第76話「水の引く先」
昼の商人通りは荷馬車が忙しなく行き来している。
店先には日除けの布が張り出し、影を石畳に落としていた。
果物を積んだ台の前で呼び売りの声が通りの端まで通る。
塩や革、乾いた麦藁の香りにも慣れてきた。
最近は十日に一度、半日だけジョゼ商会の本店を手伝っている。
マルセルの父親が倒れてから、店は立て直しの途中にある。
支払いの帳場は形になってきた。荷回りは、まだ追いついていない。
マルセルは家との縁を切ったあの日から商会には来ていない。
ルカさんの店に入ると帳場の脇で客が二人待たされていた。
一人は母さんと同じ年頃の女の人で、引き換えの札を事務員へ差し出している。
事務員は奥の荷の山を右へ左へ回り、札の品を探しあぐねていた。
「鍋を頼んで十日だよ。札を持ってくりゃ渡すって話だったろう」
女の人が札を振る。
事務員はまた山の奥へ戻っていった。
「先代さんなら、この札ですぐ出してくれたんだけどねえ」
もう一人の男の客はしびれを切らし、帳場の縁を指で叩いている。
僕は小間使いの少年を呼び、荷の山の前へ回った。
「この山、どれが先に来た荷か分かる?」
「……先代さんは、見れば分かったみたいです」
「なるほど。でも、僕らには分からない。だからまずそこから確認しよう」
届いた日を一つずつ確かめ、少年に日付を書かせた。
書いた札を荷へ載せ、古い順に手前から並べ直していく。
山の中ほどから布に包んだ鍋が出てきた。
少年がそれを抱えて帳場へ運ぶ。
「これだよ。ああ、これこれ」
女の人が鍋を受け取って胸に抱えた。
同じように荷の山からもう一人の男の客への箱を見つけて渡す。
男は箱を受け取ると、急ぐように出口へ駆け出した。
男を見送る際、柱に支払い日を書いた紙が貼られているのを見つけた。
角が手擦れで丸い。貼られてから幾日も経ち、墨の色が褪せ始めている。
紙の字はルカさんのものだ。僕の書いた見本とは違う手で同じ形に整っている。
支払いの紙の隣に備え付けの紙を一枚もらった。
荷の名と着く日を縦に並べて書く。着く順に上から詰めた。
柱の空いた面へ貼った。どこかで毎日見ていた紙だ。
「次からは君が書くんだ。荷が着いたら、名前とその日をここへ足す」
「……写せば、いいんですか」
「そう。同じ形でいい」
帰り際、女の人が柱の紙を見上げた。
「次の鍋は……この日かい。じゃあその日に来るよ」
ルカさんが少年の手元を見ていた。
「張り紙に荷とそれが届く日を掲示しておくのですね」
「はい。それに加えて、届いた荷にも日付を書いた札をつけておきます。
保管時に日付順に並べておけば、客が来た時にすぐ動けます」
「なるほど。これなら店の者なら誰でも出せますね」
残りの時間は荷の山を整理し、日付順に並べ直した。
商会の手伝いを終えるとその足でギルドに向かった。
中で待っていたセナと合流して、旧坑の紙を窓口のミラさんに提出した。
ミラさんはいつもの調子で羽根ペンを走らせる。
入域札を受け取ったセナが、備え付けの炭で裏の欄に明日の日付を書き入れる。
僕も自分の札の裏に同じ日付を入れた。
「明日から一日潜るんだよね?」
「うん、流石にこの時間からだからね。その代わりに明日は朝から潜る」
セナに答え、僕たちはギルドを後にした。
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坑口の冷気は初夏でも変わらない。
石組みの奥から湿った風が這い出す。
鉄錆と湿った土の匂いが喉の奥に薄く張りついた。
灯りを入れて中へ入ると、前より雫の落ちる間が延びている。
壁の痕の線は前より低く、乾いた石が灯りに白く浮いている。
枕木の黒い滲みも乾いていて、踏んでも水は上がってこない。
この前まで水のあった枝道は奥まで砂の色が乾いていた。
歩数を数えて進む。歩幅は変えない。
継ぎ目を目印に数を刻んだ。
灯りを前へ突き出し、足の置き場を確かめてから踏み出す。
分かれを二つ越え、数を口の中で刻みながら壁沿いに進んだ。
殻が二つ這ってきた。灯りを避けて影の側を選んでいる。
手前の一匹は僕が壁際で落とした。
向きを変えたもう一匹を、セナの糸が脚の付け根で縫い止める。
縛られた方も仕留めた。殻が石床に倒れて脚が宙を掻く。
脚の動きが止まるまで、短剣の切っ先を合わせ目へ差したままにした。
殻から魔石を剥ぎ取る。小指の先ほどの石が二つ。
剥いだばかりの殻の裏はまだ温い。
石を布で拭い、そのまま仕切りへ落とした。
石粉の匂いが指に残る。
枝道の奥でまた三つ固まっている。
石の隙間で殻を寄せ合っていた。
灯りを向けても動かない。
縁の擦れる音だけが小さく続く。
殻は閉じたまま動かず、灯りの端で鈍く光った。
セナの糸が二つを一点へ寄せ、残りと縛った分を順に落とす。
剥いだ石は三つ増えた。袋は朝より少しずつ重くなる。
口の紐を二度巻いて締め直した。
さらに奥の枝道は狭い。
天井が下がって灯りの輪が壁で潰れる。
灯りを低く持つと、輪の光は天井の岩で切れて足元だけが明るい。
水音はここまで届かず、闇が輪の両側に立っている。
背をかがめないと、頭が岩に触れそうだ。
殻が三つ、狭い岩の間から横に並んで間合いを詰めてきた。
灯りを避ける習いは同じだが、逃げ場は岩に挟まれて狭い。
セナの糸は張るための支えが要る。
広い場所なら地面に輪を伏せて張るが、ここは足元が岩で狭い。
一匹目にセナが糸を弾いても、引っ掛ける先がない。
支えのない糸は殻が壁を蹴るだけで縫い止めた体ごと滑った。
セナが目元を歪め、今度は岩の角へ先に糸を絡めた。
角で糸を一度折り返してから、二匹目の脚へ回す。
糸は指に巻きつけて引くのと同じで力が逃げない。
角が支点になって、殻はその場で止まった。
二匹目を同じ角へ寄せると二つが糸に引かれて一点で重なる。
セナが指を返して糸を締めた。細い糸が二匹分の重さを持つ。
短剣を握ったまま、糸の折れる角と締まる向きを目で追った。
セナの指先が糸を細かく手繰り、張りの強さを確かめている。
重なった殻を順に落とす。合わせ目へ刃を入れて手首を返した。
戻って一匹目も仕留める。三つの殻が石床に倒れた。
奥でまた二つ、低い岩棚の下へ潜り込もうとしている。
セナは殻の来る向きを見て、岩棚の底に糸を低く渡した。
棚の下は岩が両側にあり、そこを支えにして糸を張れる。
下を塞がれた二つが棚の縁で止まり、僕が順に落とした。
「やっぱり坑道だと輪よりも糸の方が使いやすい?」
「地面がないと輪は張れないから。糸はどこに引っ掛けるかだけど、岩の角がけっこう使えるんだよね。壁でも棚でも」
狭い道では糸を掛ける岩が近い。セナはその近さを使っていた。
セナが緊張を解くと、指先から伸びていた糸が音もなく消えた。
戻りの道でも二つ。軌条の陰から横に間合いを詰めてくる。
灯りの輪の外では雫が一定の間を置いて落ちていた。
僕が一つ、セナが糸で一つ。剥いだ石を仕切りへ足す。
袋の石は合わせて十を超えた。朝より手に重い。
石を数え直す。数はもう朝の倍だ。
仕切りの列がひとつ埋まった。
歩数の記録を締め、図の端へ今日の数を書き足す。
歩数の列は前の日の下へ続いていた。
戻りの道で、溜まりの縁に炭で印を一つ置いた。
水面の高さに合わせて、石の乾いた境目へ短い線を引く。
前の印より、水際は指の幅ぶん下にある。
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坑道からの戻り、ギルドの買取窓口へ寄った。
窓口にはダグが座っている。山から戻ってきたらしい。
留守の間に取り替えられた真鍮の金具は、周りの色に馴染み始めている。
台の隅の刷毛も元の場所にあり、使い込んだ木の柄が灯りに鈍く光っている。
袋を台に載せると、ダグは石を指の腹で一つずつ弾いて選り分ける。
大きさごとに石が山へ寄っていき、卓に溜まった石粉をダグは一度で払い切った。
秤が二度鳴った。分銅を一つ足すと、ダグは針の止まる位置を目で追う。
分銅は皿の脇に並び、真鍮の面が灯りを鈍く返している。
皿の縁には細かい傷が並び、使い込んだ年月が見えた。
針が真ん中で止まり、ダグは値を短く告げて台帳に数字を写す。
その値は留守の時の男が付けたときと同じ桁だ。
僕は袋の脇に実測図の写しを置いた。
「水が引いてます。浅層の枝道が乾いて、図の外へ線が伸びていました」
ダグは羽根ペンを置き、台の縁に残る水の染みを指の背で叩いた。
「引きは壁が教える。痕の乾き方を見ろ。上が白く粉を吹いたら下がっとる途中だ」
坑の壁を思い出す。痕の上の縁がたしかに白く粉を吹いていた。
乾いた縁と濡れた縁の間にうっすら白い帯が残っていた。
「乾いた痕と濡れた痕の境目、ですか」
「境目が今の水位だ。それと匂いだ。錆が勝てば引き、土が勝てば満ちる」
ダグは天井へ指を向け二度打ち鳴らした。
音が台の奥で乾いて響く。
「雫の間が延びれば上の水が痩せとる。息で数えて覚えろ」
僕は天井を見上げた。
雫の落ちる間を胸の中で数えて覚える。
「わしの故郷、カルデグの坑では水を抜いてから掘った。抜くのにも順があった」
それだけ言って、ダグは秤の皿を刷毛で払った。
ダグは僕の石を布に包んで奥へ寄せる。
目も上げずに次の札を引いた。
「図は検分に回す。通れば載る」
「お願いします」
銅貨の袋を受け取り懐へ入れた。
宿の部屋に戻り、ノートを開いて白いページを繰る。
炭筆の先を小刀で整え、粉を指の腹で払った。
ページの真ん中に、上から下へ炭で線を一本通す。
薄いところを指でなぞって濃さを揃えた。
左に実測図の写しを描き、右の側は空けたままにした。
右の空いた側を、水位を書く表にする。
書くのは二つ。測った日と水の引き具合。
一番上に一行目の枠を取り、この前の計測を書き写した。
壁の痕は肩の高さ、水面は脛より下だった。
痕と水面の差が、その日に残っていた水の高さになる。
差の分だけ、炭で短い縦の線を一本引く。
線の脇に測った日の日付を添えた。
ものさしの目盛りと同じで、線が長いほど水は高い。
左には歩数、右には水の高さが並ぶ。
水位の側はまだ線が一本、下を向いて立っているだけだ。
欄の脇に、ダグに教わった三つを小さく控える。
壁の粉吹き、匂いの錆と土、雫の間。
炭で箇条書きにし、水位の欄の脇へ小さく寄せた。
下の行はどれもまだ空いている。
これから五日ごとに一本ずつ下へ増えていく。
炭を置いて、紙の端の皺を指で伸ばした。
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水際の計測は五日おきに続けている。
溜まりの縁にかがむと坑の冷えが手首から上ってきた。
前の印と今日の水面を比べる。水面は指の幅ぶん低い。
二つの印の間だけ石が乾いて白く線はまた下がっていた。
ダグの読みを順に当てていく。まず壁の痕を見た。
痕の上の縁は白く粉を吹き、乾いた境目が下へずれている。
次に匂いを嗅ぐ。錆が土に勝って引きはまだ止まらない。
天井の雫は落ちる間が前より延びていた。
三つの読みがどれも同じ向きを指している。
ダグの言った通りだ。
ノートの水位の欄へ戻ると線がもう一本増えた。
炭の印は回を追うごとに下へ移っている。
印の頭を上からつなぐとまっすぐな下り坂になった。
下り方はどの回もほぼ同じだ。
この調子なら夏のさなかに水が引く。
3層の下り口の高さに線の先が届く見当がついた。
どこまで下がれば下れるのかは口には出さない。
そこへ届くのはまだ先だ。
下り口の高さのあたりへ炭で太い印を一つだけ置いた。
印の上に日付は入れない。まだ来ていない日だ。
セナが横で線の列を覗いた。
「下がってるね」
「うん。まだ下がる」
「次は下、って顔してるじゃん」
僕は炭を置いて、欄の続きを空けておいた。
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初夏の夜気は乾いている。
窓を細く開けると生ぬるい風が入り、外で虫が一つ鳴いていた。
泊まり客はもう寝入り、卓の灯心だけが小さく灯っている。
宿の卓に灯心を立ててノートを開いた。
左に実測図、右に水位の欄が並んでいる。
実測図の線は横へ伸び、水位の線は縦に並んで下ほど新しい。
歩数の列も水位の線も、行が下へ伸びていく。
手つかずの行は前のページより減っていた。
炭で今日の日付を欄の頭へ置き、下に線を一本足す。
指で線を上からなぞると、一本ごとに下がっていくのが手に伝わった。
明日また五日目が来る。線はもう一本、下に増える。
その一本がどこで止まるか、まだ分からない。
灯りを消した。水音はもうしない。




