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第69話「旧坑の外」

その日は宿の一階で朝食を囲んでいた。


外はよく晴れて、窓から乾いた風が入っている。


商会の一件が片づいてから、数日は軽い依頼が続いた。

薬草の採取。荷運びの護衛。逃げた家畜の追い込み。

どれも危なげなく終わり、卓には軽口が戻っていた。


マルセルがパンを裂きながら左腕を大きく回した。


「もう何ともねえ。すっかり元通りだ」


エマがその腕をちらと見て、串の肉を齧った。


「ふうん。この前まで杯を右手だけで持ってたくせに」

「うるせえな」

「回すのは治りきってからにしな。開いたらユルの仕事が増える」


「まあまあ。増えた分は宿代に乗せますよ」


ユルが粥をかき混ぜながら言って、卓に小さく笑いが起きた。

マルセルが話を逸らすように、串の先を僕へ向けた。


「で、ガキどもは今日どうすんだ」

「掲示板を見てきます。軽いのでいいので」

「どうせ書いて選ぶんだろ」

「書くと後で楽なので」

「変わったやつだよ、相変わらず」


マルセルが串を置いた。


「二人で回せるやつにしとけ。無理はするな」


セナが僕の皿にパンを一つ寄せた。


「無理なんてしないよ。絶対、堅いのにするから」


「その絶対が一番信用ならねえんだよな」


食器を片づけて、僕とセナはギルドへ向かった。

朝のクレウスは荷車の音と呼び売りで埋まっていた。


---


ギルドの掲示板は朝から人だかりができていた。


セナが背伸びして貼り紙を追う。

新しい紙は真ん中に寄せてある。

日雇いの荷役や薬草採り。


僕は下の段、隅に貼られている古い一枚に目を止めた。

角が反って紙が日に灼けている。


「旧坑の魔物間引き。魔石の買取と、入域札の知らせ」


常設の依頼だった。掲示は去年から出したままになっている。

セナが横から覗き込んだ。


「旧坑って、東の廃鉱山のとこだよね」

「うん。地脈の淀みが坑の中に溜まってるらしい」

「魔物が湧いて、魔石になるやつ?」

「そう。浅いところならEランク向けだね」


窓口に持っていくと、ミラさんが台帳を一枚めくった。


「旧坑ですね。では入域札を発行します」


小さな木の札に日付と刻限が焼き入れられていた。


「帰還の期限です。これを過ぎると捜索隊が出ます」

「費用は」

「本人持ちになります。買取分から差し引かれます。赤字の場合は請求が発生するのでご注意ください」


セナが札を覗き込んだ。


「期限、二日あるね。旧坑なら余裕じゃん」

「浅層だけだよ。一層と二層。それ以上は降りない」

「わかってるって」


札を受け取ると、隣にいた古株が口を挟んできた。


「旧坑か。いまは引いてるぞ」

「引いてる、とは?」

「地脈の流量だ。晩冬は落ちる。浅層の魔素が引く」


男は顎で東を指した。


「潜るなら今だ。満ちると下から魔物が湧いてくる」


---


旧坑の入り口は崩れかけた坑木で縁取られていた。


外の光は三歩も入ると届かなくなった。

奥には炭を流したような闇が広がっている。

湿った風がかすかに流れ出てくる。


僕は油灯に火を入れて、一つをセナに渡した。


「灯りは二つ。片方は必ず点けておく」

「片方が消えても、もう片方で戻れるように?」

「そう。予備の油もある」


明かりの予備と退路を先に決める。別の世界で覚えた段取りのままだ。


「順路は?」

「右手を壁につけて進む。帰りは左手だ。これで壁を離さなければ入り口に戻れる」


坑道は狭く、天井から水が滴っている。

足元の軌条は錆びて枕木が半分腐っている。


油灯の炎が壁の湿りを舐めた。

光の輪だけが前へ伸びていく。


闇が一定の距離を空けてついてくる。

一歩ごとに足音が低く反響した。


天井の水滴が肩を打って、襟の内に冷たく落ちた。

息を吸うと鉄の錆と土の匂いがした。

壁に手を這わせて一層へ入った。


最初の一匹は岩の陰から這い出てきた。

石でできた蟹のような魔物。殻に魔石が育っている。


光が届くと濡れた殻が鈍く照り返した。

背の魔石だけが灯りを吸って淡く濁る。

平たい脚が石を掻いて、横向きに寄ってくる。


殻の縁が石床を擦る硬い音を立てて止まった。


セナが息を止めて指先を弾いた。

細い糸が闇を走り、脚の付け根へ伸びる。

糸はそのまま脚を絡めてその場に縫い止めた。

殻の下で脚がもがき、糸が軋んで引き絞られた。


僕は横合いから殻の継ぎ目に短剣を差し込んだ。

刃を刺し入れると、堅い手応えが返る。


一度ひねると殻の内で何かの外れる感触があった。

刃を抜くと切っ先に灰色の粉がこびりついていた。


殻が割れて中の身が動きを止めた。

魔石の光がふっと鈍り、灯りの色だけが殻に残る。

割れ目から覗いた身がじきに縮んで止まった。


「一匹」


声に出して数える。


石の蟹は群れないが数が多い。

岩陰ごとに一匹、また一匹と湧いてきた。


灯りを回すたび、奥の暗がりで濡れた殻が光る。

魔物は光を嫌って身を低くし、奥へ這おうとする。


近づく前にセナの糸が届いて脚を石に留めた。

セナは糸の先を指で二度弾いて張りを確かめる。


僕は継ぎ目の一点へ刃を落とすだけでよかった。

殻の割れる音が坑道の奥へ低く転がっていく。


セナが縛り、僕が仕留める。順番を崩さない。


「五匹。灯りも油もまだ足りる」

「うん」


一つ仕留めるたびに殻を割って魔石を剥ぎ取った。

剥いだ殻はぬめって、指先に泥と鉄の匂いが残る。

光る石を布に包み、層と数をノートに控える。


布の包みが重みを増す。灯りの油はまだ半分残っている。


一層を抜けて、二層への下り口で足を止めた。

下り口から冷たい空気が上がり、灯りの炎が横へ揺れた。


掲示されていた坑内図を灯りの下で広げる。

古い図だった。二層の枝道が実際と食い違っている。


僕は入り口からの歩数を、節目ごとに区切って数えてきた。

戦いで途切れても、最後の節から数え直せばいい。


「入り口から、ここまで六百四十歩」


図には無い枝道が右に一本伸びていた。


炭を取り出して、図の余白に線を描き足す。

歩いた距離と枝の向き、下り口の位置を書き込んだ。


「それ、勝手に描いていいの?」

「歩いた分は描いて出せば買い取ってくれるのだって。受付からそう聞いた」


セナが図を覗き込んだ。


「へえ。図が古いと、こういうの得じゃん」

「必ず見つかるわけではないからね」


枝道を右に見送り、下り口の段を一歩ずつ降りた。

湿った石の段は苔で滑る。足裏で確かめながら前に進む。


下り口を抜けると天井が低くなった。

壁の湿りが濃くなって、灯りの周りに細かい靄が立つ。


二層は羽虫の群れが多かった。

灯りをかざすと翅の音が塊になって近づいてきた。

翅の群れは光を追って天井の低い方へ渦を巻いた。


羽虫は炎に向かって列を崩し、光の輪へ吸い寄せられる。

灯りに寄ってくるのを、セナが糸でまとめて落とす。


糸に絡んだ群れが灯りの下でひとかたまりに震えて止まる。

僕が踏んで、翅の付け根の石を拾った。

潰れた翅が石床に薄く散って足裏に貼りついた。


小さな石はまだ温く、指の腹で数を確かめた。


石の蟹が九匹。羽虫の群れが二つ。

ノートの欄が順に埋まっていく。


三層への下り口には鉄の札が下がっていた。

灯りを近づけると鉄が汗をかいたように濡れていた。

下り口の奥から、上の層より重い空気が流れ上がってくる。


「三層。Dランク以上」


炭で書かれた字が灯りに揺れた。


セナが下り口を覗き込んで僕を見た。


「降りないよね」

「降りない。僕はDランクじゃない。セナ、一人で降りる?」

「ううん、約束。今日はここまでだね」


セナの返事を聞いて、僕は図をたたんで袋に仕舞った。

灯りを持ち替えると、足元の軌条が来た時と逆に光っている。


右手を壁から左手に替えて、来た道を戻った。


---


坑を出ると日はまだ高かった。


外の光がまぶしくて、しばらく目を細める。

坑の湿りが背中から抜け、乾いた風が汗を冷やす。

吐いた息が外の光の中で白く散った。


帰り道は坑の外周を回って北へ抜ける。

その先に、この数日の採取で二度通った草地がある。

低木と草地が続く、兎や鳥の多い場所だ。

傾きかけた日が枯れ草の穂を淡く光らせていた。


猟場に差し掛かったところでセナが足を止めた。


「……鳥、少なくない?」


僕も立ち止まった。


言われて耳を澄ました。草を渡る風の音しかしない。

羽ばたきも鳴き声も、藪を蹴る足音もない。

草の穂が擦れる音だけがやけに大きく残った。


来る道では鳥の声がしていた。

この草地に入ってから、一度も聞いていない。


二日前に通った時は、この時間でも鳥が騒いでいた。

兎が草を食み、藪から野鼠が飛び出した。


今日は何もいない。

日向にも、雪の残る日陰にも、生き物の影がひとつもない。


セナが杖に手をかけたまま動かなかった。


「この前は、うるさいくらいだったのに」


風が藪を撫でて、それきり何の音も返ってこない。


僕は袋からノートを出した。

クレウスに来てからのひと月分の記録がある。

二日前に通った日のページを指で追った。


「二日前はここで兎が七つ。鳥は数えきれなかった」


今日ここまでで見たのは兎が一匹。

鳥は一羽も飛んでいない。


セナが藪をかき分けた。


「餌場、使われてないよ。糞も食み跡も古い」


兎の巣穴も土が乾いて崩れかけていた。

藪の根元には抜けた毛が残り、色が褪せている。


放棄された縄張りだ。

争って追われた跡はない。

ただ数ごと消えている。


以前受けた依頼のことを思い出した。

森で聞いた話。主持ちの群れは間引いても数が戻る。

主が縄張りを守るから獲物も居着く。


主の気配はない。数も減っている。

足元の草だけが乾いた風に揺れていた。


「旧坑のあふれ、かな」

「中は事前に聞いた通りだった。数も湧きも」

「じゃあ」

「おかしいのは外。ここだけ数が消えてる」


僕はノートを閉じた。

セナが空を見上げた。


「……変なの」


風だけが草の上を渡っていった。


---


クレウスに戻る頃には日が傾いていた。


ギルドの窓口へ着くと、奥に見慣れない男が座っていた。

僕より頭一つ低い。だが肩幅は広く、手は僕の倍は厚い。

編み込んだ髭に白い石の粉がついている。


ドワーフだった。

物語の中でしか知らなかった重みが目の前にいる。


ドワーフの男は袋を受け取り、魔石を布ごと台に空けた。

秤に載せる前に一つを指でつまんで宙で軽く弾く。

重さを指先で計っている。


「石の蟹が九に羽虫の群れが二つ分。魔石はこの値だ」


値を告げた声はぶっきらぼうな短い声だった。

僕は袋の底から描き足した坑内図を出した。


「これも買い取ってもらえますか」


図を受け取ると灯りに近づけた。

古い図と僕が足した線を見比べる。

枝道の位置を指でなぞり、歩数の書き込みを読む。


炭の切れ端を取って、僕の線を一本だけ引き直した。

壁の曲がりが半歩ぶん深くなった。


図を置くと、さっき告げた値に一段上乗せした。


「ダグだ。峠が閉じてる間は、こっちの窓口に居る」

「峠?」

「カルデグの山だ。冬は雪で閉じる。開けば山へ帰る」


ダグはそれきり、次の袋に手を伸ばした。


僕はその足でミラさんの窓口へ回った。

北の猟場のことを、ノートを開いて伝えた。


「二日前の記録と数が合いません。獲物が消えています」


ミラさんは書き取る手を止めなかった。


「記録として上げます。調査になるかは上の判断です」


獲物の消えた草地は、台帳の上では一行だった。


---


宿に戻って灯りを一つ点けた。

机にノートを広げ、今日のページを見返す。


旧坑の図は線で埋まっていた。

枝道、下り口、歩数。数字の欄も揃っている。

石の蟹が九、羽虫が二つ。魔石の値も書いた。


めくった前のページに母さんの薬の欄がある。今月分は足りていた。


隣は猟場のページだった。

日付と場所の名だけがある。

兎が一匹、と書いたきり、あとは白い。


二日前のページには数字が並んでいた。

今日のページは、そこだけ白いままだった。


しばらく二つを見ていた。

埋まらないページだけが、灯りの下に白く残っていた。

それからノートを閉じて、灯りを消した。


窓の外を夜番の足音が過ぎていく。

町の音は、まだいつも通りだった。

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