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第70話「名前のない側」

朝のギルドは人で溢れていた。


買取の窓口に列ができて、掲示の前にも人がたまっている。

僕とセナは練武場での日課を終え、朝の依頼を選びに来ていた。


掲示の新しい紙を追っていると、窓口から呼ばれた。

ミラさんが手を上げていた。


「ちょうど、宿へ使いを出すところでした」


列の横を抜けて窓口に立った。

数日前、猟場の違和感を報告したのはこの窓口だ。

呼ばれる心当たりはそれしかない。


ミラさんは棚から冊子を出してめくった。

指が止まった先には僕の名と日付があった。

数日前に出した違和感が行の一つになっている。


「先日の報告が記録に上がっています。あのあと判断は上に回り、今朝返ってきました」


ミラさんが別の書面を卓に置いた。角がまだ折れていない新しい紙だ。


「調査の編成にあなたたちの名前が挙がっています」


指名です、とは言わなかった。事務の声のままだった。

セナが横から書面を覗き込んで、僕の袖を一度引いた。


「猟師筋からも、ほかのパーティからも、同じころに似た報告が届いていました」


ミラさんが行を指でたどる。

三つ、四つと別々の筆跡で書き足されている。

あの草地の静けさを、別の誰かも踏んでいた。


「獲物の消えた猟場。縄張りごと空いた斜面。場所はばらついていますが、時期がそろっています」


僕はうなずいた。

一つなら見過ごされる。数がそろえば行が立つ。


「旧坑のあふれではありません。あちらは先日そちらで確かめた通りです」

「その通りに残っています。今回は突き合わせのほうが早く進みました」


あの日の実測図はもうダグの査定を通っている。

あふれなら旧坑のページが先に埋まっていた。

埋まらなかったのは猟場のほうだった。


「上が広域の調査に回すことになりました。マルセルのパーティに依頼を通します」


Cランクの枠にパーティを乗せてギルドが調査の形に編む。

マルセルの枠で、ほかの手と並んで動く。


「マルセルは知っているんですか」

「これからお伝えします。同じ書面を作ってあります」


後ろの列で買取の秤が鳴った。ミラさんの声は変わらない。


「報酬は日で出ます。範囲が広いぶん、日数の割り振りは後ほど詰めます」

「わかりました。準備はいつまでに」

「出立は書面の日取りで。定期の指名と日程が被りますが、状況を鑑みてこちらを優先。

 依頼主にはギルドから説明と補填を行うのでご安心ください。

 依頼の顔ぶれと範囲は追って卓で。昼過ぎに集まってください」


書面の端にあった出立の日取りをノートに写した。

日付と受注の形。行が一本増えた。


---


昼過ぎ、奥の卓に地図が広げられた。


北を上にした一枚。

川筋と丘陵、集落の印がいくつか並んでいる。

街の東門を出て旧坑から北へ広がる一帯だ。

あの草地も範囲の南寄りに入っている。


羊皮紙は端が擦れ何度も畳まれた跡があった。

角に古い書き込みが残っている。


卓にはマルセルとエマとユル、それに僕とセナ。

他にはナギとレオに、見知らぬ三人組もいた。


ミラさんが横で書面を控えている。

ナギが卓の端から炭を一本取り、指の腹で転がした。

木炭の粉がうっすら指先に残る。


「範囲はこれだけある。人数で割る」


マルセルが指で地図を囲った。

川から丘陵まで集落を三つ抱えた広さだ。

指がそのまま範囲を四つに区切る。

南の谷、西の林道、中の平地、北の丘陵。


川は東から西へ流れ途中で北の谷筋に分かれている。

集落は川沿いに二つ、丘陵の裾に一つ。起点は裾の集落になる。

裾の集落から丘陵の上まで半日はかかると印にあった。


旧坑の印は南の端に小さくあった。線が引かれて消してある。

あふれの筋は先日そこで消えていた。


「南の谷はうちが持つ。川沿いの一本道だ。楽な口じゃねえがな」

「川は渡れますか」


僕は聞いた。


「ああ。荷を上げれば渡れるくらいの浅さだ」

「西の林道は」

「ナギとレオに頼む。あの足と目なら西は速い」


レオがうなずいた。


「林道は把握している。問題ない」

「西はボクらの庭みたいなものだよ」


ナギが笑った。

続けて、マルセルは三人組のリーダーへ顔を向けた。


「中の平地はあんたらに頼みたい。いけるか?」

「ああ、うちで持とう。依頼でよく行くから勝手がわかってる」


マルセルは頷くと、指を北へ滑らせた。

丘陵の印で止まる。


「北はどこまで見るの?」

「稜線までだ。その先は入らない」


そこでミラさんが口を開いた。


「北の丘陵一帯はクロード家の領地です。立ち入りには届けが必要になります」


クロード家。初めて聞く名だ。

土地に、家の名前がついている。


「……そうか」


ナギの返事はひと呼吸遅れて出た。

地図をなぞっていた炭が途中で止まっている。


僕はノートに書き写した。北の丘陵、クロード家、届け。

書き写す間も、ナギの目は地図の北の角から動かなかった。


「で、北は誰が持つ」


マルセルが卓を見回した。


誰も口を開かなかった。三人組は難色を示している。

西をすぐに引き受けたナギも、北の区画には手を伸ばさない。

炭は西の縁をなぞってまた戻っただけだった。


「なら北もうちだ。人数も多い。最初は南を回って、届けの返しが来てから入る。

 エマ、ユル、返しが来たら俺がガキ二人を連れて入る。

 それまでに谷が終わらなければ、お前ら二人が残って続けてくれ」


マルセルはそう言うと顔を上げた。エマとユルが了解したように頷く。

一瞬、マルセルの目がナギを捉えたが、指はもう次の谷筋を指していた。


「集落を起点にして、日で割る。初日で入って、聞き込みに一日」


ミラさんが書面に印をつけていく。

届け先、戻りの日、報告の順。


「集落へ戻ったら、猟場ごとに分けて上げてください。場所といつからとどちらへ。

 北の届けはギルドから出します。今日の便で管理人へ。

 返しはこちらで受けて、起点の集落へ回します」


ミラさんが書面の隅に届け先を書き足した。


「頼む」


制度の話はいつも通り淡々と進んだ。地図はそのまま卓に残された。


僕は自分の写しをもう一度たどった。

南の谷はうち。西の林道はナギとレオ。中の平地はよそのパーティ。

北の丘陵も、届けの返しが来ればうちが入る。


北にだけ、名前がついていた。


---


翌朝、僕たちは練武場へ出た。

出立が決まっても朝の日課は変えない。


練武場に着くと、すでにナギとレオがいた。


「やあ。律儀だね」

「ナギこそ」


合同の稽古は依頼まで休みにしてある。それでも互いの日課までは止めていなかったらしい。

向こうは向こうで木剣を振り、僕たちは僕たちで型をなぞる。

同じ土の上で、別々に体を仕上げていく。


途中、ナギが木剣を担いだまま寄ってきた。

ナギは口元を緩めると、木剣を構えた。


「せっかくだし、一本だけどうかな?」

「……じゃあ一本だけ」


三合で終わった。

ナギの踏み込みが浅い。二の太刀が来る前に僕の切っ先が胸元で止まった。

半年の朝稽古で何十回も受けた、あの伸びがない。

拍子抜けするほど軽い一本だった。


「ナギ、調子悪い?」

「そうかもね。今日は日が悪い。まあ、依頼までには戻しておくさ」


ナギは木剣を置き場に戻して戸口へ歩き出した。

壁際のレオも手を上げてそれに続く。


「それじゃあ、仕事だから」


二人が出ていくと、練武場はいつもより広く見えた。

僕とセナは残りの型をなぞってから練武場を後にした。


宿へ戻って、広間の卓に地図の写しを広げた。

出立の日が決まれば、あとは荷の算段だ。


セナが先に口を開いた。写しを指でたどっている。


「装備は二日ぶん。北は朝が冷える。上着を一枚多く。

 火口も持つ。丘陵は薪が湿ってる。

 食い物は三食ぶん。集落で一度足す。

 あれ、リク。水は?」

「集落で補給できる。書面では水場があるって」


セナはうなずいて、指を写しに戻した。


「行程は初日で集落まで。聞き込みを一日。丘陵はそのあと。初日の泊まりは」

「集落にギルドが交渉しておいてくれるらしい。野営は丘陵に入ってから」


セナが袋の中身をもう一度数えた。足りない物はもうない。


「戻りは五日を見ておく。遅れたら、集落に伝言を置く」


荷の口を締めて段取りは仕舞いになった。


---

出立までの日を空けておきたくなかった。


僕とセナは先に集落まで足を運んだ。

荷のない身軽な足なら半日で着く。


集落は丘陵の裾にあった。

低い石垣と藁葺きの屋根がいくつか。

畑はもう刈られていた。刈り跡に火を焚いた跡が残っている。

石垣の際には、掃き寄せられた雪が固く残っていた。


水場のそばに小さな祠があった。

積んだ石は苔で黒ずんでいるのに、かけられた布だけが新しい。

供え物の跡もあった。塩と刈った麦の束が置いてある。

古いものを、誰かがいまも世話している。


僕たちは祠の世話をしている家に泊めてもらった。

その家の年寄りが日向に座っていた。

話を聞かせてほしいと頼むと、年寄りは山のほうへ目をやった。


「山の物がいつからか下りてこなくなった」


「いつからですか?」

「刈り入れの前あたりだ。だんだんとな」

「どちらへ?」

「北のほうだ。上の斜面へ、上へ上へと」


僕はノートを出して、猟場のページを開いた。

あの草地で消えた数の隣に、いま聞いた向きを書き足す。

消え方と引き方。別々に見えていた二つが、同じ向きに並んだ。


村の猟師が通りかかって足を止めた。

獲物の足取りも同じ向きだと言う。


「罠はこの半月ずっと空だ。鹿も兎も下りてこん」


猟師が空の罠のほうへ顎をしゃくった。


「わしの親父の代にも、こんな年はなかった。

 熊も見ない。いつもなら実りの前に里の畑まで下りてくるのに」


「空になったのは、いつからですか」

「半月。それより前から、数は減っていた」

「どこから減りました?」

「下の斜面からだ。上はまだ、鳥の声がする」


僕はうなずいた。

拾うのは、いつからとどちらへ。それだけだ。


年寄りが祠のほうを見た。


「地の主が騒ぐ年は山の物が里に下りるもんだ。今年は逆さまだな」


逆さま。

別の家の年寄りも、同じことを言った。

里に下りるはずのものが山へ引くと。


二人に示し合わせた様子はなかった。

地の主のことは、ノートに書かなかった。


セナは水場で集落の女に水の出を聞いていた。

涸れてはいない。ただ、氷の張りが早くなった。

川上の様子は誰も知らない。上へは、誰も行っていない。


僕は集落の位置と、証言の向きを地図の写しに書き入れた。


---


集落から戻った夕方、宿に便が届いていた。


便の中身は村からの返しだった。


クレウスからテルナまで七日。

そこから村へ渡って、返しが同じ道を逆にたどる。

数えればちょうど今ごろになる。


包みを開けた。薄い紙が二枚。

藁の匂いがした。村の紙だ。

折り目に土が少し挟まっていた。


手紙の文字は母さんの字だった。丸い字だ。


「いい日が増えた」


薬は届いて、効いている。

畑にも出られる日があるという。

咳の合間が長くなってきたと。

隣の家が薪を分けてくれたとも書いてあった。


書いてあるのはいい日のことだけだ。


下に父さんの字が一行だけ。角ばった字だ。


「小刀は研いでいるか。刃は使えば鈍る」


父さんの書きそうな一行だ。

腰から小刀を抜いた。灯りに刃をかざす。

刃先に薄い曇りが出ていた。

研げばまだ戻る。父さんの言う鈍りの手前だ。

今夜、研いでおく。


もう一枚はセナ宛の一筆だった。アーシャさんの字だ。


紙を渡すと、セナは少し離れて開いた。

アーシャさんの字は母より細い。

セナは黙って、二度読んでいた。


僕はもう一度、母さんの一行を読んだ。いい日が増えた。

ノートを開いて、東の街の欄の隣に短く書き足した。


セナはまだ自分の紙を見ていた。

顔は上げず、しばらくそのままだった。


外で風が戸を鳴らした。


---

出立の前夜、地図の写しをもう一度広げた。


灯りを一つ引き寄せて、北を見た。

北の丘陵。地図の角に、古い書き込みだけが残る一帯。


書き入れた印を指でたどる。

消えた草地。空になった罠。獣の引いた向き。

たどれる印は、どれも北を指していた。


けれど跡そのものは、名前のない側から始まっている。

その先にはまだ入っていない。

届けの返しもまだ来ていない。


何がそこにあるのか。

僕は指を止めた。

炭の線を思い出した。あの線も、北の手前で途切れていた。


地図の上で、北だけが手つかずの白さのまま残っている。

明日からは、その手前を歩く。


灯りは消さなかった。

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