第73話「規格外」
調査を終え、集落に戻った。
泊まりは行きと同じ家だ。
ギルドの口利きで、また一晩世話になる。
中の平地を受け持った三人組は、ひと足先にクレウスへ発ったと家の主人が言っていた。
広間には長机が一つあるだけで、七人で囲むと肘の逃げ場がない。
机の天板は古い刃物傷で細かく荒れていた。
指を這わせると木目が乾いてささくれている。
外は昼から雪が降っていた。
粒の細かい雪で窓の下にもう白く積もり始めている。
竈の火が奥で低く鳴り、部屋の隅までじんわりと熱を送っている。
薪の爆ぜる音が時折その低い音に混じる。
今夜は竈を借りて、谷で切り分けてきた肉を夕餉にしている。
汁の鍋と根菜はこの家に分けてもらった。
鍋がくつくつと湯気を立てている。
その湯気が梁の下でゆっくりとほどけていく。
竈の熾火のまわりには、肉の串が並べて立ててあった。
エマが串を一本引き抜いて口へ運んだ。
「谷も寒かったけど、ここも大概ね」
「まあまあ、屋根があるだけましですよ」
ユルが鍋の蓋を戻しながら言った。
蓋の縁から白い湯気が細く噴き出して、天井へ立ちのぼる。
「屋根の下でこの冷えなら、外じゃ弓の指がかじかんで使い物にならないね」
エマが串の先を火のほうへ向けた。
炙られた脂がじりっと音を立てて滴る。
「その指で谷は越えたじゃないですか」
ユルが笑いながら鍋をかき混ぜる。
おたまが鍋肌を擦る音がした。
「越えたのは指じゃなくて、あんたらの背中を蹴った私の足だよ」
エマが串を振ると火の粉が小さく舞う。
ユルは肩をすくめて、また蓋を戻した。
ナギは木の杯に水を満たして、酒の壺には手を伸ばさない。
つばの広い帽子を目深にかぶったまま、飄々と串の焼き加減を眺めている。
杯の水面に竈の火が小さく映り込んでいた。
セナは椀に汁をよそって回していた。
炙り上がった串は、塩の効いたのを先にエマとマルセルへ。
骨の少ない身はユルへ。
焼き足りない分は熾火のそばへ戻す。
誰に頼まれたわけでもない。
手が勝手に卓を采配していく。
その手つきに迷いがない。
誰が何を食べたがるかを、指先が先に知っている。
マルセルが串を一本取って、黙って火に近い側へ寄せ直す。
セナが椀を差し出してきた。
「リク、これ牙の分だからね。十一頭も獲ったんだから、ちゃんと食べなよ」
受け取った木の椀は湯気の重みで思ったより手に沈む。
底から伝わる熱が、冷えた指をゆっくりとほどいていく。
調べた谷は稜線の手前までだ。
届けの要るクロード領には入っていない。
明日クレウスへ戻る。
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「リク、ちょっといいか?」
レオが杯を置き、親指を戸口のほうへ指した。
僕は椀を置いて立った。
戸を細く開けると、冷えた空気が足元へ滑り込んできた。
その冷たさが足首から膝へと這い上がってくる。
庇の下は雪がほとんど届かない。
踏んだ土は凍てついて足の裏で固く鳴った。
レオは壁に背を預けて外の暗がりを見ている。
白いものが軒の向こうを斜めに流れていた。
夜気が鼻の奥をつんと刺した。
遠くの家の灯りが雪の幕の向こうで橙色に滲んでいた。
「どうかしたの?」
「前に一度、テルナでお前の脇腹を治療したことがあったよな」
ナギと初めて手合わせをした時。
円の外から来て、片膝をついて痣に手を当てたのがレオだ。
名前を知ったのは、そのずっとあとだった。
「あの時、お前をそこまで動かすものを聞いたな」
「……聞いたね」
「答えはあのとき聞いた」
答えを引き出そうとする響きはどこにもない。
目の前の事実をそのまま確かめようとしていた。
「聞いたが、まだ分からん。何のためかじゃない。お前がどうやってそれをやってるかだ」
雪が軒を流れる。
僕は外の暗がりへ目をやった。
落ちてくる雪の一粒一粒が、闇の中で束の間だけ白く光って消える。
レオは指を一本立てた。
「秋の依頼からの帰りに群れと増水が同時に来たな。ああいう時は、誰かが剣で時間を稼ぐもんだ」
立てた指は下ろさない。
「だが、お前は一頭も斬らずに全員を先へ逃がした。
俺は荷台の上から見ていた。一度だけ腰を浮かせかけて、出る幕がなくて座り直した」
僕は白い息を吐いた。
息はすぐに闇へほどけて消えた。
喉の奥まで冷たいものが降りてくる。
秋のことは覚えている。
覚えているが、特別なことをした記憶はない。
地形を見て、水と獣の来る方向を数えただけだ。
「……ああ」
指が二本になる。
「今日もだ。俺が動いたのは一度、抜けかけた一頭を戻しただけ。あとはお前の線が先に埋めていた」
指先が外気にさらされて、じわじわと感覚を失っていく。
僕はその指を握り込んだ。
握った手のひらだけが、まだかすかに椀の熱を覚えていた。
「線ってのは群れを見てから引くもんだ。お前のは違う。昨日、谷底を測って歩いてた時にはもう引き終わってた」
「……そうかな」
自分では線を引いた覚えもない。
目の前の地形が、通り道と行き止まりに分かれて見えるだけだ。
それを人は線と呼ぶのかもしれない。
三本目の指が立つ。
「お前が昨日から、ノートに書き写す手元を見ていた。数字がきれいに埋まっていく」
僕は懐のノートの上に、思わず手を置いた。
「だが一つだけ、行が埋まらなかった。獣の欄に入らない行だ。
昨日の夜から、そこだけ空いたままだった」
僕は何も言わなかった。
返す言葉が喉の手前で止まっている。
雪が肩の上に落ちて、体温でゆっくり形を失っていく。
「書けないページを、初めて見た」
レオの視線がノートを押さえた僕の手に落ちて、また外へ戻った。
「それで分かった。逆なんだよ。
空いた行が一つあるのが妙なんじゃない。
残りの全部が埋まってる方が、よっぽどおかしい」
僕は答えなかった。
庇の外で雪が積もっていく音を、音のないまま聞いていた。
胸の内では答えになりそうな言葉がいくつも浮かんでは沈んだ。
どれも口にする形になる前に溶けていく。
戸の隙間から、広間の声が遠く漏れてくる。
エマの笑いとユルの相槌。杯を置く硬い音。
その全部が薄い板一枚を隔てて遠かった。
僕はその板のこちら側で、レオと二人だけで雪を見ていた。
「才能ってのは物差しだ。適性の数字で力の目安は分かる。
俺もナギも、その物差しの上のどこかに立ってる。
強いってのは、物差しの上のほうにいるってことだ」
レオは立てた三本の指を折り畳んだ。
「お前のは違う。力を出す場面そのものを、先に消しちまう。
物差しの上でも下でもない。載ってない。才能のある側から見ても規格外だ」
言葉が耳に落ちてくる。
意味が遅れて追いついてくる。
才能のある側、とレオは言った。
その側に立つ男が、こちらへ向けてそう言っている。
その響きを胸で何度転がしても、自分のことだという実感が湧かない。
僕は自分の手のひらを見た。
今日と昨日で何も変わっていない。
谷で線を引いたときも、ここで椀を受け取ったときも、同じ手だった。
爪の形も、指の節も、何一つ変わっていない。
この手で特別なことをした覚えはない。
いつもどおり、見えるものを見て、動くべきところで動いた。
それだけのはずだった。
「……普通に、やってるだけです」
口が勝手にその形になった。
レオは短く息を吐いた。
白い息が庇の外の暗がりへ流れて消える。
「知ってる。だから規格外なんだ」
雪はまだ軒を流れている。
手のひらは同じだ。感覚は一つも動いていない。
指を開いて、また閉じる。そこにあるのはいつもの手だった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「それ、どこで身につけた?」
僕は口を開きかけて、閉じた。
やり方なら分かる。
数えて、書いて、先に段取る。
手順は体が覚えていて、手が勝手に動く。
けれど、どこで覚えたのかを辿ると、その先が薄い膜の向こうで途切れる。
覚えはある。ここではないどこかで、僕は毎日こうやって数えて暮らしていた。
その手触りだけが残っていて、なぜそれが僕の中にあるのかは分からない。
(——俺は、これをどこで覚えた)
一瞬だけ胸の底が揺れた。
僕は僕で、ここは庇の下で、頭の上では雪が降り続いている。
説明できないものを口にすれば嘘になる。
だから閉じたままでいた。
沈黙が庇の下にたまっていく。
雪の落ちる音すらしない。
その沈黙は気まずいものではなかった。
やがてレオは壁から背を離して、外の暗がりへもう一度目をやった。
「言いたくないなら、それでいい」
レオが言った。低い声のまま。
「訊いておいて何だが、言われても俺は困る。埋まらん行があるってことだけ、覚えておくよ」
事実を一つ、棚に置いた口ぶりだった。
僕は小さくうなずいた。
軒の雪が一塊、音もなく下へ落ちた。
「……お前さ」
不意にレオの口調が緩んだ。
堅い縁が一枚だけ剥がれた声だった。
何か言いかけて、その言葉をのみ込んだ気配があった。
僕が顔を上げるとレオはもう外の暗がりへ目を戻していた。
「いや、何でもない。中は暖かい。冷える前に戻るか」
すぐ元の固さに戻っている。
僕は小さく息を吐いて、戸へ手をかけた。
レオも壁から背を離して、僕の後ろから戸をくぐった。
戸を押して広間へ入り直すと湯気と声が一度に近づいてきた。
竈の熱が頬を撫でる。
冷えていた頬に血が戻ってくるのが分かった。
この家の娘が汁の鍋を竈から運び直してきて、僕の前に置いていく。
レオは娘に一拍遅れて目をやり、視線を落として小さく咳払いをした。
僕はそれを見たが何も言わなかった。
つばの広い帽子が横から伸びてきて、僕の頭を軽く小突いた。
「なに固まってるんだい、キミ。飯冷めるよ」
ナギは杯の水を一口飲んで飄々と笑った。
エマが串を振って何か言い、ユルが鍋の蓋を持ち上げる。
湯気がまた梁の下でほどけていった。
誰も僕がしばらく席を外していたことに触れなかった。
竈の奥で薪がぱちりと爆ぜて、火の粉がひとつ立ちのぼった。
卓の上では椀の触れ合う硬い音が絶えず鳴っている。
卓の隅ではマルセルが黙々と串を平らげていた。
その向かいでエマが次の一本を火にかざす。
ユルは鍋の火加減を見ながら何か鼻歌をこぼしている。
「ほら、リク。突っ立ってないで座んな」
エマが空いた席を串の先で示した。
串の先から湯気がひとすじ立ちのぼっている。
マルセルは何も言わず、椀を一つこちらへ滑らせてくる。
卓の温度は僕が抜けている間も何も変わっていなかった。
底から伝わる熱が、また指の先まで届いた。
その熱の中へ庇の下の冷たさが少しずつ溶けていく。
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夜が更けてから外の井戸へ水を汲みに出た。
外に出ると、セナがついてきた。
広間の喧騒が扉を隔てて背中で小さくなっていく。
集落の道は雪で白い。家々の灯りが雪面に滲んでいた。
足を下ろすたびに柔らかい音が鳴る。
その音だけが、雪に包まれた道でやけにはっきり響いた。
道の脇には軒から落ちた雪が小さな山をいくつも作っていた。
雪明かりが道の先までうっすらと白を延ばしている。
息が白く残る。外の冷えは庇の下とは比べものにならない。
雪はさっきより少し粒が大きくなっていた。
井戸の縁にも雪が積もっている。
桶に張った薄氷を割ると下の水が黒く光った。
桶の把手は氷を含んで、握ると手のひらに冷たく吸いついた。
汲み上げた水は指が痛むほど冷たい。
桶の縁から滴った水が手の甲で細かい氷になった。
その一粒を拭う指も同じだけ冷えている。
桶の重みが肩から腕へずしりと伝わる。
セナは何も言わずに隣を歩く。
その横顔は雪明かりで淡く白んでいる。
灯りの届かない先はただ白く沈んでいた。
「リク、あのさ——」
セナが立ち止まった。雪が肩に載っていく。
その先の言葉をセナは長いあいだ探しているようだった。
「……ううん。なんでもない」
セナはそれ以上言わなかった。
言いかけた言葉が何だったのか、僕は訊かなかった。
桶を提げて家のほうへ歩き出す。
雪を踏む音が二つ、揃わないままそれでも並んで続いた。




