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第68話「畳んだ紙」

本宅の塀が見えなくなると、道は夕餉どきの街の音に入った。


雑踏がまとめて届いた。


店じまいの板戸の音。荷車の輪の音。

軒先の掛け灯に一つずつ火が入っていく。

路地の口から煮炊きの匂いが流れてくる。


宿までの道を誰も急がなかった。

二日ぶりの通りは、出た日と同じ速さで流れていた。

変わったのは僕らの荷の軽さだけだ。

行きに並んでいた三台の荷馬車はもういない。


セナが横に並んだ。


「ねえリク。クリスちゃん、しゃべったね」

「うん。しゃべった」

「また来ますか、だって」


セナは前を向いたまま笑っていた。

それから声を前へ投げた。


「マルセルも、また行くんでしょ」

「ああ」


門前と同じ返事だった。


「お腹すいた。今日は歩いた分だけ食べていいよね。絶対いいよね」

「うん。歩いた分は」


宿の前の通りでは、子どもが二人、樽の輪を転がして遊んでいた。

セナが立ち止まって大きく息を吸った。


「あー、着いた」


声は雑踏に混ざってすぐに流れた。


宿に足を踏み入れると、広間では大竈に火が入っていた。

主人が顔を上げて、頷いただけで竈に戻った。


帳場の壁の鍵札は出た時の場所のままだ。


近くのテーブルにはエマとユルが座っていた。

手元には紙が三枚。帰り際にギルドに寄ったようだ。


「明日から動くよ。休みは今夜で仕舞い」

「まあ、選ぶのは飯のあとでいいですね」


卓に紙が並ぶ。採取が二枚、護衛が一枚。

エマが紙の端を指で弾いて卓の真ん中へ寄せた。

セナは自分の部屋へ戻る前に、その紙を一度だけ覗いていった。


二階の廊下は拭かれたばかりで、隅がまだ湿っていた。


部屋は冷えていた。窓を少し開けて風を通す。

旅の荷を解いて、洗う物と洗わない物を分けた。

外套の裾の泥を落として壁の釘に掛ける。


僕はノートを開いて巡回の欄を確かめた。

次の巡回まで、あと五日ある。体を休める日は取れる勘定だ。


明日の朝はギルドで月々の為替を頼む。

出立の前にそう話は付けてあった。

護衛の報酬の受け取りも、明日まとめて窓口で済む。


窓の外の通りは、日が落ちても人の声で埋まっていた。


---


夜は表通りの飯屋に入った。


注文はエマが決めた。

炙り肉が四人前と豆の煮込みの大鉢。固いパンが二皿。


卓の間を給仕が盆を高く上げて通っていく。

煮込みの湯気で卓の上だけ空気が白い。

壁の棚に並んだ酒瓶まで曇っていた。


皿が来る前からセナは匙を握っていた。


「帰ってきた晩はこれだよね。絶対これ」


骨付き肉を両手で持ち上げてかぶりつく。


「リク、朝稽古は明日からまた行くんだよね。ナギ、絶対待ってるよね」

「うん。行くよ」

「じゃ、早寝しないとね。……受けの間、鈍ってるかなあ」


骨を持ったままセナが眉を寄せた。


「体は覚えていますよ」


ユルが大鉢から煮込みを取り分けていく。

自分の椀より先にセナの椀が満たされた。


エマが依頼の紙を卓の隅で開いた。

場所と実入りを一枚ずつ読み上げていく。


「採取から入る。護衛は体が戻ってからだ」

「順当ですね」

「明日は薬草だっけ。北の斜面のやつ」

「東の沢筋だ」


エマとユルの声にセナが混じり、皿の音の間で行き来する。

読み終えた紙の裏に、エマは朝の集合の刻を書き付けた。

それから紙を懐へ入れた。


給仕が炙り肉の二皿目を置いていった。

セナの手が迷いなく伸びる。


マルセルは杯を持ったまま、あまり喋らなかった。

左腕は袖の下にある。杯も皿も右手で済ませている。

注ぎ足された杯は減りが遅かった。

前の皿だけは、いつの間にか空いていた。


その目が、僕とセナの方で一拍長く止まった。

エマが杯の縁ごしにマルセルを見る。


「顔に出てるよ」

「うるせえ」


それきりだった。

エマは何も足さずに豆の皿へ匙を戻した。


セナは二本目の骨付き肉と格闘していて顔を上げなかった。

隣の卓の笑い声が湯気ごしに流れてくる。


給仕が空いた皿を三枚まとめて下げていった。

勘定はマルセルが銅貨でまとめて払った。


---


店を出ると夜の風は乾いていた。


「私らは先に戻る。あんたらも夜更かしすんなよ」


エマがセナの背を押した。それにユルが続く。


「え、なんで私も」

「朝稽古、早いんだろ」

「……それはそうだけど」

「お先です」


三人の背中が角の向こうへ消えた。

セナの声が角の先で一度跳ねて、聞こえなくなった。


マルセルが顎で通りの先を示した。


「腹ごなしだ。回って帰る」

「僕も行きます。ギルドの便の刻限を見ておきたいので」


夜の通りは店じまいの音でできていた。

戸板を立てる音。桶の水が石畳に撒かれる音。

軒灯の火が風のたびに細くなって戻る。


大通りから一本入ると人通りは急に薄くなった。

石畳の目地で昼の水が凍り始めている。

月は細い。屋根の上に白い息のような雲が一筋あった。


ギルドの戸は閉まっていた。

掲示板の脇に便の日割りと朝の刻限の墨書きがある。

窓口の奥は暗い。裏手の荷継ぎの厩から藁の匂いが夜気に混ざっていた。


刻限を口の中で二度繰り返して覚えた。

明日は開くのと同時に来ればいい。


歩きながら指を折った。

朝一で為替。戻って支度。それから練武場。


マルセルは半歩先を歩いている。

杯のあとの足取りは行きの街道と変わらない。


「為替か」

「はい。月の分を、先に頼んであったので」

「そうか」


マルセルの息が白く流れて消えた。


「稽古と便、どっちが先だ」

「便の方です。開くのと同時に行きます」

「段取りは決まってんだな」


マルセルが鼻から息を抜いた。

足音だけがしばらく続いた。


通りの突き当たりで、夜番の灯りが辻を横切っていった。

マルセルの歩みがわずかに緩んだ。


「セナも、いい歳だな」


マルセルが前を向いたまま言った。


「村にいりゃ、縁談の一つも来てる歳だ」

「そうですね。村の同世代には結婚してるのも居たし、母さんのことが無ければセナもそうだったかもしれません」


そう言いながら、折りかけていた僕の指が止まった。

止めたつもりはなかった。


マルセルが肩ごしに振り返る。

目は僕の顔ではなく、止まった手にあった。


「……お前、それ、自分で分かってねえのか」

「何がですか」


マルセルが短く笑った。


「そうかよ。——それなら、俺は関係ねえよ」


聞き返す間はなかった。

マルセルはもう前を向いて歩き出している。


「明後日の採取、道は山寄りだ。革の手袋を出しとけ」

「はい」


それからは、どちらも喋らなかった。


辻の井戸の縁で桶の縄が白く凍っている。

軒下の氷柱が軒灯の火を受けて、一列だけ光っていた。

犬が一匹、水路の橋の下から出てきてこちらを見ずに横切った。


指を折り直した。

村への便、依頼の支度、練武場。手袋を一つ足す。

折った指は今度は最後まで動いた。

いつの間にか手は開いていた。


橋板を渡る足音が二人分、揃わずに響いている。

角を二つ曲がると宿の灯りが見えた。


マルセルが戸口の前で夜空を一度見上げた。

それから中へ入った。


僕もあとに続いた。


---


夜半に目が覚めた。

旅のあとはいつも妙な刻に目が開く。


部屋の空気は冷えて、寝床の中だけが温い。

卓の水差しは空だった。

上着を肩に掛けて部屋を出た。


階段を半分降りたところで、広間に灯りが見えた。

芯を短くした小さい火だ。

梁の影が天井で小さく揺れている。


マルセルが隅の卓に向かっていた。

背中はこちらに半分向いている。

肩は動かず、手元だけが動いている。

いつからそこにいたのかは分からない。


僕は段の途中で足を止めた。


大竈の火は落ちて、残り火の匂いだけがしている。


椅子の背に包帯がかかっている。左腕に巻いていた布だ。

洗って干したもので、乾いて色が薄くなっていた。


紙が一枚、灯りの下に見えた。

卓の上にはほかに何もない。

手が動いている間は衣擦れの音もしなかった。


灯りの芯が一度鳴った。壁のマルセルの影がふいに伸びて、縮んだ。

外の風が表の戸を一度だけ押した。灯りの火が横に寝て、戻った。


マルセルは首を一度回した。

それから紙の面を一度だけ灯りへ傾けて、畳み始めた。


一度、二度。三つ折りになる。

端を親指で押さえて、折り目の上をゆっくり通した。

畳み終わるまで、息の音も聞こえなかった。


畳んだ紙が懐に入った。

胸元を上から一度手のひらで押さえる。


火の油が減って、灯りが一段小さくなった。

マルセルは卓に肘をついたまま動かない。

灯りと影の間で、背中は長いことそのままだった。


僕は声をかけなかった。

水は諦めて、来た時と同じだけ音を立てずに階段を戻った。


部屋に戻ると寝床は冷え直していた。


表の通りを夜番の足音が過ぎていく。

遠くで戸の閉まる音が一つして、あとは静かだった。


広間の灯りが消える音を、聞かないまま眠った。


---


朝ギルドに向かうと、ちょうど戸が開いたばかりだった。

低い光が窓口の台に長く差し込んでいる。


窓口にはミラさんが座っていた。

台の上に銀貨を3枚置く。月々の、村への送りの分だ。

いつもは精算で預けるだけの金を今月は手で払う。

留守の間に月をまたいだ分だ。


ミラさんは帳面の行に指を当ててから、銀貨を金箱へ落とした。


「お預かりしました。テルナ経由で、いつもの通りに送ります」

「お願いします」


いつもの通り。それで村まで届く。

ルナ叔母さんの顔が一瞬浮かんだ。


判が一度落ちた。

渡された控えは胸の物入れにしまった。


隣の台では別の客が包みを預けていた。

手続きを終えたミラさんは、もう次の客の方を向いている。

戸口を出ると朝の往来が始まっていた。


練武場にはもう木剣の音が響いている。


古株のゼフが若いのを二人連れて型を見せていた。

基本の三つだけをゆっくり繰り返している。

若いのの足の向きを木剣の先で直してやっていた。


通りがかりにこちらへ軽く会釈をした。僕も目礼を返す。


セナも端で受けの構えを作っている。

朝、宿は一緒に出たが、セナは窓口に寄らずに練武場へ来ていた。


ナギは壁際で素振りをしていた。

僕を見て木剣の先をわずかに上げる。

数日ぶりの合図はそれで済んだ。


一本目は長かった。

足を出すたびに留守の分の鈍りが膝に出る。

ナギの足は静かだ。板が鳴るのは僕の側だけだった。

三合、四合と受け流されて間合いが元に戻る。


汗が出た頃にようやく体が思い出した。

最後はナギの木剣が僕の小手を軽く打って、一本が決まった。


僕は手を上げて認めた。

ナギが頷く。それだけで次の構えに入る。

一本ごとに、ナギは木剣の先で床を軽く突いた。


二本目は途中まで押した。

足の運びが揃うと木剣は勝手に前へ出る。

打ち込みの音が朝の板の間に重なって響いた。

ゼフの組の足音が遠くで規則正しく続いている。


そのどこかで、壁際にレオがいるのに気づいた。

日の差さない側に腕を組んで立っている。

いつもは途中で消えるレオが、今日は動かなかった。


向こうの端からセナの受けの声が時々届く。

木剣の返る間は出立前と変わらなかった。


三本目の途中で僕の打ちが初めて小手を掠めた。

ナギの構えが半拍だけ深くなる。

四本目はすぐに片がついた。膝の鈍りはもう出なかった。


最後の一本が終わって、僕は息を整えた。

小手を打たれた場所が汗の下でまだ熱い。

レオはまだ壁際にいた。最後まで見ていたのは初めてだ。


セナが手ぬぐいで首を拭きながら水場の方へ歩いていく。

すれ違いざまにこちらへ拳を軽く上げてみせた。


レオがナギに近づいて短く何か言った。

声はこちらまで届かない。

ナギの表情は変わらず、頷きもなかった。


それからレオは戸口へ向かった。


敷居のところで一度だけ振り返る。目が僕に向いた。

それから、何も言わずに背を向けた。

戸口の光の中を背中が横切って消える。


「……ふうん」


ナギが木剣を握り直し、その先をこちらへ向けた。


「もう一本だけやろうか」


僕は戸口をもう一度見た。

朝の光の四角を、往来の音が通り過ぎていく。


僕はナギに向かって木剣を構え直した。


戸口にはもう、誰の気配も残っていなかった。

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