表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
84/101

第77話「深層の暗さ」

朝の広間は竈の音から始まった。


部屋から降りると豆の粥の湯気が卓を流れている。

マルセルたちが先に座っていて、ナギとレオも同じ卓にいた。

マルセルが声を掛け、合同と同じ顔ぶれで深層へ行く。


出る前に短剣の刃を確かめた。刃先に欠けはない。

物入れの革帯を締めて袋の仕切りを空けておく。


通りは乾いた冷えで、露店の青物の籠に初秋の光が回っている。


ギルドの戸口をくぐると、奥の台で判を突く音が続いていた。

掲示板の前は今日も装備の重い連中が濃い。


マルセルが真ん中の紙の前で足を止めた。


 旧坑・深層区画


間引きと調べの依頼だ。

そのまま窓口へ回るとミラさんが台帳を引き寄せた。


「マルセルさんのパーティで受注ですね。同行の方は全員、依頼書に載せます。お名前を順に」


依頼書の頭数の欄に7が入る。僕の名前がマルセルの下に並んだ。

名前の脇に等級の字が一つずつ写される。

紙の上では僕はこの依頼の頭数の一人になる。


台帳に判が落ちて受注が済んだ。

ミラさんが棚から入域札を七枚出す。

古い実測図の写しが一枚添えられた。


「調べの分は、この図の続きへお願いします」


札の裏の戻りの欄に今日の日付を書く。

日帰りなら出る日と同じ日付になる。


離れ際に便の台へ寄って母さんへの手紙を出した。

十日に一度の便は今日が出る日だ。


封は昨夜のうちに閉じてある。

台の箱へ落とすと、紙の角が縁に触れて小さく鳴った。


東門への通りでセナが隣に並ぶ。


「柵の先、今日だね」

「キミの図の出番かい?」

「そうだね、出番になるように春から測ってきた」


ナギが薄く笑って、先に歩き出す。

僕とセナも東門へ足を向けた。


---


街道の草は先が黄色がかっている。


夏の間鳴っていた沢の音が細い。

坑口の冷気は季節と関わりなく這い出してくる。

鉄錆と湿った土の匂いが喉の奥に張りついた。


灯りは三つ用意した。

浅層は一つで回り、深層では列の前と真ん中と後ろに一つずつ使う。

火を入れて、炎が落ち着くのを待ってから中へ入った。


浅層の道は乾いていた。

夏の間にさらに水が退いて、溜まりの底の砂が固く締まっている。


壁の痕の境目は前に測った印よりまだ下だ。雫の間は息で数えても遠い。

歩数を数えて進む。歩幅は変えない。

図の数の通りに分かれを越えて、2層の奥に着いた。


3層への下り口。木の柵に鉄の札が下がっている。

マルセルが柵の戸を開けると湿った木が重く鳴った。


「行くぞ」


柵の先の段は浅層のより急だった。

踏み面が狭くて、灯りの影が足の置き場を隠す。

影の向きを先に直してから、灯りを下ろして一人ずつ下りた。

下るごとに足の下の岩が乾いていく。水の退いた深さだ。


深層の空気は浅層と違う。

冷えが深い。息を吸うと、空気が舌の奥で重かった。


雫の音がない。代わりに靴の音が遠くまで走り、間を置いて戻ってくる。

試しに踵で床を一つ叩くと、音の帰りが往きより長い。

ノートに反響の行を起こす。


浅層の暗さは灯りの輪の外に水音があった。

ここの暗さは音まで持っていく。


ユルが灯りを少し掲げる。


「音が、遠いですね」

「……濃いね」


セナが杖を握り直した。


魔素の濃さは僕には分からない。分かるのは音と冷えと匂いだ。

水と土の下に石の粉に似た乾いた匂いが混じる。浅層では嗅がない匂いだ。

進みながら三つともページの端に書き足した。


深層は天井が高い。灯りの輪が天井に届かず、暗さが上に立っている。

壁の岩は黒く、灯りを吸って返さない。

灯りを高く掲げても、光は途中で暗さに触れて止まった。

頭の上の高さは、灯りではもう測れない。


並びを組み直す。エマが前でマルセルの脇。

ユルが真ん中で灯りの一つを持つ。

レオは最後尾に立って、耳だけをずっと後ろへ向けている。

セナは僕の前だ。糸の間合いに岩の角が入る位置を選んでいる。


撤退線を引く。浅層の線はここでは使えない。

崩れたらどこへ戻るか。

下り口の段を最初の線にして、順路の角ごとに次の線を決めた。


「戻る道、さっきの所までだよね」


セナが先に退路を口にした。僕は頷いて図の角に印を足す。

少し開けた場所に出るとマルセルが振り返った。


「崩れたり逸れたりしたら全員ここへ集まれ。ここが集合場所だ」


全員が頷く。灯りを三つとも確かめてから先へ出た。


写しの図では、深層の順路は途中までしか入っていない。

その先は歩数で測りながら進む。


順路の岩は角が立っていて、崩れた石の山を二つ回り込んだ。

汗が乾かずに冷えて、背中で布が冷たく張りつく。

息が浅くなる。数を数える口の中の声で息の長さを揃え直した。


ナギは襟の高い上着を一度も緩めない。

汗の中でも着込みの型を崩さない。


エマが手を上げた。列が止まる。


「右の奥。……大きいよ」


灯りの輪の際で影が動いた。

浅層の殻とは別物だ。同じ殻でも背が高い。

二回りほど膨らませた大きさがある。


脚の運びも違う。浅層のは灯りを避けて横へ回るが、これは正面から間合いを詰めてくる。

殻の縁が床を擦る音は低く腹に響いた。

近づくにつれ、鉄を湿らせたような匂いが濃くなる。


「俺が前だ。ユル、灯りを落とすな」


ユルが杖を立てる。淡い障壁が列の前に薄く張られた。

エマの矢が先に飛ぶ。殻の縁で弾かれて、乾いた音が天井へ抜けた。

殻の表は浅層のより硬い。まともに当てても刃は横へ滑る。


「上等だよ。継ぎ目を狙いな」


僕は灯りを岩の棚に置いた。退き際に取りやすい場所を選ぶ。


大きい殻がマルセルに当たる。

マルセルは受けて流して半歩だけ引いた。


石の脚が床を擦って、火花に似た粉が散る。

セナの糸が走った。岩の角で一度折れて、後ろ脚の付け根に横から張りつく。

角が支点になって糸は動かない。脚が一本、床から浮いた。


「重いよ。早めにね」


ナギが輪の中へ入った。

刃が殻の合わせ目を二度撫でた。引いた足はもう輪の外にある。


僕は反対側の合わせ目へ短剣を差した。浅層の殻より深い。

刃が根元まで入って、手首を返すまでに息が一つ要る。


殻が傾いた。マルセルが押し返して倒れる向きを壁の側へ変える。

石床が鳴り石粉の匂いが立った。

音は長く反響して暗さの奥へ転がっていく。

倒れてからも脚は長く掻いた。止まるまで誰も列を崩さない。


殻が完全に伏せたのを見て魔石を剥ぐ。

浅層のは小指の先ほどだが、これは親指の腹まである。

殻の裏の温さはなかなか引かなかった。石を布で拭って仕切りへ落とす。


奥でもう一度、同じ種類が二つ出た。

今度は岩陰からで、レオが先に気づいて手で報せた。


一体はマルセルが正面で止める。もう一体はエマの矢が脚を狂わせた。

セナの糸が続けて二本、別々の脚を縫い止める。

僕とナギで合わせ目を片方ずつ開けた。


受けはマルセル、縛りは糸、仕舞いは刃。

二度目は初めより短く終わる。


息を整える間、誰も声を出さない。

手数も息も一段多い。

それでも持ち場が先に決まっている。


灯りの油が行きより減っている。深いほど、灯りも息も早く目減りする。


図にない順路の先では角ごとに撤退線を足しながら進んだ。

進んだ分だけ歩数を書き足す。図の線が少しずつ先へ伸びていく。


---


広い場所で一度息を整えた。


ユルが水を回して、マルセルが灯りの油を確かめる。

セナは指先に細い糸を短く出しては消して、調子を確かめている。

ナギは壁を背に立って、刃の曇りを布で拭いていた。


僕は写しの図を広げた。

折り目が柔らかい。何度も開かれてきた紙だ。


線は順路に沿って伸びて、分かれごとに歩数と日付が添えてある。

日付は古い。手も一つではない。

何人もの手が何年も掛けて書き足した図だ。

順路の字は薄れて、上から濃くなぞり直された線もある。


その図が突如途切れる。


順路の先の壁に口が三つ開いていた。

図に線が入っているのは二つだけ。


右の一番奥の口には線が一本も引かれていない。

歩数もない。日付もない。測り掛けて途中でやめた線でもない。


図を持って口の前まで行く。

道はある。風も通っている。


奥は暗い。灯りを向けても、輪の光は数歩の先で暗さに呑まれた。

縁の岩は乾いている。水の痕は口の高さまで届いていない。

誰かが立った跡も、灯りの油の染みも、縁のどこにもなかった。


図と壁を見比べて手が止まった。


炭の先が紙の上で待っている。

書き足す線の続きがここにはない。


測れば線は引ける。道具も足もいつもの順路と同じだ。

なのに、この図を手に取った誰もがここに線を引かなかった。


引かなかったのか。引けなかったのか。


答えはわからない。古い日付の主たちは線の外のことを何も書き残していない。

口の奥から風が薄く出てくる。冷えは順路のものと変わらない。

息を一つ吐いて、暗さの奥をもう一度だけ見た。


マルセルが後ろから声を掛けた。


「時間だ。戻るぞ」


図をたたむ前に、区画の口の位置へ印を一つだけ残した。

測った数字と紛れない形を選ぶ。ここから先を測っていない、という丸い印。


---


戻りは撤退線を逆にたどった。

角ごとに決めた線を一つずつ戻して、下り口の段まで足を乱さない。


段を上がる息は行きより浅い。

数を刻む声が口の中で途切れて二度数え直した。


並びを戻して柵をくぐると、マルセルが柵の戸を閉め直した。

セナが一度だけ下を振り返り、何も言わずに前へ向き直った。


浅層の暗さは下りる前より薄く見えた。

灯りの輪の外に雫の音が戻ってくる。

同じ坑の中で音のある暗さへ帰ってきた。


坑口の光が奥から届き始めると、暗さに慣れた目の奥が鈍く疼いた。


外に出ると、既に日暮れ前だった。

枯れ始めた草の色が西日で温い。


息を吸うと、外の空気は軽かった。

七人分の靴の音が街道の側へ揃って向く。

夕風が汗の残りを冷やす。


歩きながら魔石を確かめる。

深層の分は三つ。どれも浅層のより大きい。

袋の仕切りに一つずつ収めると、袋は数の割に手に重かった。


七人で入って、七人で出た。

入域札の裏の日付の通り、出た日と同じ日のうちに戻る。


歩数の記録を締める。深層の順路の分だけ、図の線が先へ伸びた。

伸びた線の先に測っていない印が一つ残っている。

差分は明日、窓口の検分へ回す。通れば台帳に載る。


載った図の上でも、あの区画は空いたままになる。


---


夜の広間には食事の後の温さが残っている。


竈の前でユルが鍋を仕舞い、エマは矢の羽根を検めている。

マルセルは卓の端で依頼の控えに目を通している。

セナは僕の向かいで、指先に糸をひとすじ出しては、すぐに解いている。

ナギとレオが珍しく一緒に夕食を食べると、間もなく自分の宿に帰っていった。


卓の真ん中に図の写しを広げた。灯りは広間のもので足りる。


今日書き足した線を目でたどる。

順路、分かれ、戻りの線。数字はどれも今日の足で測った数だ。

線は増えた。図は今朝より先まで行っている。


それでも、右の奥の一画だけは今朝と同じだ。

線が一本もない。周りの線が増えるほど、そこだけが目に立つ。


エマが席を立ったついでに図を覗いた。


「ふうん。行ってないとこね」

「誰も。……古い図の誰も、です」


エマは肩をすくめて竈の側へ戻っていく。

セナは糸を消して、椀の湯を両手で包んでいる。

竈の火が一度爆ぜて、広間の影が短く揺れた。


何年も掛けて、何人もの手が埋めてきた図だ。

その中でそこだけが測られず、奥に暗さを残している。

壁に口は開いていて風も通っていた。

足りないものは何もないのに線だけがない。


その一画はそのままの形で空いている。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ