第77話「深層の暗さ」
朝の広間は竈の音から始まった。
部屋から降りると豆の粥の湯気が卓を流れている。
マルセルたちが先に座っていて、ナギとレオも同じ卓にいた。
マルセルが声を掛け、合同と同じ顔ぶれで深層へ行く。
出る前に短剣の刃を確かめた。刃先に欠けはない。
物入れの革帯を締めて袋の仕切りを空けておく。
通りは乾いた冷えで、露店の青物の籠に初秋の光が回っている。
ギルドの戸口をくぐると、奥の台で判を突く音が続いていた。
掲示板の前は今日も装備の重い連中が濃い。
マルセルが真ん中の紙の前で足を止めた。
旧坑・深層区画
間引きと調べの依頼だ。
そのまま窓口へ回るとミラさんが台帳を引き寄せた。
「マルセルさんのパーティで受注ですね。同行の方は全員、依頼書に載せます。お名前を順に」
依頼書の頭数の欄に7が入る。僕の名前がマルセルの下に並んだ。
名前の脇に等級の字が一つずつ写される。
紙の上では僕はこの依頼の頭数の一人になる。
台帳に判が落ちて受注が済んだ。
ミラさんが棚から入域札を七枚出す。
古い実測図の写しが一枚添えられた。
「調べの分は、この図の続きへお願いします」
札の裏の戻りの欄に今日の日付を書く。
日帰りなら出る日と同じ日付になる。
離れ際に便の台へ寄って母さんへの手紙を出した。
十日に一度の便は今日が出る日だ。
封は昨夜のうちに閉じてある。
台の箱へ落とすと、紙の角が縁に触れて小さく鳴った。
東門への通りでセナが隣に並ぶ。
「柵の先、今日だね」
「キミの図の出番かい?」
「そうだね、出番になるように春から測ってきた」
ナギが薄く笑って、先に歩き出す。
僕とセナも東門へ足を向けた。
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街道の草は先が黄色がかっている。
夏の間鳴っていた沢の音が細い。
坑口の冷気は季節と関わりなく這い出してくる。
鉄錆と湿った土の匂いが喉の奥に張りついた。
灯りは三つ用意した。
浅層は一つで回り、深層では列の前と真ん中と後ろに一つずつ使う。
火を入れて、炎が落ち着くのを待ってから中へ入った。
浅層の道は乾いていた。
夏の間にさらに水が退いて、溜まりの底の砂が固く締まっている。
壁の痕の境目は前に測った印よりまだ下だ。雫の間は息で数えても遠い。
歩数を数えて進む。歩幅は変えない。
図の数の通りに分かれを越えて、2層の奥に着いた。
3層への下り口。木の柵に鉄の札が下がっている。
マルセルが柵の戸を開けると湿った木が重く鳴った。
「行くぞ」
柵の先の段は浅層のより急だった。
踏み面が狭くて、灯りの影が足の置き場を隠す。
影の向きを先に直してから、灯りを下ろして一人ずつ下りた。
下るごとに足の下の岩が乾いていく。水の退いた深さだ。
深層の空気は浅層と違う。
冷えが深い。息を吸うと、空気が舌の奥で重かった。
雫の音がない。代わりに靴の音が遠くまで走り、間を置いて戻ってくる。
試しに踵で床を一つ叩くと、音の帰りが往きより長い。
ノートに反響の行を起こす。
浅層の暗さは灯りの輪の外に水音があった。
ここの暗さは音まで持っていく。
ユルが灯りを少し掲げる。
「音が、遠いですね」
「……濃いね」
セナが杖を握り直した。
魔素の濃さは僕には分からない。分かるのは音と冷えと匂いだ。
水と土の下に石の粉に似た乾いた匂いが混じる。浅層では嗅がない匂いだ。
進みながら三つともページの端に書き足した。
深層は天井が高い。灯りの輪が天井に届かず、暗さが上に立っている。
壁の岩は黒く、灯りを吸って返さない。
灯りを高く掲げても、光は途中で暗さに触れて止まった。
頭の上の高さは、灯りではもう測れない。
並びを組み直す。エマが前でマルセルの脇。
ユルが真ん中で灯りの一つを持つ。
レオは最後尾に立って、耳だけをずっと後ろへ向けている。
セナは僕の前だ。糸の間合いに岩の角が入る位置を選んでいる。
撤退線を引く。浅層の線はここでは使えない。
崩れたらどこへ戻るか。
下り口の段を最初の線にして、順路の角ごとに次の線を決めた。
「戻る道、さっきの所までだよね」
セナが先に退路を口にした。僕は頷いて図の角に印を足す。
少し開けた場所に出るとマルセルが振り返った。
「崩れたり逸れたりしたら全員ここへ集まれ。ここが集合場所だ」
全員が頷く。灯りを三つとも確かめてから先へ出た。
写しの図では、深層の順路は途中までしか入っていない。
その先は歩数で測りながら進む。
順路の岩は角が立っていて、崩れた石の山を二つ回り込んだ。
汗が乾かずに冷えて、背中で布が冷たく張りつく。
息が浅くなる。数を数える口の中の声で息の長さを揃え直した。
ナギは襟の高い上着を一度も緩めない。
汗の中でも着込みの型を崩さない。
エマが手を上げた。列が止まる。
「右の奥。……大きいよ」
灯りの輪の際で影が動いた。
浅層の殻とは別物だ。同じ殻でも背が高い。
二回りほど膨らませた大きさがある。
脚の運びも違う。浅層のは灯りを避けて横へ回るが、これは正面から間合いを詰めてくる。
殻の縁が床を擦る音は低く腹に響いた。
近づくにつれ、鉄を湿らせたような匂いが濃くなる。
「俺が前だ。ユル、灯りを落とすな」
ユルが杖を立てる。淡い障壁が列の前に薄く張られた。
エマの矢が先に飛ぶ。殻の縁で弾かれて、乾いた音が天井へ抜けた。
殻の表は浅層のより硬い。まともに当てても刃は横へ滑る。
「上等だよ。継ぎ目を狙いな」
僕は灯りを岩の棚に置いた。退き際に取りやすい場所を選ぶ。
大きい殻がマルセルに当たる。
マルセルは受けて流して半歩だけ引いた。
石の脚が床を擦って、火花に似た粉が散る。
セナの糸が走った。岩の角で一度折れて、後ろ脚の付け根に横から張りつく。
角が支点になって糸は動かない。脚が一本、床から浮いた。
「重いよ。早めにね」
ナギが輪の中へ入った。
刃が殻の合わせ目を二度撫でた。引いた足はもう輪の外にある。
僕は反対側の合わせ目へ短剣を差した。浅層の殻より深い。
刃が根元まで入って、手首を返すまでに息が一つ要る。
殻が傾いた。マルセルが押し返して倒れる向きを壁の側へ変える。
石床が鳴り石粉の匂いが立った。
音は長く反響して暗さの奥へ転がっていく。
倒れてからも脚は長く掻いた。止まるまで誰も列を崩さない。
殻が完全に伏せたのを見て魔石を剥ぐ。
浅層のは小指の先ほどだが、これは親指の腹まである。
殻の裏の温さはなかなか引かなかった。石を布で拭って仕切りへ落とす。
奥でもう一度、同じ種類が二つ出た。
今度は岩陰からで、レオが先に気づいて手で報せた。
一体はマルセルが正面で止める。もう一体はエマの矢が脚を狂わせた。
セナの糸が続けて二本、別々の脚を縫い止める。
僕とナギで合わせ目を片方ずつ開けた。
受けはマルセル、縛りは糸、仕舞いは刃。
二度目は初めより短く終わる。
息を整える間、誰も声を出さない。
手数も息も一段多い。
それでも持ち場が先に決まっている。
灯りの油が行きより減っている。深いほど、灯りも息も早く目減りする。
図にない順路の先では角ごとに撤退線を足しながら進んだ。
進んだ分だけ歩数を書き足す。図の線が少しずつ先へ伸びていく。
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広い場所で一度息を整えた。
ユルが水を回して、マルセルが灯りの油を確かめる。
セナは指先に細い糸を短く出しては消して、調子を確かめている。
ナギは壁を背に立って、刃の曇りを布で拭いていた。
僕は写しの図を広げた。
折り目が柔らかい。何度も開かれてきた紙だ。
線は順路に沿って伸びて、分かれごとに歩数と日付が添えてある。
日付は古い。手も一つではない。
何人もの手が何年も掛けて書き足した図だ。
順路の字は薄れて、上から濃くなぞり直された線もある。
その図が突如途切れる。
順路の先の壁に口が三つ開いていた。
図に線が入っているのは二つだけ。
右の一番奥の口には線が一本も引かれていない。
歩数もない。日付もない。測り掛けて途中でやめた線でもない。
図を持って口の前まで行く。
道はある。風も通っている。
奥は暗い。灯りを向けても、輪の光は数歩の先で暗さに呑まれた。
縁の岩は乾いている。水の痕は口の高さまで届いていない。
誰かが立った跡も、灯りの油の染みも、縁のどこにもなかった。
図と壁を見比べて手が止まった。
炭の先が紙の上で待っている。
書き足す線の続きがここにはない。
測れば線は引ける。道具も足もいつもの順路と同じだ。
なのに、この図を手に取った誰もがここに線を引かなかった。
引かなかったのか。引けなかったのか。
答えはわからない。古い日付の主たちは線の外のことを何も書き残していない。
口の奥から風が薄く出てくる。冷えは順路のものと変わらない。
息を一つ吐いて、暗さの奥をもう一度だけ見た。
マルセルが後ろから声を掛けた。
「時間だ。戻るぞ」
図をたたむ前に、区画の口の位置へ印を一つだけ残した。
測った数字と紛れない形を選ぶ。ここから先を測っていない、という丸い印。
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戻りは撤退線を逆にたどった。
角ごとに決めた線を一つずつ戻して、下り口の段まで足を乱さない。
段を上がる息は行きより浅い。
数を刻む声が口の中で途切れて二度数え直した。
並びを戻して柵をくぐると、マルセルが柵の戸を閉め直した。
セナが一度だけ下を振り返り、何も言わずに前へ向き直った。
浅層の暗さは下りる前より薄く見えた。
灯りの輪の外に雫の音が戻ってくる。
同じ坑の中で音のある暗さへ帰ってきた。
坑口の光が奥から届き始めると、暗さに慣れた目の奥が鈍く疼いた。
外に出ると、既に日暮れ前だった。
枯れ始めた草の色が西日で温い。
息を吸うと、外の空気は軽かった。
七人分の靴の音が街道の側へ揃って向く。
夕風が汗の残りを冷やす。
歩きながら魔石を確かめる。
深層の分は三つ。どれも浅層のより大きい。
袋の仕切りに一つずつ収めると、袋は数の割に手に重かった。
七人で入って、七人で出た。
入域札の裏の日付の通り、出た日と同じ日のうちに戻る。
歩数の記録を締める。深層の順路の分だけ、図の線が先へ伸びた。
伸びた線の先に測っていない印が一つ残っている。
差分は明日、窓口の検分へ回す。通れば台帳に載る。
載った図の上でも、あの区画は空いたままになる。
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夜の広間には食事の後の温さが残っている。
竈の前でユルが鍋を仕舞い、エマは矢の羽根を検めている。
マルセルは卓の端で依頼の控えに目を通している。
セナは僕の向かいで、指先に糸をひとすじ出しては、すぐに解いている。
ナギとレオが珍しく一緒に夕食を食べると、間もなく自分の宿に帰っていった。
卓の真ん中に図の写しを広げた。灯りは広間のもので足りる。
今日書き足した線を目でたどる。
順路、分かれ、戻りの線。数字はどれも今日の足で測った数だ。
線は増えた。図は今朝より先まで行っている。
それでも、右の奥の一画だけは今朝と同じだ。
線が一本もない。周りの線が増えるほど、そこだけが目に立つ。
エマが席を立ったついでに図を覗いた。
「ふうん。行ってないとこね」
「誰も。……古い図の誰も、です」
エマは肩をすくめて竈の側へ戻っていく。
セナは糸を消して、椀の湯を両手で包んでいる。
竈の火が一度爆ぜて、広間の影が短く揺れた。
何年も掛けて、何人もの手が埋めてきた図だ。
その中でそこだけが測られず、奥に暗さを残している。
壁に口は開いていて風も通っていた。
足りないものは何もないのに線だけがない。
その一画はそのままの形で空いている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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