第74話「冬の終わり」
集落からクレウスへ戻って一夜が明けた。
宿の窓の外で屋根の雪が落ちる音がして目が覚めた。
体に傷はない。肩の奥にだけ張りが残っていた。
起きて着替えて、短剣の刃を確かめる。
昨日と変わらない手入れの手順を、昨日と同じだけやった。
朝のうちにマルセルと二人でギルドへ合同調査の最終報告に行った。
通りの雪は端に寄せられて、荷車の轍が黒く覗いている。
すれ違う荷の数が数日前より増えている。
朝のギルドは掲示板の前だけが混んでいて窓口は空いていた。
窓口のミラさんが台帳を一枚めくってこちらを見る。
「調査依頼の最終報告ですね。承ります」
「数字はこいつだ」
僕はノートから写した紙を台に載せた。
谷の位置。群れの規模と移動の向き。討伐の数。
処理されていた痕跡の場所と種類とその数。
書き写した紙は全部で三枚になった。
ミラさんは一枚ずつ読んで台帳へ書き移していった。
数字の欄は二度読み合わせて、僕が頷くのを待ってから書く。
声は規定を読み上げる調子のままだった。
「痕跡は獣のものと認められず。追跡の線は途中で切れ出所は辿れず。以上で記録します」
「辿れず、で終いか」
「はい。調査は本日づけで打ち切りです。以後は常設の警戒に切り替わります」
ミラさんは台帳の端に印を一つ付けた。
「北の猟場と谷は巡回路に入ります。掲示は明日から出ます」
「わかりました」
マルセルが首の後ろを掻いた。
台帳の上ではもうペンが動いていた。
控えが二枚作られた。
一枚は僕らに、もう一枚は台帳の間に挟まれた。
判が一度、乾いた音で落ちた。
置かれた場所はいつもと同じだった。
精算の袋は思ったより厚かった。
十一頭分の買取と調査の日当。
マルセルは袋の口を検めて縛り直した。
「分けるのは後でいい。ナギたちの分もある」
「はい」
窓口を離れる時、ミラさんは次の受付を呼んでいた。
台帳はもう別のページに移っている。
外に出ると空は晴れていた。
軒先の氷柱が日を受けて先から滴り始めている。
滴は敷石の上で同じところを打ち続ける。
道の端の雪山は昨日より低くなっている。
マルセルは市場に寄ると言って通りの角で別れた。
僕は宿に戻り、午後は装備の繕いに使った。
外套の裾のほつれを縫い、靴の油を替える。
谷で使った弦の替えはエマが朝から買い足しに出ている。
夕方には道具袋の中身が元の数に戻った。
---
翌朝は練武場へ行った。
土の上の霜が薄い。踏むと去年より早く崩れた。
練武場に着くとナギが先に来ていた。
木剣を二本提げて、片方をこちらへ投げてよこす。
「やあ。今日もやるかい?」
「やる」
いつもの間合いから始めた。
一本目と二本目は打ち込みを途中で殺されて取られた。
退がって息を整えて仕切り直す。
ナギの足は速い。目で追うのは最初から諦めている。
見るのは踏み込む前の重心の置き場所だけだ。
三本目は手首を返されて木剣ごと落とされた。
拾って構え直す。ナギは待っていた。
四本目で相打ちまで持ち込んだ。
木剣の先が互いの肩に触れて同時に止まった。
「粘るね。休んだ分かい?」
「数えてただけだよ。踏み込みの前の癖、二つ目を見つけた」
「怖いなあ、キミは」
ナギは笑って木剣を担ぎ直した。
五本目はナギが取った。
見つけたはずの癖が一本の間に消えていた。
ナギも直してくる。だから数え直す。
それで今日の打ち合いは終いにした。
ナギは木剣を置き場へ戻すと、片手を上げて一人で練武場を出ていった。
入れ替わりに、戸口からレオが入ってくる。
僕は隅へ移って型をなぞり始めた。
奥ではゼフの組が型をやっていた。
若手が三人並んで、ゼフが半歩ずつ足の位置を直して回る。
直された若手が同じところでまたずれて、また直される。
通りがかりに軽い会釈が来て、僕も目礼を返した。
壁際のレオと視線が合った。
一拍だけ、いつもより柔らかかった。
レオが自分の素振りに戻ると僕も型の続きに戻った。
五十で肩を入れ替える。百で水を飲む。
水桶の氷は張っていないが、柄杓の水は喉の奥で冬の味がまだした。
汗が冷える前に切り上げて、帰りにパンを二つ買った。
---
夜は宿の一階で、マルセルたちと卓を囲んだ。
竈の火が強い。泊まり客の話し声で広間は埋まっていた。
飯の前に谷の分け前が配られた。
ナギとレオの分は昼のうちに届けてあるという。
マルセルが残りを数えて五つに分けた。
僕の取り分は掌に載る革袋一つになった。
エマが串の肉を齧りながらこちらを見た。
「あんたら、明日はどうすんの」
「掲示板を見てから決めます。軽いのがいいです」
「ふうん」
ユルが椀を置いた。
「雪が緩むと道がぬかるみますからね。荷運びの値が上がりますよ」
セナがパンをちぎった。
「ぬかるみなら板じゃん。借り先はもう知ってるし」
「そうだね。枚数だけ先に数えておく」
エマが鼻で笑うと、ユルと春の相場の話を始めた。
去年の春は東の反物が高かった。今年は峠の開きが早い。
セナは聞きながら僕の皿に豆を寄せた。
「リク、豆残すでしょ」
「残さないよ」
「そう言っていつも残すじゃん。半分ちょうだい」
寄せたばかりの豆が半分戻っていった。
卓の端で、マルセルが何かを畳んでいた。
灯りを背にしていて、手元には紙の影だけが見えた。
影が小さくなって懐へ消える。
それから、マルセルは新しい酒を頼んでユルの話に割り込んでいった。
「荷運びなら受け方がある。春の最初の値は強気でいい」
「荷主によりますよ」
「荷主が強気なんだよ、春は」
エマが空の串を置いた。
「あんたが言うと値切られてる側に聞こえるね」
「うっせえな」
卓に笑いが回って、話は明日の天気に流れていく。
しばらくすると、セナが欠伸を噛んだ。
僕は先に席を立って、階段の下で灯りを一つ借りた。
---
部屋に戻って机に灯りを置いた。
ノートを広げて、隣に手紙用の紙を二枚並べる。
西回りの便は十日に一度で、次は二日後に出る。
村への手紙はその口に載せる。
先にノートの薬の欄を確かめた。
今月の分は先の報酬から為替で送ってある。
手配はルナ叔母さんの側で回っている。
僕がやるのは数字の確認と、便に手紙を間に合わせることだけだ。
欄の数字は先月と同じ形で埋まっていた。
来月の分も今日の精算で足りる。
足りると分かってから書く手紙は軽い。
ペンを取って、紙の端に書くことを三つ並べた。
雪のこと。仕事のこと。薬のこと。
谷のことは並べなかった。
宛名を書く。書き出しはいつも同じだ。
「母さんへ。こちらは変わりありません」
その先で一度、手が止まった。
ペン先のインクが乾いていく。
谷の名前を書きかけて、やめた。
紙は白いまま灯りの下で待っている。
書けば母さんは村の長い夜にそれを考える。
考えても村からは何もできない。
ペン先をインクに浸し直して、並べた三つを順に書いた。
冬が終わりかけています。通りの雪が解けて、昼は水の音がします。
仕事は変わりなく続けています。食事も取っています。
薬のことは叔母さんに頼んであります。心配はいりません。
セナも元気です。もうすぐ17になります。
父さんの小刀は研いで使っています。
書き終えた紙を灯りにかざして、インクの照りが消えるのを待った。
読み返して、直すところはなかった。
去年の冬に書いた手紙と、見分けがつかない長さだ。
もう一枚はテルナの叔母さん宛てに書いた。
為替の控えの番号と来月分の手配の頼み。
文は三行で終わった。
インクを乾かす間にノートを引き寄せた。
今日のページに稽古の数字と明日の段取りを写す。
集落での夜にレオから聞いた言葉はまだ書いていない。
手紙を畳んでノートに挟んだ。
封は便の朝でいい。
返事が届くのは雪解けの道が固まってからになる。
灯りを消すと、窓の外でまた雪の落ちる音がした。
---
便の日は朝から窓口が混んでいた。
列の半分は包みを抱えた商人だった。
前の男は包みを三つ載せて、控えを三枚受け取っていった。
僕の番が来て、台の上に手紙を二通載せる。
村の家とテルナのルナ叔母さん宛て。薬の手配の分だ。
ミラさんが宛先を読み合わせて判を落とした。
「西回りは明朝の出発です。テルナ経由で、以後は村への便に載ります。次の便は十日後です」
「お願いします」
控えを財布の内側に仕舞う。
薬の分の一枚は、いつも同じ折り方で別にしてある。
窓口の後ろでは荷が列を作っていた。
駆け込みの包みが多い。峠開きを待つ荷が動き始めている。
その足で買取窓口に回った。
台の上ではよそのパーティの魔石が秤に載っていた。
ダグは一つずつ指で弾いて選り分けている。
数が終わると短く値を告げて、こちらへ顔を向けた。
台の奥から小さな布袋を滑らせてよこす。
「旧坑の図の写しが二枚出た。おまえの取り分だ」
袋の中で銅貨が短く鳴った。数えるほどの額だった。
ノートの収支の欄なら一行で済む。
ダグは秤の皿を布で拭いた。
「峠が緩んできた。開いたら一度、山へ帰る」
「窓口はどうなるんですか」
「別の者が座る。値の付け方は変わらん」
ダグはそれきり次の袋へ手を伸ばした。
髭の編み込みには白い石の粉がついていた。
山の話をした時だけ、指の動きがわずかに速かった。
帰りがけ、掲示板の前に人垣ができていた。
真新しい紙が一枚、真ん中に貼り出されている。
「旧坑・深層区画 Dランク以上」
入域の条件と買取の率が並んでいた。
魔石の率は浅層の倍を超えている。
人垣のどこかで口笛が鳴った。
札を検める職員の周りに、装備の重い組が集まり始めていた。
セナが背伸びして読み、僕の袖を引いた。
僕は掲示の字をもう一度見て人垣を離れた。
門の方から荷車が三台続けて入ってきた。
泥除けまで濡れている。先頭の御者は東の訛りの商人だった。
「峠の雪が緩んどるぞ。今年は早う開くわ」
荷下ろしの人足が二人、駆け寄っていった。
荷台の幌の下から東の焼き物の藁包みが覗いていた。
冬の間は見なかった荷だった。
セナと並んで、荷が解かれていくのをしばらく見た。
そのまま宿への道を戻った。
---
それから何日か。
稽古。掲示板。日帰りの依頼。精算。
七日ごとの定期の荷は、いつもの道順で二度回した。
薬草の運びを一つと、荷の番を一つ受けた。
板は借りずに済んだ。
ジョゼ商会にも半日入った。
峠開きを待つ荷の積み替えで、ルカさんが帳面を開く前に数が合った。
ノートのページが一枚ずつ埋まっていく。
練武場ではゼフの組に若手が一人増えた。
新入りは型の一つ目で足の位置を直されていた。
通りの雪は日ごとに痩せていった。
朝に凍った泥が昼には緩んで轍を深くする。
軒下の水音が絶えなくなり、風から尖りが抜けた。
洗い場の女たちの袖が短くなった。
子どもらが道の端に残った雪を蹴って歩く。
蹴られた雪はもう固まらずに崩れた。
春が来てセナが17歳になった。
祝いは宿の卓に、エマが蜂蜜の壺を一つ置いた。
「去年はマルセルのと一緒だったね。これでまたふたつお姉さんだ」
セナは匙の蜂蜜を舐めて、満足げだった。
ある朝、掲示板の隅に見慣れない形の依頼判が一つ増えていた。
誰も足を止めない。僕もその前を通り過ぎた。
通りに出ると側溝の水が音を立てて流れていた。
初春の風が解けた雪の匂いを運んでくる。
道の端に最初の露店が出て、青物の籠が並んでいた。
売り子の声が冬の間より一段高い。
セナが先に歩き出した。
「リク、行こ。朝ごはんまだじゃん」
「うん」
ぬかるみ始めた道を、朝ごはんの匂いのする方へ歩き出した。
──────
第四章 了
〈第五章〉へ続く
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




