表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
82/93

第75話「戻りの日付」

朝、目が覚めると窓の外で水音が続いていた。


まだ少し重い瞼を開き体を起こす。屋根の雪はとうに落ちている。

残っているのは軒を伝う雫と、側溝を走る流れの音だ。

雫は木窓の桟を打ち、間を置いてまた落ちる。


寝具を寝台の上でたたみ、着替えて短剣の刃を確かめる。

指の腹を峰から刃先へ滑らせ、光にかざす。

研ぎ直しはいらない。欠けはない。


鞘に納めると乾いた木の音が一つ鳴った。

物入れの革帯を締め直す。


階下に降りると竈の湯気が卓まで流れていた。

薪の爆ぜる音に混じって豆の煮える匂いが広間に満ちている。

卓にはマルセルたちが先に座っていた。


「早いね。あんたら」


エマが椀をこちらへ寄せた。

湯気の立つ縁を指で押さえて、滑らせるように卓を渡してくる。

ユルが鍋から豆の粥をよそって回す。


「通りは峠の話ばかりですね。荷が増えると依頼も増えます」

「増えた分は選べる。急ぐこたねえ」


マルセルは椀から顔を上げずに言った。

外の通りを荷車が一台、車輪を鳴らして戸口の前を過ぎていく。


僕は粥をすくって口へ運んだ。豆の甘みの奥に薄い塩の味がする。

椀の底に残った豆の皮を匙の先で縁へ寄せる。


朝食を終え外に出ると、側溝の流れが太くなっていた。

昨日より濁って、砂を巻いた水が石の縁を舐めて走っている。


テルナでの春もこの音から始まった。

街が変わっても春の始まりを告げる音はそう変わらないらしい。


東から来た荷馬の列が通りを塞いで蹄が泥を撥ねている。


道の端の露店は数を増やして青物の隣に川魚の籠が並んでいる。

籠の中で魚が跳ねて鱗に朝の光が散る。

僕は売り子の声の間を抜けてギルドへ歩いた。


朝のギルドは掲示板の前だけ人が残っている。

戸口をくぐると判を突く乾いた音が奥の台から続いていた。

真ん中の紙は動いていない。


「旧坑・深層区画 Dランク以上」


紙の端が波打って、留め釘の頭が鈍く曇り始めていた。

魔石の買取は浅層の倍を超える。その行の前で人垣が濃い。


装備の重い連中が入域札の検分に並んでいた。

革の擦れる音と金具の触れ合う音が背中の側で続く。


セナが背伸びして条件の行を目で追う。


「リク、まだEじゃん」

「うん、だから今年はDを目指す。深層はそれからだね」


セナは掲示をもう一度見上げてから、僕の袖を引いた。

人垣の切れ目を選んで窓口の側へ回り込む。

床板が足の下で軋んだ。窓口の前は人いきれで少し温い。


窓口は空いていた。ミラさんが台帳を引き寄せる。

指を止めた行に羽根ペンを添えて、こちらを見た。


「入域札を。浅層です」


台帳の端に目を落としたまま、ミラさんが札の欄を繰る。


「それと、Dへの昇格について伺いたいんですが」


羽根ペンの先が一つ上の行で止まった。


「昇格は台帳の実績で審査します。そうですね……この街では、主に依頼の完了と買取の記録を見ています」


ミラさんの口調はいつものように規定を読み上げるようなものだった。

僕はミラさんの手元を目で追う。


「実測図の差分も記録に残りますか」

「はい。検分を通った分は台帳に載ります」


ミラさんは棚から木の札を二枚出した。

札は掌ほどの大きさで、角が使い込まれて丸い。

表に焼き印と等級。裏に戻りの日付の欄がある。


欄の下に小さい注意書きが一行入っている。

期限を過ぎた札には捜索隊が出る。費用は報酬から天引き。


備え付けの炭を借りて、僕は戻りの欄に今日の日付を書いた。

炭の線は掠れる。力を込めると線が太った。

日帰りなら出る日と同じ日付になる。


セナが自分の札の裏を眺める。


「過ぎたら探しには来てくれるんだ」

「でも、費用はこっち持ち。だから先に日付の欄がある」


札を胸の物入れに納めて東の門へ向かった。

背後で次の判が一つ、台帳に落ちる音がした。


---


街道の雪は消えて、路肩に汚れた塊だけが残っている。


轍のぬかるみが朝の冷えで固まり、歩くたび薄く割れた。

靴の底が氷を踏んで、乾いた音が一歩ごとに続く。


畑道を過ぎる頃には人影は絶えて風が枯れ草を鳴らす。

遠くで雪解けの沢が鳴っている。

坑口へ近づくほど音は地の下へ潜った。


坑口が見えるあたりで空気が変わる。

石組みの奥から冷気が這い出して、水の匂いが濃くなった。


鉄錆と湿った土の匂いが喉の奥に薄く張りつく。

縁には氷柱の折れた跡が並び、根元だけが白く残っていた。


入ってすぐの溜まりが痩せている。

壁に残る水の痕は肩の高さ。今の水面は脛より下だ。

天井から落ちた雫が溜まりの真ん中で輪を広げていた。


ノートに水際の行を新しく起こす。

痕と水面の高さを測り、差を書き留めた。


旧坑の水は季節と年で満ち引きする。今年は引きだと聞いた。


セナが溜まりの縁にしゃがむ。

杖の石突きを水に差し入れて、底までの深さを確かめている。

波紋が壁際まで届いた。水の痕の線を下から一度だけ濡らす。


「ほんとに減ってるね」

「引きの年みたいだからね。浅層が歩ける。行くなら雪解けの今の季節だよ」

「水はそのうち増えてくの?」

「秋には戻り始めるらしい。霧待ちとは逆で、水は待たない方が早い」


灯りに火を入れる。火口に火花を落として、芯が燃え移るのを待つ。

炎が落ち着くのを待ってから中へ入った。

輪になった光が錆びた軌条を先へ先へと舐めていった。


1層は水音が近い。

灯りの輪の外で雫が一定の間隔で落ちる。


枕木は腐って柔らかく、踏むたび黒い水が滲み出した。

軌条が所々で錆に食われて途切れている。

その先は砂利がむき出しになっていた。


歩数を数えて進む。歩幅は変えない。

一歩ごとに数を口の中で刻み、軌条の継ぎ目を目印に取る。


灯りを前へ突き出す。足の置き場を先に確かめてから踏み出した。

前に測った時と同じ歩数で最初の分かれに着いた。


壁を影が二つ這っている。

殻の縁が石床を擦って、低い音が横から寄ってきた。

二つの殻は灯りを避けて壁の影を選ぶ。

横向きに間合いを詰めてきた。


「リク、右」


セナが指先を弾く。糸が走って右の影を壁ごと一点に縛った。

糸は殻の脚の間に食い込んで、体が横向きのまま止まる。


僕は灯りを岩の棚に置き、左の影を短剣で落とす。

殻の合わせ目に刃を差し入れて、手首を返して抉る。

殻が石床に倒れた。脚がしばらく宙を掻く。


魔石を剥ぐ。小指の先ほどの石が二つ取れた。

殻の裏はまだ温く石粉の匂いが指に残った。

石を布で拭い袋の内へ落とした。


2層へ下りる段の手前で水際が切れていた。

前は膝まで浸かった枝道が、乾いた砂を見せている。


砂を踏むと足形の縁だけ色が濃くなる。

壁の水の痕は腰の高さで帯になって残っていた。

ここが水の下だった間、この先は誰も測っていない。


「ここ、通れるんだ」

「前回来た時にはなかった道だ。測っておこう」


突き当たりまでの歩数を測りながら図の外へ線を一本伸ばす。

壁伝いに数を数え直しながら差分をそこに書き足した。

炭の先で線を引いて、歩数の数字をその脇に添えた。


枝道の奥に丸まった影が四つあった。動きは鈍い。

殻を閉じたまま石の隙間で身を寄せ合っている。


灯りを向けても殻は動かない。縁の擦れる音だけが小さく続いた。

セナの糸が寄り合った二つを一点で縫い留める。

糸が締まって、二つの殻が一つに引き寄せられた。

残りを僕が順に落として、縛られた分も仕留めた。


魔石は合わせて六つになった。

袋の口を開けて石を仕切りへ落とし込む。

袋は朝より手に重い。口の紐を二度巻いて締める。


3層の下り口は2層の奥にある。

木の柵に鉄の札が下がっている。


札の字は掲示と同じだ。Dランク以上。

セナが柵に手を掛けて下を覗く。


「……まっくら」

「だね。今日はここまで」


下から昇ってくる空気は浅層より重く水の匂いが濃かった。

格子に手をかけると木が湿って指に冷たく吸いつく。


胸の物入れから札を出して裏を返す。


戻りの欄には朝に書いた今日の日付がある。

この先へ入る日は、ここに別の日付を書くことになる。

何日で戻るかを先に決める。決められるだけの腕がいる。


札をしまい灯りを持ち直した。

柵の前で歩数の記録を締めて、来た道を戻った。


---


日が傾く前には街へ着いた。


街道沿いの沢は朝より音が太い。

昼の日で解けた分が、いまごろ下りてきている。


西日が通りの水たまりを赤く染めて、露店は店じまいを始めていた。

荷を畳み木箱を積む音が通りのあちこちで重なる。

戸口をくぐると、床に散った石粉が靴の下でざらついた。


窓口の奥で台帳を綴じる紐の音がする。

灯りが台の上で小さく揺れた。


買取窓口の台には初めて見る男が座っている。

台の上の秤はダグが使っていたのと同じものだ。


金具の一つが取り替えられていた。新しい真鍮が光る。

分銅が皿の脇に並んで、真鍮の面が灯りを鈍く返している。

台の隅に石粉を払う刷毛が置かれている。


僕は袋と紙を台に載せた。


「浅層の魔石が六つ。それと実測図の差分です」


男は石を一つずつ指で転がして選り分けた。

爪の先で殻の欠片を払い落として、大きさごとに寄せていく。

払われた石粉が台の縁に溜まった。


秤が二度鳴る。皿の上で石が鈍く光った。

分銅を一つ足すと男は針の止まる位置を目で追った。

皿が小さく上下して針が真ん中で止まる。


男は短く値を告げて台帳の欄に数字を写す。

羽根ペンが紙を擦り乾いた砂を上から振りかける。

砂を傾けて落とすと、インクの湿りが引いて字が黒く締まる。


数字の入る欄はダグの時と変わらない。

欄の脇に今日の日付が入った。数字の下に線が引かれる。


「図は検分に回します。通れば台帳に載ります」

「お願いします」


銅貨の袋が台を滑ってきた。

袋は口の紐が緩んでいて、傾けると縁から一枚こぼれかける。


卓の上で硬貨の数を数える。

銅貨が台に触れると乾いた金属音が一枚ずつ続く。

ノートの収支の行に写し、今日の日付を書き足した。


セナが袋の口を覗いた。


「値段、変わらないんだね」

「秤が同じだから」


離れ際、台の奥で秤の皿を拭く音がした。


---


夜。宿の卓に灯心を一つ立てた。


広間の隅では泊まり客が低い声で話して、竈の残り火が時々爆ぜる。

戸の隙間から夜気が入り、灯心の炎が一度ふらつく。

炎の先が揺れて卓上に僕の影を伸ばした。


ノートを開いて新しいページに線を引く。

定規代わりに短剣の峰を当てて、炭で端まで線を通す。

線は途中で掠れた。もう一度上からなぞって濃さを揃える。

一行目に掲示の字を写した。


旧坑・深層区画 Dランク以上。


その下に自分の字で書く。まずはD。

炭の先を紙に押しつけて一字ずつ形をなぞる。

Dの角だけ濃くする。線が残るのを確かめた。


続きの行は空けたままにしておく。

線と線の間を指の幅で測り、次の等級の分だけ余白を残した。


収支の欄をさかのぼる。為替の行は今月も銀貨3枚で締まっている。

指で行を追って、月ごとの締めの数字を確かめた。

数字はどの月も同じ位置で並ぶ。列の端が真っ直ぐに揃っていた。


紙を一枚出して、便りの書き出しを置いた。

卓の端でノートを閉じて、便りの紙をその上に広げた。


 母さんへ。こちらは変わりありません。

 雪が解けて、旧坑へ通う季節になりました。


小刀で炭の先を整えて、そこで手を止める。

削り屑が卓に落ちて、炭の粉が指の腹を黒く染めた。

指先を布で拭っても爪の間の黒はまだ残る。


便は十日に一度出る。続きは便の前の日に書けばいい。

返事はまだ来ない。届くのは西の道が乾いてからだ。

書いた紙を二つに折りノートの間に挟んだ。


ノートのページに目を戻す。

写した掲示の一行の下には白い行が並んでいる。

行はページの下まで続いていて、指の先で数えると十を超えた。


ページを繰る指が冬の行で一度止まった。

谷で足跡の消えていた日の埋まらなかった白い行だ。

これから数えて埋める白さと違って、何で埋まるのかが分からない。


窓の外では雪解けの水がまだ鳴っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ