第78話「図の値段」
初めて深層に潜った翌朝、ギルドの奥で箒の音が響いている。
判を突く音も人の声もまだない。掲示板の前は人が薄い。
僕は買取窓口へまっすぐ回った。
台の奥にダグが座っている。
秤の皿は拭き上げられて、分銅が脇に高さの順で並んでいた。
台の上の石粉はまだ薄い。朝いちばんの窓口は匂いまで乾いている。
袋の仕切りから深層の魔石を出す。三つ。
ダグは一つをつまんで、宙で軽く弾いた。
指の腹で二度転がして、残りの二つも同じにする。
「3層か」
「はい。昨日の分です」
魔石の秤は一度で済んだ。
三つをまとめて皿に載せ、針の止まる場所を目が追う。
値は短く告げられた。仕切りを分けた甲斐のある値だ。
硬貨を数えてノートの収支の行へ写す。
桁を揃えて日付を頭に置いた。
僕は袋の底から図の写しを出した。
昨日の差分を書き足した分をダグに渡す。
「検分をお願いします」
図が台の上に広がる。
3層の順路の線と歩数と日付。
右の奥には丸い印が一つ。
ダグは羽根ペンを置いた。
目だけが図の上を動く。
順路の線を入り口から奥まで、分かれの歩数を一つずつ確かめる。
組んだ指は動かない。台の後ろに次の客が立っても顔を上げない。
空の秤の針は真ん中で止まったまま揺れもしない。
広間の奥で判の音が二度落ちて、間を置いてもう一度落ちた。
箒の音は窓口の裏手へ回って、遠くなってから戻ってくる。
戸口を出入りする足音が増えて、朝の広間が起き出していく。
その間もダグの目は図の上にある。
読む速さは変わらず、飛ばす行もない。
後ろの客が足の重さを移し替えた。
革の鞘が台の縁に触れて小さく鳴る。
それでも急かす声は出てこない。
ここの検分が長いのは並ぶ側の皆が知っている。
読む順は僕が測ったのと同じ。
線の伸びた道筋をそのままなぞる。
視線が右の奥で止まる。丸い印の上がいちばん長い。
「その印は測っていない印です。数字と紛れない形にしました」
「知っとる」
ダグが動いたのは後ろの客がもう一人増える頃。
台帳を手前へ引いて、ページを後ろへ戻していく。
ページの縁は石粉で灰色に汚れている。
その度に粉が薄く舞った。
厚い指が記録をたどり、途中で僕の名が見えた。
旧坑の図。浅層の差分。その次の差分。
買取の記録は冬の終わりから途切れずに下へ続いている。
どれも図の名と日付と値が入っていた。
頭は日付で揃えてある。
手はどれも同じで、字の太さだけが日によって違う。
僕の行の上には別の名が積まれて、その下の余白まで同じ枠が引いてあった。
ダグは今日のページで手を止めて、新しい行を起こした。
日付。図の名。それから値の欄に数字を入れて、書いた値をそのまま口で告げる。
数字の字は太い。羽根ペンの先を押しつけて書いている。
書かれた数字は前の差分より一段上の値だった。
「前より上ですね」
「わしの付ける値に文句があるのか」
「いえ」
値が上がった理由は言われない。
台の上で硬貨が鳴る。銅貨の音に重い音が一つ混ざっていた。
厚い手が硬貨を揃えてこちらへ滑らせる。
渡された分を数え直す。図の代は魔石とは別の行だ。
ダグは図をもう一度だけ見た。
何も言わない。線も引き直さない。
検分の箱へ入れて蓋を戻した。
台帳が閉じられる間際に僕の行が見えた。
一番下の行だけ字が濃い。まだ乾き切っていない字だ。
その下には余白が続いている。
ダグは奥の棚から薄い控えを出した。
控えには、僕の図の名の脇に短い刻みが並んでいる。
刻みは4つ。冬の終わりに聞いた数より増えていた。
脇には売れた日付が小さく振ってある。
「写しの分だ」
紙で包んだ銅貨が台に置かれた。袋ではなく折った紙の包みだ。
包みは薄い。それでも硬貨の角の形が紙越しに分かる。
「4枚も出たんですか」
「掲示が出てからだ。深層へ入る枠の連中は図から先に買っていく」
僕は包みを財布へ仕舞った。
ノートに写しの欄を新しく起こす。買取の行とは別の欄。
図が一枚売れるたびにこの欄は一行ずつ増えていく。
広間の側では朝の受注が始まっていた。
掲示の前に装備の重い連中が増えて、窓口の列が伸びていく。
列の先で職員が図の写しを一枚渡すのが見えた。
受け取った男は畳んで胸元へ仕舞う。
手つきは荒いが仕舞う場所は深い。
後ろの二人組は受け取った写しをその場で開いた。
片方が指で順路をなぞり分かれの数を数え、連れが横から頷く。
「僕が坑に居ない日も図は売れるんですね」
「図は道具だ。道具は使う奴の数だけ要る」
ダグは書類に目線を落としたまま答えた。
後ろの客が袋を台に載せる。
秤が鳴って、窓口の朝は先へ進んだ。
戸口を出る前に一度だけ棚を振り返る。
写しの束は棚の奥で背だけ見えていた。
僕の測った線が、あの中で次の買い手を待っている。
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坑口で装備を確かめる。
触るのは革帯の留め具と短剣の柄で、指で二度なぞり終わる。
縄も灯りも袋の同じ場所。手が順を覚えている。
袋の口を開けて中まで検めることはもうしない。
セナが水袋を配り、ユルが杖の先を検めた。
それで支度は終え、昨日と同じ並びで坑へ入る。
3層へ降りると空気の重さが変わった。
灯りはユルが持つ。影が壁で一つに揃う。
壁を伝う手のひらが湿りで滑り、指先の冷たさが合図になる。
図は袋から出さないまま角を三つ曲がった。
出すのは書き足す時だけだ。
袋の中で図は乾いた紙の音を立てる。
角を折る癖がついて、開かなくても向きがわかる。
分かれごとに歩数を口の中で刻み、前と違う数が出た時だけ声にする。
右へ延びる枝道の前で膝をつき、歩数と線を一本足した。
ペン先は迷わずに折れの角へ落ちる。
書く間も列は止まらないから、僕が小走りで追いついた。
右の奥の丸い印はまだ遠い。今日は手前の枝から順に潰す。
枝の奥で水が滴る音がする。数える歩数にその音は入ってこない。
灯りの届かない先はただ黒い。僕らはそこへは入らない。
低い天井の手前で歩幅を詰めた。
ここは音が先に細る場所だ。
レオが口を開く前に列は同じ形へ変わっていた。
エマが振り向き短く頷く。合図はそれだけで足りる。
魔物が僕らが待つ場所へ出てきた。
ユルの障壁が退路を塞ぎ、エマの矢が数を削る。
ナギの剣が最後の一体を落とし、僕が短剣を振ったのは一度きりだ。
数が揃う前に終わる。
魔石を拾って袋の仕切りへ入れる。手は止まらない。
帰りの登りで歩数を数えた。
数と呼吸が同じ拍で進み、額の汗は歩けば乾く。
袋の底で魔石が触れ合って鳴る。数は数えなくても手が知っている。
外へ出ると風が乾いていた。
日はまだ高いが、蝉の声は数を減らして間が空く。
水場で順に汗を流す。
水は温いがそれでも汗よりは冷たい。
セナが頭から水をかぶって息を吐き、マルセルは肩だけ流して岩に座る。
ユルは杖を岩に立てかけ、袖をまくって腕だけ濡らした。
エマは水より先に弓の弦を指で確かめている。
ナギはいつも一番あとに回り、少し外れた岩の陰で体を流していた。
僕は腕の石粉を落として岩の上で図を乾かした。
坑の湿りが日に飛んでいく。今日も線が一本増えた。
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潜る日と図を納める日が交互に続いた。
写しの欄が日々行を増やしていく。
新しい線は3層の奥へ少しずつ延びた。
潜るたびに順路の線は太くなり、書き直す箇所は減っていく。
枝道が行き止まりで終わる日もあったが、歩いた分だけ線は残る。
同じ角を何度も曲がって、膝をつく場所は決まってきた。
ある日は朝に足した一本が昼の道を短くした。
遠回りの枝を先に消しておいたから、列は迷いの前で止まらずに済む。
レオが図を覗き込み、進む向きだけを短く言った。
僕は角の数を数え直して袋へ図を戻す。
その日は日暮れ前に坑を出られた。余った明るさでセナが川縁の石を蹴って遊んだ。
ダグの検分は長いまま変わらない。台帳は僕の行だけが下へ伸びた。
検分のたびに同じ場所で眉を寄せ、折れ目の角の数と僕の歩数の欄を指で往復させる。
写しの包みを受け取る日がまた来て、紙越しの角の数は前より多い。
包みの銅貨はセナと数えてから仕舞う。数え終えるのはいつもセナが先だ。
坑口で写しを開く組とすれ違う日も増え、開き癖のついた紙は角が丸くなっている。
夕の鐘の後も明るかった空が、近頃は鐘と同じ頃に暗くなる。
帰り道の影は長い。
ジョゼ商会の前を通ると店先の貼り紙が増えていた。
店の脇では荷馬車が荷を降ろし、夕方の風が干し草の匂いを運んでくる。
宿の夕の卓に湯気の立つ皿が並ぶ。
服の埃を払って席についた。
セナが先に口を開く。
「今月の写し、もう先月を超えてるよね」
「ダグさんの控えとも合ってたよ」
僕は匙を置いて、椀のふちを指で押さえた。
「リクが寝てる間も図は働いてるんだよ」
「棚の奥で次の買い手を待ってるだけなのにね」
「待ってるだけでも値はついてるんだから、りっぱな稼ぎ手だね」
向かいでマルセルが杯を傾けたまま聞いている。
セナは匙を取り直して笑った。
窓の外で蝉の声が数を減らしていく。
鳴き止む間が夜ごとに長くなっていた。
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坑からの帰り道。見上げた空が夏より遠い。
僕はまくっていた袖を下ろした。
腕をさすると汗の下がひやりとする。
日の光は薄く、坂の石の色まで落ち着いて見えた。
道の脇の草は色を落としはじめ、風の匂いから土の湿り気が抜けている。
蝉の声がない。いつ止んだのかは思い出せない。
セナとナギの話し声だけが道に残っている。
マルセルが半歩遅れて口を開いた。
「リク、今日で16か」
「はい。今朝ノートの日付で気づきました」
「そうか。早いもんだな」
セナが手のひらを自分の頭に当てた。
「リク、いつの間にか背が伸びたよね。気づいたら抜かされちゃった」
その手を、僕の肩の高さまで持ち上げてみせる。
「ついこの前までは私のほうが上だったのに」
「そうだったかな」
「そうだよ。ちょっとくやしい」
セナが頬をふくらませる。
「ボクは会ったころから、キミのほうが大きかったよ。ずっと見上げてた」
セナが噴き出した。
「ナギ、それ自分が小さいって言ってるだけだよ」
「……背くらべの話だ」
しばらく足音だけが続いた。
マルセルは口を開きかけてまた閉じた。
視線は僕でなく、荷袋のあたりへ落ちた。
そこから小さな油瓶を一つ抜いて僕の手に押しつけた。
「刃に引いとけ。錆びさせんなよ」
拳で僕の肩を一度軽く押した。
エマが後ろで笑った。
「ほう。油瓶まで用意してるとはな、マルセル。ずいぶん優しいじゃないか」
「うっせえな。余りもんだ」
坂の下に宿の灯りが見えてくる。
誰かの腹が鳴って、ナギが小さく笑った。
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宿の部屋で短剣を抜いた。
刃を布で拭き、帰りにもらった油を薄く引く。
刃こぼれは浅く、砥石は使わずに済んだ。
革帯は継ぎの糸がゆるんでいたため、針を通して留め直した。
布を置いた手がそのままノートへ伸びる。
ページを繰ると買取の値と写しの歩合が別の欄で並んでいた。
持ち場の記録と歩数の控えがその間を埋めている。
指の腹に数字の凹みが触れる。
強く書いた日ほど溝が深い。
前の方のページは字が固い。
冬の指はかじかんで、線がまっすぐ引けなかった。
繰ってきた束が、冬よりずっと厚い。
右の枝は端から潰し、奥の丸い印にはまだ届かない。
写しの欄の方が行の増えは早く、値の欄は桁を揃えたまま下へ続いている。
頭の日付は冬の終わりから続いて、三つ目の季節を迎えた。
今日の行へ持ち場と歩数を書き足す。
数字は右へ寄せ、桁を上の行に合わせた。
隣の欄の値はまだ書かない。
買い手がつくまで数字は空のままだ。
朝に入れた日付の上でペン先が一呼吸だけ止まった。
階下の話し声が遠くなり、部屋には油の匂いが残る。
ノートを閉じて短剣の隣に置く。
表紙の下で、今日歩いた七人分の道が乾いていく。




