第72話「消された足跡」
集落でナギたちと分かれて今日で三日目になる。
獣の流れが狂った元を辿る調査だ。
昨日は南の谷でやり合った群れの跡を北へ辿り、向きだけ確かめて集落へ引き返した。
流れの起点はまだ地図の外にある。
昼。集落の北西の空に煙が一度だけ上がる。
「一度きり。取り決めどおりだね」
エマが顎で北西を指す。
水場には僕らが先に着いた。
石の水盤の氷はもう薄い。
日が真上を過ぎる前に林道側から二つの影が下りてくる。
「やあ。キミたちの側はどうだったかい?」
「全員無事だ。三頭やった」
マルセルが短く返す。
「そうか。ボクらの方は手ぶらだよ」
ナギが西の林道の話をする。
西でも獣が道の外へ逸れていた。
逸れた向きは揃って東寄りの北。
押し出された形も南の谷とそっくりだ。
「道中は問題ない。獣は薄かった」
レオはそれだけ言って、水場の縁に荷を下ろした。
僕は地図のページに炭で線を足す。
南の谷から遡る線。西の林道から遡る線。
二本は丘陵の北寄りにある細い谷でひとつに交わる。
谷は稜線の手前にあった。
届けの要るクロード領はその向こう側だ。
「ここだ。動きの始まった場所」
「起点、ってやつだね」
セナが横から覗き込む。
「全部ここから逃げてきたのかな。行けば分かるんだよね」
報告の途中でナギが懐から小さな帳面を出した。
何か書きかけて、手が止まり、そのまま懐へ戻す。
視線が合ったが、ナギは何も言わずに報告へ戻った。
白かった西のページに二人の三日分が入った。
数字と向きが並ぶと、地図の上の空白はあの谷ひとつになる。
「午後のうちに入る。日のあるうちに出どころを見るぞ」
マルセルが荷を担ぎ直す。
水場を出る時、セナが水盤の氷を指でつついて割った。
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谷は思ったより浅かった。
両側の斜面の日陰に雪が残り、底の土は黒く湿っている。
風下から入る。
エマが先で、次がマルセル。
ナギとレオは列の後ろだ。
レオが時々足を止め、斜面の上へ顔を向ける。
手はずどおりに歩く。
雪は日の当たる所で切れ、日陰でまた現れる。
まだらの白が谷の奥まで続いている。
底の土に獣の足跡が重なっている。
どれも爪先が、僕らの来た入り口の方を向いている。
谷の外へ出ようとした向きだ。
獣道は入り口の辺りでは太い。
奥へ行くほど細くなり、途中でぷつりと消える。
谷の中ほどで雪の帯を渡った。踏むと膝下まで入る。
左の斜面の下ほど深い。
風は谷の奥から吹き下りるだけで、鳥の声がない。
聞こえるのは自分たちの足音と雪を踏む音だけだ。
巣穴は谷の奥にあった。
あった、というより崩れていた。
斜面の張り出しが落ちて、巣穴の並びを半分埋めている。
土と岩と折れた灌木。
上から見れば冬の重みで落ちた形だ。
雪解けの季節の崩れは珍しくもない。
埋まらずに残った巣穴は下の段に二列。
口の高さが揃い、どれも谷の入り口の方を向いている。
崩れの土は赤茶けている。
周りの黒い土より明るい。
落ちてからまだ日の浅い色だ。
崩れの上の斜面で灌木の根が何本も浮いて、白い折れ口を空へ向けていた。
「巣穴の数、20はあるね」
エマが数える。
「糞も食い残しもこの冬のものだ」
つまり群れはこの冬のあいだ、ここで暮らしていた。
そして今は一頭もいない。
巣穴の口の土は乾いて固い。
出入りの新しい擦れがない。
死んだ跡がない。
骨も血も転がっていない。
崩れに埋まった気配もない。
ただ空になっている。
僕はノートを開いて炭を短く持ち直す。
巣穴の数と崩れの幅を書く。
幅を歩いて測る。12歩。
戻ってもう一度歩いても同じ12歩で止まる。
それを見てから書き入れる。
ここには「出ていった」しか残っていない。
「崩れの前に出たか、崩れで出たか」
マルセルが斜面を見上げる。
「どっちにしろ元はここだ。線の根っこだな」
エマは崩れの検分が済むと、谷の底を大股で横切った。
縁に沿って外へ外へと歩幅を刻んでいく。
数歩ごとに足が止まり、腰が落ちる。
指の腹が土の面を軽く撫でて、何もなければ立ってまた歩く。
それを三度、四度。
描く弧が少しずつ広がっていく。
エマの動きが変わったのは崩れの縁を回っていた時だ。
足がまた止まる。
腰が深く落ちる。
目の高さが地面に近づく。
「……ふうん」
「何かありましたか?」
「火」
エマが指した先はただの地面に見えた。
落ち葉と土。雪はない。
エマが手のひらで表面を払う。
下から灰が出る。灰の下に炭。
指でつまんで割ると、芯がまだ黒い。
灰は指の節ひとつ分で土に変わる。
石は組まれていない。
焚き口の周りだけ土が浅い皿の形にへこんでいる。
「埋めてある。焚いたあとに土を掛けて、上から落ち葉を戻してるんだ」
「古いんですか」
「炭の割れ方だと新しいね。この冬のうち。……たぶん崩れと前後してる」
マルセルが黙って寄ってくる。
灰を一度だけ見て、それから顔を上げ、周囲の斜面をゆっくりひと回り見る。
エマは焚き火の跡から離れ、また弧を描いて地面を歩く。
しゃがんでは土を撫で、光の当たる角度を変えて地面のむらを見る。
「こっち。見な」
湿った土の上に妙な模様がある。
細かい引っ掻き傷が一方向に揃って並んでいる。
傷は浅い。間隔が揃い、端で少しずつ重なっている。
動いているのは乾いた表の土だけで、下の湿った土は出ていない。
「枝で掃いてある。足跡の上をね」
「足跡……獣のですか」
「獣は自分の足跡を掃かないよ」
エマが立ち上がり、掃かれた筋の先を目で追う。
筋は崩れの縁に沿って延び、岩場で途切れている。
エマは筋の脇を選んで歩き、岩場の手前で止まった。
岩の面には土の粒ひとつ付いていない。
「消し方が手慣れてる。火の埋め方も掃き方も迷いがない」
弦を確かめる時の指の動きで、エマは掃き跡の縁をなぞった。
「……狩りの跡じゃないね」
それきり、誰も続きを言わない。
セナが僕の袖を引く。
「リク、これも書くの?」
「書く。あるものは書く」
ユルが崩れの奥側に立ち、谷の入り口を見ている。
「日が落ちる前に決めましょう。今夜はここから離れて休みますよ」
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夜営は谷の口から下がった岩陰で取った。
火を小さくして、見張りは二人ずつで回す。
僕は火明かりでノートを開いた。
昼間のページはすぐ埋まった。
巣穴20。崩れの幅12歩。群れの出た向き。糞の古さ。
数えられるものが上から並ぶ。
その下に、埋められた火と掃かれた地面を書こうとして、手が止まる。
頭数の欄に入れる数字がない。
向きを書こうにも、跡は岩場で切れている。
炭の先をページに置いたまま、行の頭をいくつか書いては消す。
「火の跡、1」
書けたのはそれだけだ。
灰の深さを足す。炭の芯の色を足す。
線はそれ以上延びない。
火の向こうでマルセルが見張りに立つ。
エマは弓を膝に置いたまま目を閉じている。
ナギとレオは岩陰の反対側で荷にもたれていた。
セナが隣に来て、白いままの行を覗く。
「埋まんないんだ」
「埋まらない」
「珍しいね。リクのノートが白いの」
僕は頷きノートを閉じた。
閉じても白い行の場所は覚えている。
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翌朝、空は薄い曇りで、風が谷の奥から下りてくる。
荷をまとめかけた時、エマの手が止まった。
「……あんたら!」
弓が肩から下りる。
谷の奥から低い音が来る。
地面から響くが、揃っていない。
マルセルが岩を駆け上がり、谷の奥を見て、すぐ下りてくる。
「群れの本隊だ。北の斜面からこっちへ雪崩れてくる。40じゃきかねえな」
「主は?」
「見えん。先頭にでかいのはいない」
主がいないのに、群れが走る。
主持ちの群れなら頭を落とせば流れは止まる。
この群れには落とす頭がない。
あるのは後ろから押す怯えだけだ。
どこで曲がるかは群れ自身も知らない。
「受けたら潰れます。割って、流します」
「わかった。指示を出せ」
昨日歩いた地形は頭に入っている。
谷の口は右で狭くなる。
左は崖の張り出しの下で雪が膝まで深い。
真ん中に背の低い岩がひとつ据わっている。
岩の後ろには硬い地面が三歩分。
昨日この足で踏んだ場所だ。
「真ん中の岩を使います。ユルは岩の左手前に斜めの壁を。塞がないでください。向きを変えるだけです」
「注文が細かいですね。角度は任せてもらいますよ」
ユルが杖の頭を握り直す。
「エマは右の口の上へ。先頭が右へ寄りすぎたら一の矢で鼻先を叩いて、左へ戻してください」
「的の鼻先ね。いい注文だよ」
口は軽いが、目はもう右の口の上に据わっている。
「ナギは先頭につく。速さで頭を曲げて岩に当てて」
「いいよ。一番いい席じゃないか」
ナギが帽子のつばを指で下げた。
「セナは殿。割り損ねてこっちへ抜けた分を、来た順に縛って」
「わかった。来た順だね。任せてよ」
「俺は岩の前だ。割れずに残った塊は俺が落とす」
エマが右の口の上の岩場へ駆ける。
足場を一度蹴って確かめてから膝をつき、弓を寝かせた。
ユルが岩の左手前に立って杖の先で土に短い線を引く。
セナは殿の位置まで下がる。
足元の石をふたつ、靴の先で脇へ押しのけた。
ナギは谷の口の外に出て、これから走る筋を目で辿っている。
僕は真ん中の岩の後ろに入る。
昨日歩いた地面の硬さを足の裏で踏み直す。
レオは荷の脇に残った。
杖は手にあるが構えてはいない。
見ているだけだ。
雪と土が先に見えた。
蹴り上げられた白い煙が、群れの前を転がって下りてくる。
音が地面から膝へ上がってくる。
岩陰の小石がひとつ震えて転がった。
先頭が谷の口に入る。
ユルの壁が立ち上がる。
淡い光の板が岩の左手前に斜めに掛かる。
塞ぐ壁じゃない。逸らす壁だ。
板の面に雪煙が当たって流れの形が浮く。
先頭の数頭が板を嫌う。
首を振って右へ寄る。寄りすぎだ。
右の口は一列がやっとの幅で、詰まれば折り重なって栓になる。
乾いた音がひとつ。
エマの矢が先頭の鼻先の岩を叩き、先頭は左へ戻る。
流れが真ん中の岩に当たる。
荷車の轍が石で二筋に分かれるように、群れが二手になる。
右の筋は狭い口へ一列に伸びて抜けていく。
左の筋は張り出しの下の深い雪に脚を取られ、速さが死ぬ。
最初の板が薄れて消える。
ユルが同じ角度でもう一枚を掛け直す。
右の筋の中ほどで一頭がつまずいた。
後ろが乗り上げる。
列がふくらんで口が詰まりかける。
二本目の乾いた音。
矢はふくらみの外側の岩を叩いた。
乗り上げた一頭が跳ねて外れ、列は一本に戻る。
「二の矢まで。三は要らないよ」
左の筋は膝まで沈む。
跳ねるたびに白い塊が上がり、上がるたびに速さがひとつ落ちる。
ナギが左の筋の外を走っている。
群れの目の端に現れては消え、先頭の向きを外へ外へと曲げていく。
雪の上に足の跡がほとんど残らない。
沈む前に次の足が出ている。
先頭が外へ曲がるたび、筋の全体が半拍遅れて同じ弧を描く。
真ん中に残ったのは割り切れなかった一塊。
十を超えている。
岩の前で足を止め、頭を低くして押し合っている。
マルセルが岩の前で受ける。
受けると言っても止めはしない。
塊の端から一頭ずつ、流れごと斬り落としていく。
踏み込みは半歩ずつ。
刃が通るたびに塊の端が薄くなる。
残りは向きを変える間もなく次の間合いへ入ってくる。
三頭目で塊の足並みが乱れた。
乱れた分だけマルセルの半歩が深くなる。
抜けた一頭がこっちへ来る。
セナの光の輪が前脚に掛かり、地面へ縫い止める。
二頭目は輪の脇をすり抜けかける。
もうひとつの輪が置くように現れて後ろ脚を捉えた。
三頭目は前の二頭に乗り上げたところを鼻先ごと地面へ沈められる。
「リク、まだ来るよ」
「見えてる。あと二頭で塊が切れる」
そこで、流れが枝分かれした。
左の筋の尻尾のあたりで三頭が列を外れる。
張り出しの陰の割れ目——昨日は雪で埋まっていた細い道へ、鼻先から突っ込んでいく。
ナギの足が止まる。一瞬だけ。
先頭を追うか、枝の三頭を追うか。
「ナギ、左の岩へ。上から被せて」
ナギは左の岩を蹴り、割れ目の口の上へ出る。
三頭の鼻先に影が落ちる。
三頭は割れ目を捨て、左の筋へ跳ねて戻った。
戻った勢いで筋がふくらむ。
ふくらんだ端から一頭が外れ、荷の方へ抜けかける。
短い音がした。石を割るような音。
その一頭がそこで横ざまに逸れ、筋の中へ戻されていく。
何が起きたのかは見えなかった。
レオは荷の脇に立っている。
杖は下がったままだ。
最後の二頭が塊から抜け、セナの輪に落ちる。
マルセルが残りを片付ける。
左右へ流れた群れが谷を抜けていく。
足音が遠ざかる。
谷に残ったのは踏み荒らされた雪と、倒れた獣と、僕らの白い息だけになった。
「数えるぞ」
マルセルの声で全員が集まる。
七人。欠けなし。荷も無事だ。
「怪我は」
「ないよ。切れたのは弦が一本」
「私もありません。壁は二枚で済みましたね」
「平気。輪は五回。手が冷えただけ」
「ボクも無傷だよ。走る先が全部空いてたからね」
倒した獣は十一頭。
数えて、牙と換金になる部位だけ荷に足す。
勝ち名乗りはない。声を上げる者もいない。
数え終わったら終わりだ。
数えはマルセルとエマの二人で回る。
マルセルが指で差し、エマが数を口で返す。
二巡して同じ十一で止まった。
向きも数える。
十一頭のうち九頭が谷の入り口の方へ頭を向けて倒れていた。
牙は布で拭ってから袋へ入れる。
袋の口の結びはどれも揃っている。
エマが岩の下から矢を二本拾い上げた。
鏃を親指で確かめて矢筒へ戻す。
切れた弦は外して新しいのを張り、二度弾いて音を聞いた。
帰り支度の途中でマルセルが足を止めた。
昨日エマが見つけた焚き火の跡の前だ。
掘り返した灰がまだ黒く覗いている。
マルセルは靴の先で土を寄せ、灰の上に掛け、踏んで均した。
何も言わない。誰も何も聞かない。
僕は岩に腰を下ろしてノートを開く。
頭数の欄に11。矢が2本。壁が2枚。輪が5回。
聞いたとおりに写していく。
頭数の行の上には昨夜の白い行がそのまま残っている。
書いていると、視線を感じた。
レオが立ったまま、僕の手元を見ている。
頭数の行を書き終えて顔を上げても、その目は白い行の上で止まっていた。
「……どうかした?」
「いや」
レオの目が僕から離れ、谷の奥へ移る。
ナギは少し離れた岩の上で、谷の奥を長いこと見ていた。
小さな帳面は出てこない。
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昼過ぎに谷を出た。
帰りは来た道を戻るだけだ。
荷には牙が増え、懐のノートがひとつ重い。
丘をひとつ越えたあたりで、空がさらに低くなった。
雪が降り始める。粒の細かい、音のない雪だ。
肩に落ちて消えずに残る。
振り返ると、谷の口はもう白く霞み始めている。
踏み荒らした雪の上にも、マルセルが埋め戻した灰の上にも、同じ雪が同じ速さで積もっていく。
黒い灰が白の下へ薄れていく。
僕は前へ向き直り、先を行く六つの背中を追った。
僕らの足跡も後ろで白く埋まっていく。




