだけが変わる。


選んだのはボクだ。

潮を読んで沖へ出る日を決めるのと同じだ。

決めた日から迷っていない。


人を見る時、ボクは速さを見る。

決めるまでの間合い。

迷いが挟まるか、挟まらないか。

退き時を先に決めてある者かどうか。


迷いには匂いがある。

半歩の遅れ、視線の往復、言い訳の前置き。


浜で波を見ていた目はそういうものを先に拾う。

看板より、間合いのほうが嘘をつかない。


一年余り、この街で同じ卓を囲んできた。

速い者も、速さを装う者も見てきた。

装いは深い場所で剥がれる。

今日の坑のような場所でだ。


帰り道のマルセルを思い出す。

一度だけ、ボクとリクを見た。


一拍。無言。


それだけだった。


あの人の判断は速い。

今日の退き際も、号令に迷いがなかった。


あの一拍のあと、歩幅すら変えなかった。

値踏みも、詮索も、間に挟まらなかった。

聞かない理由をボクは聞かない。

それで釣り合いが取れている。


リクも聞かなかった。

聞かなかったのは理由のほうだ。


なぜ男として立つのか。

いつからか。

誰に隠しているのか。


どれも口にしなかった。


目を逸らして、上着を脱いで、掛けた。

手当ての速さだけが続いた。

手の運びを思い出してみる。

止血が先で、問いは無し。


上着が先で、視線は外。

速さの要る場面であの手は一度も遅れなかった。


あの坑でリクは前を向いたまま言った。


「先に上がっててください。ナギは僕が見ます」


段取りに迷いがなかった。

先後を間違えない者の声だった。


街道で二人になった時、ボクは一つだけ確かめた。


「……キミは、口が堅いかい?」


リクは息を一つ吸った。


「堅いよ」


それだけだった。


理由を問い返さなかった。

約束の言葉も足さなかった。

短い答えのまま、並んで歩き続けた。


あの息継ぎの短さを覚えている。

問いから答えまで、波が一つ寄せるほどの間だった。


まっすぐ答えが返ってきた。


明日もリクは同じ呼び方をするだろう。

ナギ、と。短く呼んで先を歩く。


軒のどこかで水滴が落ちる。

数える気はないのに耳が拾う。


階段の上から音は下りてこない。

ボクは波打ち際に貝を並べる手つきで今日の事実を並べる。


一瞬だけ止まった手。

掛けられた上着。

「堅いよ」という短い答え。


最後にマルセルの一拍が並ぶ。

どれも静かで、どれも引いていかない。


明日の支度を頭でなぞる。


荷の底に替えの帽子がある。

形もつばの広さも変わらない。


荷を開けてつばの張りを指で確かめた。

見慣れた堅さが返ってくる。


朝が来たら髪を結い直す。

この帽子を目深にかぶって階段を下りる。


リクの上着は畳んで返す。

借りた布は洗って返す。

結び方は手が覚えた。

礼は一言でいい。


竈の火が細くなった。

上着はもう半ば乾いている。

夜の底が凪いでいる。


ボクは、ボクのままだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ