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第71話「線の上」

発つのは夜明け前と決めていた。


昨日、朝のうちにクレウスの門を出た。

荷のある足では、集落に着いたのは日の落ちる前だった。

ギルドが話を通しておいてくれた家に一晩泊めてもらった。


水場の石にうすく氷が張っている。

桶の底が触れるたびに、その氷が薄く鳴った。

日はまだ丘の向こうにあって、空だけが先に白んでいた。

荷を負う音のほかに音はない。


僕らは戸を閉めて集落に背を向けた。

山の物が下りてこないと年寄りに聞いたのは、僕とセナで下見に来た時だ。

その話はもうノートの一行になっている。


僕はノートをひらいて、行程を目で追った。

集落から南の谷まで半日。

谷へ入ったその日のうちに獣の引いた跡を拾い群れを追う。

日暮れには丘陵の裾で野営する。


「装備は二日ぶん。積み直したよ」


セナが荷袋の肩紐を締めた。

杖の留め具を確かめ、握りの巻きを指でひとなでする。

火口の包みも開けて、湿っていないか一度たしかめた。


息が白い。かじかむ前に、指を一度こすり合わせた。


「先頭はマルセル。次にエマ。僕とユルが中で、セナがしんがり。獣に近づいたら声を使わない。合図は手で」


僕が割り振りを言った。セナが指を三本立てた。


「開けた場所ではエマが左、私が右。谷では縦に伸ばす。前が詰まったら私が上へ回る。……合ってる?」

「合ってる」


短く返した。セナは小さく頷いた。

荷の口をひとつ締め直し、肩を入れ直した。


西へ向かうナギたちの背は、分かれ道の先でもう小さくなっていた。

林道は右へ折れて、木立の影に消えていく。

セナが一度だけそちらを見た。


「三日目の昼、水場で。着く頃に、煙を一度」


そう言って前を向いた。

マルセルが顎で南の谷の方をしゃくった。


「行くぞ。日暮れまでに裾へ着く」

「雪、降らないうちに越えたいね」

「この登りなら日和は持ちますよ」


僕らは川筋に沿って谷へ入った。

集落の屋根はじきに背中の後ろで低くなった。


---


南の谷はしんとしていた。


鳥の声がない。川の音だけが谷底のほうを這っている。

両側の斜面が高く迫り、日の差す帯は底の細い一筋だけだった。


マルセルが足を止めずに言った。


「獣が減ってる。この時期にこの静けさはちっとおかしい」


僕はノートのページを繰った。集落の証言を書き写したところだ。

例年ならこの谷の痕は一日に六つ七つ。


「年寄りの話では今年はその半分も見ていないと」

「半分か」


マルセルが鼻を鳴らした。


「なら、残りの半分がどこかに固まってる。逃げ場のねえ方へ押し出されてな」

「押してるものが上にいるってことですか?」

「さあな。それを確かめに来た。今日は跡だけ拾えれば良い」


道の脇に爪で掘り返した跡があった。

マルセルはそれを一瞥しただけで通り過ぎる。


「古い。冬の初めのやつだ。今日の獲物じゃない」


僕はその跡にも日付をつけた。

古い跡と新しい跡は欄を分けて書く。

混ぜて書くとあとで線がぼやける。


エマが斜面の雪に指を触れて、しゃがみ込んだ。


「この足跡は新しい。踏み口が崩れてない。……こっちは古いよ。あんたら、こっちは追っても無駄だ」

「新しいのは何頭ぶん?」

「3か4。かたまって動いてる。逸れた群れじゃない。逸れさせられた群れだね」


僕はノートにその数を書き足した。

3と書いて、4に直す。少ないほうには賭けない。

向きは北。上へ。


先を読むのはいつもマルセルの出番だ。

次に進む谷。水の集まる窪み。獣の身を寄せる岩陰。

口にする先から僕がノートに落として、数に変えていった。


谷が二つに分かれる場所で、マルセルが右の筋を指した。


「こっちだ。水がある。逸れた獣は水を伝う」


僕はノートを開いて、集落からの向きと引き合わせた。

北へ、上へ。マルセルの指した筋はその向きに重なっていた。


「方向は地図と同じです」


僕が短く言ったが、マルセルは振り返りもしなかった。


雪は谷の北側にまだ残っていた。

日の当たらない斜面を選んで、足跡の新しいほうへ上がる。


一歩ごとに固い雪が鳴り、白い息がすぐに散った。

吸い込む空気は冷たく、喉の奥から胸の底まで細く痛んだ。

斜面はだんだん急になって、手をつく場所が増えていく。


セナはしんがりで時々足を止めた。

後ろの斜面を目だけで確かめている。


ユルが遅れずに後ろからついてくる。


「この登りは膝に来ますねえ」


誰も返さなかった。返す息が惜しい急な斜面だった。


---


尾根をひとつ越えると斜面の下に群れがいた。


角の張った中型の獣。数は十を超える。

枯れ草を掘り返し、鼻を鳴らしている。

大きな個体が二頭。あとは若い角ばかりだ。


警戒はしていない。まだこちらには気づいていないようだ。


風は僕らのほうへ吹いている。匂いはまだ届いていない。

斜面の雪に群れの通った帯が黒く残っている。

下りるはずの獣がそろって上を向いていた。


僕は岩陰に伏せて、目の前の地形とノートの走り書きを重ねた。

群れはゆっくり南東へ流れていた。

低いほうへ低いほうへと下りていく。


その先に僕らの通る線はない。

放っておけば離れていく。


僕は声を潜めて言った。


「大きい群れは放っておきます。当たらずに済むなら、当てない」

「当たるのは」

「逸れた数頭。斜面をこっちへ登ってくる。ぶつかるのはこれだけです」


群れの端で数頭が列から外れていく。

坂の上へ、こちらの尾根へと鼻を向けている。

残りは南東へ流れ続けている。二つの群れが坂の途中で分かれた。


僕は地面に指で線を引いた。

窪地の口。そこへ落ちる斜面。斜面の上に張り出した平たい岩。

三頭の落ちる道とみんなの持ち場を雪の上に並べた。

当てる群れはひとつ。あとは当たらない側へ流す。


声を落として、持ち場をひとつずつ振っていった。


「エマは上の岩から一の矢。当てなくていい。驚かせて右へ振るだけです」


エマが矢筈を指で確かめて頷いた。


「ふうん。外すのは得意だよ」


「右は窪地へ落ちる斜面です。口は狭くて、三頭は一列になって駆け込む。

 セナはそこを来た順に縫い止める。一頭ずつでいい」


セナは頷くと、杖を握り直して息を整えた。


「マルセルは口の内で前。縫い止まった順に落とす。ユルは僕の横。退くのは窪地の底へ」


マルセルが地面の線を一度見てから頷いた。

何度も組んできた形だ。


「矢で右へ振る。一列で落とす。来た順に縫う。……退きは窪地。ずれてない?」

「ない」


逸れた三頭が坂を登りきるのを待った。

角がこちらの匂いを拾って足が速くなる。

岩陰にはまだ気づいていない。


エマはもう岩の上にいた。


弓を引き絞る。矢筈が頬に触れて動きが止まる。

息を吐ききった一拍で弦が鳴った。


矢は先頭の鼻先の雪を撥ねた。当てていない。

獣の頭が跳ね上がり、群れが右へ折れた。


三頭が斜面を右へ駆けおりる。

窪地の口が狭く、獣は前後に伸びて一列になった。

僕の引いた線そのままの形で、三つの背が雪煙の中で前後に並ぶ。


先頭が口へ入った。


セナの杖はもう動いていた。

足元に光の輪が走る。一頭。輪が四本、脚を縫い止めた。

動けない首へマルセルの剣が入った。

雪が蹴立てられて白く舞う。


二頭目が口に入る。

足元に輪が走り、剣が首を捉える。

ここまでは順番どおり。


三頭目が口の手前で足を溜めた。向きが半分だけ逸れる。

エマの二の矢が逸れた側の雪を撥ねた。

獣の足が元の筋へ戻る。輪が走り同じ間で脚が止まった。


一度だけ狂いが出たが狭い口がそれを呑んだ。

来た順に、雪を蹴って落ちていく。


僕は途中で口を閉じた。もう言うことはなかった。


エマはもう三の矢をつがえていた。

セナの輪は逃げ場だけを正確に潰している。

マルセルの剣はノートに書いた順のとおりに落としていく。


最後の一頭が雪に沈んだ。

角が一度、雪を掻いて止まる。

三頭が雪の上に伸びていた。窪地の口の内側に、落ちた順のまま並んでいる。

血が雪に染みて湯気を立てたが、風がすぐにそれも流した。


派手なところは何もなく、誰も声を張らなかった。

雪の上の跡は僕が引いた線に重なっていた。


僕はノートに「3」と書いた。

逸らした群れの数は書かなかった。

下りるはずの群れが上を向いた理由の欄はまだ空けておいた。


炭を持つ手が少し震えていた。


---


引き上げようとした時、南東の斜面が動いた。


逸らした群れが向きを変えていた。

さっきまで離れていく側だったのが、いまはこちらへ鼻を向けている。

低いほうへは動かない。何かに背を押されるように坂を登ってくる。


セナの光が走った斜面へ、まっすぐに。

角の列が雪煙を上げて斜面を崩れ落ちてくる。

十を超える角が一度にこちらを向いた。


「窪地!」


僕が叫ぶより先に、マルセルの腕が僕の襟をつかんで底へ放っていた。

全員が窪地の底へ下がる。

逃げ場に決めておいた、その底へ。


「ユル」

「はい、ここは私の仕事です」


ユルの手のひらが窪地の縁へ向いた。

淡い壁が口いっぱいに立ちあがる。


角の群れがそこへぶつかる。壁が鳴り撓んだ。

一頭が退いて、また別の一頭がぶつかる。

壁はそのたびに撓んでそのたびに戻った。


ぶつかるたびに足元の土が低く揺れた。

僕は膝を抱えて、口の中だけで数を数えた。


雪と土が上から降ってくる。

ユルの額に汗が浮いて、腕が小さく震える。

それでも壁は一度も内へ膨らまなかった。


やがて群れは向きを変え、南東の谷へ雪崩れていった。

角の音がだんだん遠くなる。

壁の向こうで雪の崩れる音が小さくなっていく。


ユルが手を下ろして額の汗を拭った。


「怪我は。……無し。上出来」


僕らはしゃがんだまま、荒い息だけを吐いていた。


窪地の底には落ちてきた雪と土がうっすら積もっていた。


---


丘陵の裾で野営を張った。


地面は固く凍りついて、荷を下ろす音だけが乾いて響く。


火を焚いて湯を沸かした。

湯気が上がって、少しだけ体の芯が戻った。

こわばった指先を炎にかざすと、痛いほどの熱がじんと皮膚に滲みた。


セナは早くに横になった。

エマの寝息が規則正しく続く。

ユルは壁を張った疲れで寝入りが早かった。


火の番は僕とマルセルの二人。

火を挟んだまま、しばらく黙っていた。


薪が爆ぜて火の粉が短く舞う。


「昼、手ぇ震えてたな」

「……寒かったので」


マルセルは炎から目を離さない。


「お前、何のために強くなろうとしてる」


僕はノートを閉じた。

膝の上で指がページを押さえた。

火がその紙を橙に染めている。


「母さんの薬のためです。最初は」

「最初は、な」


火が小さくなる。マルセルが新しい薪を一本くべた。

急ぎもせず、火を突いて次の言葉を待っている。


「今は」


僕は答えを探した。すぐには出てこなかった。

炎の音だけが間を埋めている。

遠くで夜の鳥が一度だけ鳴いた。


「……わからなくなってきました」


炎が指の影を長く伸ばした。


「でも、止まれない気がします」


火に目を落とした。

マルセルは何も言わない。

しばらく火を見て、それから薪をもう一本くべた。


「ふん」


マルセルはそれきり口をつぐんだ。

僕もそれ以上は言わなかった。


風が火を一度傾けた。

マルセルは片膝を立てて、遠くの尾根を見ている。


火の明かりは足元で揺れて、その先は闇に沈んでいた。


---


火の番を終える前、僕はノートをもう一度ひらいた。


南の谷のページは埋まっていた。

群れの数。逸らした向き。落とした三頭。ユルの壁。

今日の線がそこにぜんぶあった。


ページをめくると西の欄が目についた。

三日目の昼、水場で。


僕は炭を袋に戻した。

この行が埋まるのはまだ先だ。


顔を上げると、西の空は星もなく黒いだけだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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