第79話「同じ影」
朝の通りは霜で白い。
水たまりの氷が靴の下で割れて、乾いた音が一歩ごとに続く。
日はまだ屋根の高さだ。吐いた息が先に立って歩く。
宿を出る時、セナはもう戸口で待っていた。
ギルドの戸口をくぐると外の冷えが背中で切れた。
戸口の脇で火鉢が一つ赤い。奥の台では判を突く音が続いている。
窓口の前に人はいない。朝の受注の波にはまだ間がある。
窓口のミラさんが顔を上げた。
台帳の脇に僕の名前の書き付けが挟んである。
「審査の結果が出ています。Dランクへの昇格です」
隣でセナが息を吸うのが分かった。
台帳がこちらへ向けて開かれる。
僕の名の行が上から並んでいた。
セナは窓口の縁に手を置いて台帳の行を上から目で数えている。
「こなした依頼の記録。それと、検分を通った実測図の買取の記録を成果として決定されました」
羽根ペンの先が行の頭を順になぞっていく。
台帳の紙は冬の乾きで軽く反って、めくるたびに音が硬い。
依頼の行は春から途切れずに続いている。
その脇には種類ごとの判の写し。護衛、間引き、調べ。
討伐の行は旧坑に入ってから数字が太い。
頭数の欄は月を追うごとに増えている。
その間に図の行が挟まっていた。
旧坑の図。浅層の差分。深層の差分。
図の行にも日付と値が入って、依頼と同じ枠の中に並んでいる。
「図も実績に数えるんですね」
「台帳に載った記録は種類を問わず数えます」
ミラさんが棚から布の包みを出す。
布が開かれて、新しい板が台の上に置かれた。
窓口の奥の壁には等級の一覧の板が掛かっている。
Dの段は下から数えた方が早い。
僕は腰のEの板を外してその隣に置いた。
テルナで受け取ってから提げ通した板だ。
縁が指の脂で鈍く光っている。
Dの板を取り上げると、刻印の角がまだ立っていて指の腹に引っかかった。
焼き印には煤の匂いが薄く残っている。
「等級の書き換えは済んでいます。本日から有効です」
Eの板は台の向こうで箱に仕舞われた。
ミラさんが綴りの等級の欄に新しい字を入れて判を重ねる。
布は畳み直されて棚へ戻った。
背中の側では朝の受注が始まりかけている。掲示の前の足音が増えていた。
腰に提げ直すと板は歩くたびに前と同じ場所で鳴った。
掲示板の前には今日も装備の重い連中がいる。
人垣の中から、深層、という声が切れ切れに聞こえた。
真ん中の紙は変わらない。
旧坑・深層区画、Dランク以上。
紙は春からずっと同じ釘で留まっている。
端が乾いて反り、留め釘の錆が増えた。
セナが背伸びして、条件の行を指の先でなぞる。
背伸びの形は春と同じだ。指の差す行だけが違う。
「もう引っかかんないじゃん、これ」
なぞった指が戻ってきて、僕の腰の板を軽く弾いた。
それから自分の板を外して、僕のDの横に並べる。
革紐を解くのに少し手間取った。冬の指は動きが硬い。
焼き印の形も、字の彫りの深さも変わらない。
僕のは彫りの底がまだ白い。セナのは溝に黒が馴染んでいる。
並んだ二つの板が窓の光の中で同じ影を落としていた。
「……並んだね」
「うん、並んだ」
「あたし、こっち側でけっこう待ったんだよ」
「知ってる。お待たせ」
セナは板を腰へ戻して、留めの革を二度確かめた。
人垣の誰かが僕らの腰を見て、それから掲示へ目を戻す。
「次はCだね」
「うん。やることは変えない」
セナが笑って人垣の間から表へ歩き出す。
並んで歩くと腰の高さで板が二枚鳴った。
冬の陽は低く、通りの霜を日の当たる半分だけ溶かしていた。
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昼を回ってから、もう一度窓口へ寄った。
午後の広間は静かで掲示の紙が戸口の風で時々鳴る。
昇格して最初にやると決めていたことが一つある。
「テルナ支部への月の為替を変えたいんです」
ミラさんが為替の綴りを棚から出す。
綴じ紐の結びを解いて僕の行を開いた。
綴りは月ごとに一枚ずつ綴じてある。紙の上の隅に月の名。
毎月、同じ数字が同じ位置で並んでいる。
僕の行の下には別の名前が続く。
町を出た誰かからの残った家への紙だ。
「現在の取り決めは月に銀貨3枚です。変更の内容をどうぞ」
「5枚にしてください。次の月の分からで構いません」
「承りました。次の締めから新しい額で組みます」
ミラさんが変更の紙を一枚出した。
紙は二枚重ねで下の一枚が控えになり綴りに入る。
額の欄に5の字が入って、上からミラさんの判が重なった。
ミラさんは判を置く前に額の字を一度読み上げた。
内容が間違いのないことを声で確かめる。
指が迷わず同じ場所を握り、判の柄は手擦れで飴色になっていた。
紙を少しずらして脇へ置く。朱の判は冬の窓口では乾きが遅い。
紙を一枚もらい窓口の脇で手紙を書いた。
卓の板は冷えていて、置いた手の側から熱を取っていく。
隅に残っている吸い取り砂を掌で払ってから紙を置いた。
窓口のインクは薄く二度浸けて字の濃さを揃えた。
指先が冷えていて最初の字が少し震えた。
ルナ叔母さんへ。
等級が一つ上がって取り分が増えました。
月の分は5枚にします。
足りていなければ教えてください。
次の便から追加で払います。
封をして宛名を書く。
テルナ支部、ルナ気付。
手紙を窓口へ戻すとミラさんが受付の判を落とした。
「便は明後日の朝に出ます」
「お願いします」
窓口を離れる時、綴りの僕の行が一行だけ長くなっているのが見えた。
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返事は二十日あまりで届いた。
便の台で名前を呼ばれて包みを受け取る。
職員は束の中から迷わず抜き出した。
テルナの判は他の封より濃い。
昼の間は開けずに持ち歩いた。
夜になって、宿の部屋で灯心を立てる。
広間では泊まり客が竈の側で手を炙っていた。
階段の下から薪の爆ぜる音が届く。
読む前に灯心の向きを直して、影が紙に掛からない場所へ置き直した。
封を小刀で開ける。刃はゆうべ整えたばかりで紙は一息に開いた。
中身は手紙が一枚と為替の控えが一枚。
控えは薄いが紙は硬い。月ごとの締めの位置に同じ形の判が並んでいる。
手紙の方はギルドの備え付けと同じ質だ。テルナの窓口の卓で書いたのだと分かる。
ルナの字は太い。行の頭は真っ直ぐで、終わりだけが撥ねて次の行に食い込んでいる。
増やすってんなら止めない。届いた分は薬に回すよ。
金の計算はこっちで付けとく。あんたが気にする話じゃない。
薬は今月も村へ届いてる。そこは変わらない。
あんたらはちゃんとメシを食いな。冬に痩せると春にこたえるからね。
それだけだった。
足りていない分は書いていない。
返ってきたのは、こっちで付けとく、の一行だ。
灯心の火がふらついて紙の上の影が揺れた。
手紙を上からもう一度読む。
折り目を指で一度伸ばして、畳む時は元の折り目に合わせた。
そのまま物入れの内へ仕舞う。
控えの判の朱は乾いていて、指でなぞっても写らない。
階下の薪の音は間遠になっている。
明日の袋の仕切りを一つ確かめてから火を細くした。
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十日に一度の便の日が来る。
窓口で月の締めの判が落ちた。
為替の紙の額の欄には5の文字が入っている。
新しい取り決めの最初の月だ。
控えを受け取って胸元へ仕舞う。
台の端の墨壺に薄い氷が張っている。
職員が指の先で割って、割れた欠片を布で拭き取った。
紙を一枚もらって台の端へ寄る。
板は冷えていて、指の先から冷たさが上がってくる。
母さんへ。
冬に入って、朝は霜が降りるようになりました。
等級が一つ上がりました。
仕事はこれまでと変わらずやっています。
炭の先を小刀で整えて、名前の下に日付を足す。
薬はこれまで通りテルナから村へ回っていく。
こちらから出るのは為替と手紙だ。
宛先は別で、出ていく口は同じ台になる。
戸口から足音が来て隣に止まった。
「出した?」
「うん。今月から5枚」
「そっか」
セナはそれだけ言って、台に残った氷の跡を指で押した。
残りは聞かない。冬に入ってから何度か見た手つきだ。
外の光が一度切れて、ナギが戸口をくぐってきた。
台の職員に短く用件を告げる。
「取り寄せの受け取りをよろしく」
セナが横から覗き込む。
「ナギ。何かの受け取り?」
「ああ、レオの砥石さ。物に拘って取り寄せるくせに、ボクを使いパシるんだよ」
職員が奥から出した小さな包みを、ナギが革の紐ごと一度引いて確かめる。
包みを腰の袋へ仕舞って、ナギは僕の手元の紙を見た。
「リクは手紙を出すのかな?」
「うん、家族にね」
「そうか、冬は道が遅いから返事は年を越すかもね」
「霜の間だけだよ」
セナが言うと自分の手に息を吐きかける。
指の先が赤い。
「早く出しなよ。袋が締まっちゃう」
封をして宛名を書き、便の箱に手紙を落とした。
中の束のいちばん上に載った紙は白かった。
その下の紙は角が擦れて、日付の墨が薄い。
台の向こうでは職員が束を革の袋へ移している。
数を声に出して数え、袋の口を紐で二度縛った。
袋が台から下ろされ、外の馬の背へ回っていく。
三人で戸口まで出た。
外の冷えが襟の内へ入ってくる。
「それじゃあ。ボクは西門の方に行くから」
「じゃあ、ついでに見送っといて」
セナが言うと、ナギは肩を一つ上げて歩き出した。
霜の道を便の馬が西へ出ていく。
十日ぶんの紙の束と一緒だ。
蹄が霜を割って、通りの白い面に黒い点を並べていく。
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数日おいて、また坑へ下りた。
受注の窓口で依頼の紙に名前が順に写される。
僕の名前の脇に入る等級の字が今日からDになった。
依頼はいつもの間引きと順路の続きの調べだ。
入域札の裏の戻りの欄に出る日と同じ日付を書く。
掌の中の札は前と同じ木で、焼き印の等級の字だけが違う。
坑口までの草は霜で白く縁取られている。
石組みの奥からの冷気は外の霜より重い。
浅層の溜まりの縁で足を止めた。
秋の終わりに乾いていた砂の際が、水の下へ戻り始めている。
乾いた砂に残っていた靴の跡が際のところだけ湿りに呑まれていた。
壁の痕まではまだ遠い。それでも水面は上がる側へ動いている。
水際の行に一行だけ足して先へ進む。
深層への柵をくぐる。
段の急さも、影の向きを先に直す手順も、足が覚えている。
降りた時の冷えは深いままだ。
殻が二度出て、二度とも持ち場の内で終わった。
先に指が上がって、灯りが寄る前に居場所が決まる。
糸が回り刃が継ぎ目へ入る。持ち場は誰も乱れない。
石を剥いで仕切りへ落とす。
袋の重さの増え方ももう見当がつく。
調べの分は順路の先だ。
角ごとに歩数を締めて分かれの数を数え直す。
進んだ分だけ図の線が伸びる。
継ぎ足した線の炭はまだ濃い。
古い手の薄れた線の先に僕の線が続いていく。
その先で、道が下りに変わっていた。
段の口に木の柵が立っている。
格子の桟に鉄の札が一枚。
柵の木はここの柵より黒い。
桟の釘は頭が丸く錆びて、打たれてから長い。
格子は手の入る幅しかない。
桟の内側だけが手擦れで鈍く光っていた。
札の縁は字の焼き跡より新しく削り直されている。字は短い。
Cランク以上。
マルセルが柵の格子を一度揺すった。
木は鳴ったが動かない。
「枠の外だ。見たら戻るぞ」
灯りの一つが先に順路を戻っていく。
僕とセナは柵の前に一呼吸だけ残った。
セナが柵に手を掛けて下を覗く。
段は三つ目から先が灯りの外だ。
下から昇ってくる空気は、この層のどの角よりも重い。
石の粉の乾いた匂いだけが暗さの底から薄く届く。
セナは何も言わない。
格子を握った手に一度だけ力が入り離れる。
腰の高さで板が二枚、灯りの色を鈍く返している。
札の焼き字は深い。指でなぞらなくても読める深さだ。
札の高さは僕の目より少し上にある。
見上げる分は掲示の前より小さい。
先に戻る灯りが順路の奥で小さくなって、周りの壁が暗さに返っていく。
戻り際に一度だけ振り返る。
柵と札が灯りの端で黒く立って、その足元から下りの段が始まっている。




