閑話⑥「平気な顔」
宿の裏には井戸がある。
夕方は水を使う客が少ない。釣瓶を待たなくていい。
朝の稽古着を洗うなら今のうちだ。
受けで散々転がされた分の砂も落としたい。
井戸端には私のほかに誰もいなかった。
夕食の支度の煙が塀の向こうで何本も立ってる。
空はまだ明るいのに軒の影はもう青い。
この時季の夕方は駆け足だ。
ぐずぐずしてると手が悴む。
釣瓶の縄は冷たかった。
汲んだ水をたらいにあけて袖をまくる。
その前にしゃがんで稽古着を沈めた。
風が塀の間を抜けて襟足に触った。
手が止まった。というより勝手に固まった。
肩の後ろがすっと冷えて戻った。
振り向いたら板塀の上に烏が一羽いた。
烏はこっちを見もしないで羽づくろいをしてた。
息を一つ吐いた。
指を握って開いた。ちゃんと動く。
たらいの水が揺れて映ってた顔が崩れた。
洗いの続きに戻る。手はもういつも通りに動いた。
お互い様だ。前の大猟の時は私が同じことをした。
あの時のことはちゃんと覚えてる。
朝からずっと、私の拘束が正面を支えてた。
マルセルの背中に影がいくつも回って、考える前に手が出た。
いつもの拍子のまま、光の帯がまとめて縫い止めた。
左に、って叫んだらマルセルは振り向かないで跳んだ。
声だけで通じた。あの晩は寝るまで足が軽かった。
終わったあとは二人とも次のことをしてた。
峠はその逆をやってもらっただけ。
パーティってそういうものだから。
背中で刃の風が鳴って、次の息の時には地面に転がってた。
マルセルの左腕には赤い線が入ってた。
ありがと、助かった、って私は言った。マルセルは頷いた。
これでおあいこ。
村の駆けっこと同じだ。
転んだ子の手は近くにいた子が引く。
次に転んだら今度は引かれた子が引く。
誰が何回引いたかなんて誰も数えてない。
私も秋に駆けっこで一回だけ川に落ちた。
引き上げられて、濡れたまま続きを走った。
秋の川は冷たかったけど足を止めた覚えはない。
誰が引き上げてくれたのかはもう忘れた。
ゆうべの飯屋でも変わったことは何もなかった。
ユルは煮込みを私の椀から先によそってくれた。
エマは依頼の紙を読み上げてた。
読み上げの間、エマの目だけが何回かマルセルの方へ動いてた。
怪我人がいる時のエマはああなる。
マルセルはあんまり喋らなくて、杯の減りも遅かった。
左腕が痛むんだよね、あれ。
あの人、痛い時ほど口数が減るから。
顔は席につく時に見た。いつもの顔だった。
食べ終わる頃には明日の依頼の話になってた。
採取が先で護衛はあと。揉めもしないで決まってた。
稽古着を絞った。甘いと朝に乾かないから、手首が重くなるまで。
物干しの縄まで運んで、端から掛けていく。
水が石畳に黒い線を引いた。この冷えだと今夜のうちに凍るかも。
縄の端を留めながら、ジョゼの家のことを思い出した。
大きい家だった。
玄関から客間まで、村なら家三軒分は歩く長さがあった。
廊下が長くて天井が高くて、足音がよく響いた。
声は先に天井へ上がってから降りてくる。
匂いも違った。
廊下の奥から薬湯の匂いがして、その上に蝋の匂いが乗ってた。
村の家はどこも竈の匂いが一番前に来る。
窓の外には枝だけになった木が並んでて、落ち葉が一枚もなかった。
あの庭で遊ぶ子どもの姿は思い浮かばなかった。
家の人たちは声が小さかった。
小さいのに廊下の長さのせいで遠くまで届く。
空気の重さなら村にいた頃から分かる。
私は黙って柱の木目を見てた。隣でリクも黙ってた。
黙って、廊下の窓の数でも数えてそうな顔だった。
マルセルが奥の部屋から出てきた時、私は柱の横にいた。
怒った顔に見えた。でも、怒った時の眉じゃなかった。
マルセルが怒ると、眉の間に稽古の時と同じ深い影ができる。
あの時は影がなかった。
目は廊下の誰のことも見てなかった。
廊下を通る時、行くぞ、とだけ言った。
いつもより半段低かった。
クリスちゃんの声も覚えてる。
声より先に息を吸う音がした。
「……また、来ますか?」
最後の「か」だけ、少し上がった。
あの上がり方は知ってる。
村の子が川に入る前、爪先を水につける時の声と同じ高さだ。
冷たいのは分かってて、それでも入るって決めてる声。
言い終わったあともクリスちゃんは目をそらさなかった。
マルセルが何て返したかは聞き取れなかった。
風に混ざって消える低さだった。
ルカさんの顔なら見えた。
口が少し開いて閉じて、眉が下がったまま笑ってた。
私と目が合うと、口の形だけで、ごめんなさい、って動いた。
お父さんのことも少しだけ考えた。
灯し試しの日、私の番で大人たちの声が一段高くなった。
お父さんは声を出さなかった。
腕を組んで一回だけ頷いて、あとはずっと私の顔を見てた。
その晩のうちの飯は皿が一枚多かった。
今でも私の話になると声が少し高くなるらしい。
前に村に帰った時にお母さんが言ってた。
あの日は晴れてて、畑の方から風が来てた。
覚えてるのはそこまで。
稽古着の最後の一枚を掛け終わった。
袖から水が一滴落ちて石畳で丸くなった。
日が屋根に掛かる前にパンを買っておきたい。明日の朝の分。
前掛けを外して通りへ出た。
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通りは店じまいの音で埋まりかけていた。
桶を提げた子が二人、競争しながら路地へ駆け込んでいく。
速い方が笑ってた。負けた方も足は止めてなかった。
軒灯に火を入れて回る親父が、竿を担いで角を曲がっていった。
夕方の通りは声の高さでできてる。
売り切りたい店の声は高くて、終わった店の声は低い。
パン屋の戸は半分閉まってて、滑り込んで固いのを二つ買った。
戻りかけたところで名前を呼ばれた。
「セナ」
リクの声は夕方の雑踏でもまっすぐ届く。
振り向くと小さい包みを提げて歩いてくるところだった。
「買い物?」
「リクもでしょ」
「うん。明日の分の油紙」
並んで歩き出す。
リクがパンの包みを覗き込んだ。
「また固いの?」
「安いじゃん。汁に沈めればやわらかくなるし」
「明日の朝は大竈が早いって。汁はあるよ」
通りの声が背中で一段ずつ低くなっていく。
軒灯の火が増えて、石畳に点々と色が落ち始めた。
リクと並ぶと歩幅が勝手に合う。合わせてるつもりはないのに。
「朝の受け、前と同じ数まで戻ってたね」
「当たり前でしょ。あれくらいで鈍らないよ」
リクが歩きながら指を一本折った。
「そういえば、襲撃の時、平気だった?」
「全然。あんなの、どうってことないよ」
言葉は先に出た。
リクは私の顔を一回だけ見た。それで頷いた。
リクの確かめは荷物の数え合わせと同じだ。
数さえ合えば先へ進む。リクの中では、それで足りてた。
「ならいい。明日の集合なんだけど——」
聞かれたことはそれで仕舞いだった。
話はもう集合の刻限と荷の割り振りに移ってる。
リクの話は聞いてるだけで道順が見える。
私は相槌を打ちながらパンの包みを抱え直した。
宿の前まで来て、リクが先に戸へ手を掛けた。
「先に入ってて。私、洗い物を部屋に入れてから行く」
「分かった。夕食の準備しておくよ」
リクが戸の向こうに消えた。
戸の隙間から大竈の匂いがした。
中でエマの笑い声がして、ユルの、まあまあ、が続いた。
洗い物は裏だ。
分かってるのに、足が先に止まってた。
西の空がまだ残ってた。
川の浅瀬みたいな色が屋根と屋根の間で細くなっていく。
村の川も夕方はあんな色になった。
(……嘘)
(言いたいことならある。でも——まだ言えない)
指を握って開いた。
井戸の時と同じでちゃんと動く。
口の中で、絶対、と言った。
誰にも届かない大きさで。
よし、決めた。
明日は朝から走る。
水路沿いを行けるところまで行って戻って、それから朝稽古だ。
風が出てきた。夜の冷えが路地の奥から来る。
裏の物干しから稽古着を外した。
袖の端はもう固くなりかけてた。
部屋で干し直せば朝には乾く。
抱えて戻る戸口の中からリクの声がした。
いつもの高さだった。——それだけで、肩の力が抜けた。




