第80話「帽子の下」
坑口までの道は草が膝の高さまで伸びていた。
朝の露はもう冷たくない。
沢の水音が道の下から太く届く。
燕が沢の上を低く切っていく。
去年は引きの年だった。今年は並だと聞いている。
それでも季節の満ちは来る。
晩春の雪解けにゆうべからの雨が重なった。
宿を出る前に依頼の控えを確かめた。
いつもの間引きと順路の続きの調べだ。
今月分の為替はおととい窓口で出してある。
坑口で皆が灯りに火を入れる間、浅層の溜まりへ寄った。
水際の炭の印が水の下に入っている。
五日前の印だ。印ひとつ分を越えて上がっている。
壁の痕を見ると乾いた縁の白い粉が際のところだけ消えていた。
匂いを嗅ぐと土が錆に勝ち始めている。
天井の雫を数えると間が前より詰まっていた。
三つの読みが同じ向き、上がる側を指している。
「今日は水の上がりが早いです。昼には順路まで来ます。奥まで測るのはやめて、早めに戻りましょう」
「なら測りは半分だ。石は拾えるだけでいい」
マルセルが自分の灯りの火を確かめて頷いた。
セナが袋の口を締め直しながら、溜まりの方を覗き込む。
「ゆうべの雨だよね。屋根、ずっと鳴ってた」
「雨と雪解けが重なったんだ。それでも昼までは保つよ」
見立てには並びがある。五日おきの計測と壁と匂いと雫の間だ。
ノートの水位の欄はこの春から棒の向きが上へ変わっている。
ナギが僕の手元を横から見た。帽子のつばの影で目は見えない。
「キミの読みなら、ボクは疑わないよ」
「読み違えたら、昼前でも引き返すよ」
先頭の灯りが順路の暗さへ入っていった。
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深層の冷えは季節と関わりがない。
灯りは三つ。振り分けもいつもの形で順路に入った。
角ごとに歩数を締めて図の線と突き合わせる。
線のある間は誰の足も迷わない。
水音は順路の奥ほど遠い。
それでも今日は底の方で低く続いている。
図には持ち場の印も入っている。
点も横棒も鉤も、置いた日から場所が動いていない。
狭まりの手前で一度開く。皆が印の場所へ黙って散った。
声で割るより早い。印は皆の足が先に決めた場所だ。
最初の分かれでエマの指が二本立った。
「左の奥。粉が新しいよ」
セナが先に動いた。
灯りの輪より前へ出て、岩の角へ低く糸を掛けておく。
糸の端は指へ二重に巻いてある。張りの強さを先に決めておく掛け方だ。
「先に取っとくね。ここ、逃げ道になるとこだから」
殻が二つ、影の側から間合いを詰めてきた。
逃げる先はもう塞がっている。
糸が根元をまとめ、マルセルが面で運び、ナギの刃が合わせ目を開いた。
僕は反対の継ぎ目を仕舞う。
刃を入れる角度も迷いが減った分だけ浅くて済む。
持ち場は誰も動かない。
手数は前より、また少なくなっている。
春に初めて下りた頃、ここは角ごとに声が要った。
今は指の向きと灯りの寄せ方だけで同じ形が組み上がる。
石を剥いで仕切りへ落とした。
手はもう殻を見ずに動いている。
剥ぎ口の湿りだけが指に残った。
その奥で雫の音が続いていた。間は朝より短い。
深さの違う場所でも、水は同じ向きへ動いていた。
剥ぎ終わる頃にはレオの耳がもう次の順路を向いていた。
二度目は声も要らなかった。
エマの指が向きを差し、セナの糸が先に角へ回る。
ナギの刃は今日も踏み込みの前までしか見えない。
殻が二つ、続けざまに傾いて止まった。
剥いだ石の数は今日も見当の内だ。
袋の仕切りの列が順に埋まる。
出る場所が行の並びより手前へ寄っている。
水の上がる日は殻も低い側を嫌うのかもしれない。
広間の隅で足を止めて、ノートの隅に短く書いた。
測りは順路の先の一本だけにした。
歩幅は変えない。壁の継ぎ目を目印に数を刻み、角で一度締める。
分かれは二つ。口の幅と向きを図へ落として、角の石に炭で印を置いた。
帰りに同じ道を引く時はこの印が先に目へ入る。
炭の線が古い手の薄れた線のさらに先へ伸びていく。
測りは半分と決めた分だけ、締めるのも早い。
戻りにかかる前、順路の脇の窪みで足が止まった。
朝は乾いていた。底に水の膜が張り始めている。
「早いな」
マルセルが横で同じ窪みを見ていた。
「締めます。戻りましょう」
袋の重さも図の線も、今日の分は足りている。
並びを戻りの形に組み替えて、来た順路を引き返した。
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異変は連絡坑の手前で分かった。
順路の奥と下り口の段をつなぐいちばん低い道だ。
行きの水の高さは足首もなかった。それが入り口で靴を噛んでいる。
奥から水音が来る。溜まりではない、流れの音だ。
匂いも変わっている。土の匂いが錆を呑んで坑の息が重い。
「水が出てます。低い坑は捨てます」
数歩入って確かめた。膝まで来て、戻る間に膝の上を越えた。
入りが早いのは朝から読めていた。
けれど、この速さは読みのどこにもない。
「右の巻き道から段へ上がります。
エマ、先導を。高い側の足場を拾ってください。
ユル、巻き道の口へ。通る順を崩さないでください。
セナは先に段の上へ。上がった順に手を貸して引き上げて」
「ん、行ってくる」
セナが水を蹴って先へ出た。
杖の灯りが巻き道の口で一度跳ねて、上へ消える。
マルセルが荷の紐を締め直した。
「後ろは誰だ」
「僕が持ちます。ナギ、悪いけど残って。最後の二人になる」
「いいよ。キミの後ろは、退屈しないからね」
巻き道は片側が岩壁だ。低い側の足場が水に沈み始めている。
巻き道の口でユルが数を数え、間が詰まると手で止めた。
声は短い。行け。待て。行け。
待てが入るのは水の押しが強まる息の間だけだ。
一人ずつ通す。前の背中が順に段の口へ吸い込まれていく。
通す間は人数を口の中で数えた。
水の押しが引く波を待って一人ずつ出す。
段の上からセナの声が一度だけ落ちてきた。
水は腿へ来ていて、流れが足を横から押す。
冷えより先に重さが来る。
空の袋がひとつ、足元を流れて灯りの外へ出ていった。
壁の痕はとうに水の下で、印を置いた縁ごと流れに沈んでいる。
レオが段の口で振り返り、残りの数を目で数えてから上がった。
残りは二人。ナギが先で僕が最後に水へ入る。
最後の流れの前でナギが足を止めた。
段の口までの水面を目で測って、僕に先を譲る形に半歩引く。
僕は首で断った。並びは変えない。
坑木の軋みは一度だけだった。
水に根を洗われた支えの木が斜めに落ちる。
落ちる影が灯りの輪を横に切った。声を出す間はない。
ナギが身をひねった。肩口に当たって、木の角が脇腹を擦る。
体が水の中へ崩れた。帽子が流れに取られた。
つばの丸みが一度浮いて、それきり灯りの外に流れた。
腕を掴んで引き起こした。
結いが解けて、長い金髪が水を吸って背に貼りつく。
髪の長い剣士は珍しくない。町でも幾人か見かける。
それより肩だ。裂けた布の下から、血が水に混ざって流れていた。
水の中に立たせたままなら、冷えが傷より先に効いてくる。
「歩ける?」
「……歩けるよ」
声が浅い。水の冷えで浅くなる声とは違う。
「先に上がっててください。ナギは僕が見ます」
段の上へ声を通した。
マルセルの声が短く返る。
「左に棚がある。水より上だ。急げ」
巻き道の途中の高い側に古い作業の棚が残っている。
ナギの無事な側の腕を肩に回して水を出た。
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棚の岩は乾いていた。灯りを岩の出っ張りに置く。
ナギを壁に凭れさせた。息が浅く、唇の色が薄い。
「傷を見る。いい?」
「……頼むよ」
肩口の布は裂けて、血を吸って重くなっていた。
その下は襟の高い上着だ。濡れて肌に貼りついている。
前の留めを上から順に外した。
畳んだ布を差し入れて、傷へまっすぐ当てる。
掌の下でナギが小さく息を詰めた。
傷は肩口から鎖骨の外れへ。深くはないが幅で血が出ている。
布の上から押さえて滲みの広がりを見張った。
押さえは掌の根で置く。指で押すと点で入って傷が開く。
押さえる掌の縁が首筋に触れた。
細い。
手が、一瞬だけ止まった。
(……そうか)
目を傷の一点へ戻す。
僕は自分の上着を脱いで開いた前へ掛けた。
押さえる手は変えない。
血の滲みは二枚目の布の途中で止まりかけている。
「息、深く吸える?」
「……吸えるよ」
「なら肋はずれてない。脇腹も見るよ」
掛けた上着の上から、掌で脇腹を押した。
押すと息が詰まる。骨の動く感じはない。
血の気の引いた顔でナギは僕の手元だけを見ている。
十を三度数える間、滲みの広がりは指の幅で止まっていた。
布は歯で切れ目を入れてから、織りに沿って裂いた。
端を肩の上から回して、傷を外した場所で結ぶ。
強さは指が二本入るだけ。一度引いても緩まない。
ナギは天井を見ていた。
それから無いつばの位置を手で一度探る。
帽子はもう水の下だ。
「……布、もう一枚あるかい」
「あるけど、何に使うの?」
「髪を縛りたい」
ナギは濡れた髪を首の後ろでまとめて、二度巻いて留める。
肩の側の腕は使っていない。
水に取られた結い紐を布の結びで代えた。
濡れた上着は脱がせない。
乾かす場所がここにはない。
冷えは血より遅れて来る。
宿までは歩かせ続けるしかない。
背中と岩の間に僕の袋を挟んで、石の冷えから離した。
灯りの油はまだ半分ある。待つ分には足りる。
待つ間も雫の間を数えた。そのたびに息の数が増えていく。
炎はもう揺れない。棚の上の空気が止まっている。
岩の下を過ぎる水の音だけが少しずつ細くなっていった。
「水は峠を越えた。際が下がるまで待って、それから歩こう」
「……キミは、手当ての順も決まってるんだね」
「血が先。冷えが次。歩くのは最後だ」
ナギが息だけで短く笑った。
無事な側の手が掛けた上着の前を軽く合わせた。
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際の岩が濡れた背を見せ始めた。
水は膝の下まで戻っている。
ナギを先に立てて残りの水を渡った。
段の上でセナが手を伸ばして、ナギの伸ばした腕を引き上げる。
「良かった、まだ歩ける?」
「ああ、心配かけたね。これ以上は荷物にはならない」
僕が上がった時、セナの顔はもう次の順路を向いていた。
上の順路は乾いている。
それでも靴の中は水のままだ。一歩ごとに足の下で鳴る。
濡れた革帯が肩に食い込む。
袋の石までが水を吸ったみたいに重い。
ユルが肩の布の結びを上から確かめて締め直した。
布の下には触れない。エマが乾いた布を一枚取り出してナギへ投げた。
「気張んな。出口までだ」
柵の先も、浅層の溜まりの脇も、水は高いままだった。
それでも順路は切れずに続いて、前に坑口の光が開けた。
外は夕方だった。
濡れた装備が西日の中で湯気を立てている。
マルセルが人数を数え、袋の数を数えた。
「濡れた体は夜になると冷える。日のあるうちに帰るぞ」
先頭へ戻る途中で一度だけ足が緩む。
ナギを見て、それから僕を見た。
そのまま何も言わずに西日の街道へ出ていった。
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街道の途中でナギの歩みが遅れた。
僕は歩幅を合わせる。
前の五つの背中が少しずつ遠くなった。
ナギは僕の上着を羽織ったまま、前を向いて歩いている。
布で縛った髪の先から、水がまだ一滴ずつ落ちていた。
日の落ちる前の風は冷えを取り戻している。
濡れた裾が足に貼りついた。
「……キミは、口が堅いかい?」
問いの形なのに語尾が上がらなかった。
道の水たまりに西の赤が割れて浮かんでいる。
夕方の風が帽子のない頭を通り抜けていった。
僕は息を一つ吸った。




