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第67話「切れる縁と」

朝のうちに中継ぎの町を出た。

空は薄曇りで風はない。


宿の前で御者たちが荷台を検めていた。

帰りの荷台は検めることが少ない。縄を二本締め直して終わった。


空の荷馬車が三台、来た時のままの並びで街道へ出る。

車輪の音が昨日より軽かった。


「空荷なので足が速いです。林の細い場所は朝のうちに抜けます。休みは水場で一度」


御者たちが頷いて手綱を取った。

返事の声も行きほど張っていない。


行きに何度も手綱を持ち替えていた御者が、今日は片手で綱を握っている。


エマが後ろの荷台に上がり、ユルがしんがりへ回る。

マルセルは先頭を歩いた。

左腕の布は袖の下だ。荷台には乗らなかった。


隊の形は昨日のままで、荷だけがない。


林の細い場所に人はいなかった。

倒れ木は道の脇へ寄せられて、白い切り口だけが残っている。


樽の転がった跡がまだ土に残っていた。

セナはそれを目でなぞって、何も言わずに通り過ぎた。


窪地の枯れ草が風で鳴っている。

目印に挿した小枝はそのままにしておいた。


エマは荷台の上から林を見ている。

今日は矢筒の蓋が閉じたままだ。


水場で馬を休ませた。

水際には薄い氷が残っていたが、馬の口先が触れると簡単に割れた。

水面に口をつけて少し長く飲んだ。


御者たちが交代で水を汲む。

今日は短い立ち話をする余裕があった。


刻限はノートの読み通りだ。

行きに数えた歩数の通りに景色が来る。


行きの工程では夜明け前にクレウスを出て、目的地に着いたのは日暮れだった。

帰りの出は遅かったが、荷がないぶん速く進む。

このまま行けば日のあるうちに門をくぐれる。


エマがマルセルの左腕を目で指した。


「布、明日は替えな」

「勝手に塞がる」

「ふうん」


日が西に傾いて、道の先にクレウスの壁が見え始めた。

夕日が壁の上のほうだけを染めている。


壁が見えてからマルセルの口数が減った。

御者に訊かれたことに短く返すだけで、自分からは何も言わない。

エマもユルもそれには触れなかった。


セナが一度だけ僕の袖を引いて、先頭の背中を目で指した。

僕は小さく首を横に振った。セナはそれで前へ向き直った。


---


東の門に着いた時、日はまだ壁の上に残っていた。


門番は木札と顔を見比べて五人分を通した。

行きに検めをした男と同じ顔だった。


門を入ってすぐの街道筋は、家路につく人で流れていた。

店の並びが切れたところに、古い屋敷が見えてきた。


商会の看板はない。長い塀と瓦の重い門。

塀の漆喰が剥げて、ところどころ下の土が見えている。

瓦の下に古い木の札が掛かっていた。字は薄れて遠目には読めない。


門の脇に格子の窓がある。

出立の朝に灯りが点いていた窓だ。

今日も同じ窓に、もう灯りが入っていた。


「お店と全然違うね」

「うん。ここは店じゃなくてあくまで人が住むところみたいだから」


セナはもう一度屋敷を見上げた。


門の前にルカさんが立っていた。

帳場で見るより、立っている姿は細かった。

羽織の肩が動いていない。ずいぶん前から待っていた立ち方だ。


「お疲れさまでした。荷はこのまま店へ。……兄さん。支度は整えてあります」

「おう。……ガキども、お前たちも来るか?」


『来い』でも『来るな』でもない。『来るか』だった。

店の時は無理やりついていった。ついていくための理由も僕が立て付けた。

今日は違う。入るかどうかを、マルセルはこちらに預けている。


僕とセナは一度顔を見合わせ、同時に「はい」と答えた。


「私らはここまで。弓の用はない話だろ」

「荷車を店まで送って先に戻ります。ごゆっくりどうぞ」


そう言うと、エマとユルは三台の荷台を連れて、店への街道筋を進んでいった。

足音と車輪の音が遠ざかると、門の前は急に静かになった。


ルカさんが先に立って、僕らを門の内へ促した。


門までの十歩でマルセルの歩幅が狭くなった。


僕とセナはマルセルの後ろについて、敷居をまたいだ。


---


案内された広間には火鉢が二つ置かれていた。

それでも空気は冷えている。


飾り棚には何も置かれていない。

掛け軸の跡だけが壁に薄く残っていた。


真ん中にテーブルが一つ。

卓の両端で燭台の火が揺れている。

上には紙が一枚とペン、それに封蝋の道具が載っていた。

注いだばかりのインクの匂いが冷えた部屋に立っている。


ルカさんがテーブルの向こうに座り、役人のような男が脇に控えた。

下座に親族筋の男がいる。あの白髪交じりの従兄だ。


その隣に古参の使用人が座っていた。

店で腰を浮かせかけた、あの年寄りだ。

指が算盤の玉の形に曲がっている。


茶は誰の前にも出ていなかった。


マルセルはテーブルの前に座った。

腰の下ろし方に迷いがない。板の間の座り方を体が覚えている。

剣を外して右脇に置く。鞘が床で短く鳴った。


僕とセナは戸口の近くに控えた。

セナは戸口の柱に指先を掛けたまま動かない。


この場ではノートを出さなかった。

数える代わりに手だけを見ていた。

手は四組とも膝の上にある。


ルカさんが一同を見回した。


「お集まりいただきました。読み上げは商会ギルドのカルロ殿から」


カルロと呼ばれた男が紙を両手で持ち上げた。


「一つ。ジョゼ商会の家督ならびに財産の継承の権を、マルセル殿は放棄なさる。

 一つ。以後、当主の座につきマルセル殿は異を唱えられない。

 日付は本日。立会いは三名」


読み上げは帳場の速さと同じだった。

商いの紙と同じ速さで家の紙が読まれていく。


従兄の目は紙を追っている。

古参の目はマルセルの手元から動かなかった。


「足りねえな」


カルロと呼ばれた男が紙を下ろしかけた時、マルセルが異を唱えた。


「籍ごと切れ。ジョゼのマルセルは今日で仕舞いだ。そう書き足せ」


燭台の火が一度だけ揺れた。

従兄の目が初めて紙を離れて、マルセルへ向いた。


古参が身を半分だけ乗り出した。


「若……」

「その呼び方はやめろ。俺は冒険者だ」


古参は口を閉じた。

曲がった指が膝の上で重なる。


ルカさんは動かなかった。

それから一度だけ訊いた。


「……いいんですね」

「二度も言わせんな」


ルカさんが手元へ紙を引き寄せて、続きに二条を書き足した。

ペン先が一度だけ止まって、また動いた。


カルロが紙を持ち直して、足された分を読み上げた。


「一つ。マルセル殿は本日をもって、ジョゼの家籍を離れる。

 一つ。以後、ジョゼの名を名乗りにも商いにも用いられない」


読む速さは同じだったが、声だけがわずかに低くなっていた。


親族筋の男は動かなかった。

膝に手を置いたまま、今日はまだ一言も出していない。


ルカさんがペンにインクを含ませて、柄の方をマルセルへ向けた。


マルセルが受けると紙に自身の署名を滑らせた。

太い字が紙の左端に並ぶ。剣の柄で硬くなった指が細いペンを潰さずに運んでいく。

左腕の布が机の縁に触れないように肘だけを浮かせている。


ルカさんが布包みから印章を出した。

包みの布は何度も畳まれた跡で柔らかくなっていた。


マルセルは検めずに受け取った。


名前の下に蝋を垂らして、印章を沈める。

印章を離すと、蝋の紋は深かった。

隅が一箇所だけはみ出している。


紙がテーブルの向こうへ押し出された。


蝋が冷えて固まるまで、誰も口を開かなかった。

その間、火鉢の炭が一度爆ぜた。


親族筋の男と古参の顔から何かが下りた。

ルカさんが両手で紙を受け取った。


「……お預かりします」


紙は畳まれずにテーブルの脇の平箱へ収められた。

蓋の閉まる音が板の間に響いた。


「ご立会い、ありがとうございました。店の帳にも書き入れます」


声はもう帳場の速さに戻っていた。

使用人がインク壺を片づけ始めた。


マルセルが立ち上がって剣を腰へ戻した。

立ち上がりざま、目が壁の掛け軸の跡を一度だけ通った。


---


病間は渡り廊下の先の離れにあった。


廊下の途中から煎じ薬の匂いがした。

盆を持った年配の女の人が戸から出てきて、僕らに会釈していった。

盆の上の湯呑みは空になっていた。


ルカさんが戸の前まで案内して、頭を下げて広間へ戻っていく。


「僕とセナはここで待ってます」

「……おう」


戸の前でマルセルが息を一つ入れた。

取手を引いて中へ入る。戸は音を立てずに閉まった。


廊下に火の気はない。

高いところに明かり取りの窓が一つあるだけで、残りの日が細く入っている。

窓の外は暮れかけた庭だ。水のない池に枯れ葉が積もっている。


セナが壁に背をつけて、両手を袖の中に入れた。

吐く息が白い。


戸の向こうから声は届かなかった。

厚い戸だ。話しているのかどうかも分からない。


時々、咳だけが聞こえた。

長く続いて、途切れて、また続いた。


セナが袖の中で腕をさすっている。

布の擦れる音だけが廊下にあった。


床板の冷えが足の裏から上がってくる。

僕は爪先を靴の中で丸めて、戻した。


冷えが膝まで上がった頃、渡り廊下の先からさっきの女の人が戻ってきた。

盆の上で新しい湯呑みが二つ、湯気を立てている。


戸を細く開けて中へ入ると、すぐに顔だけ出した。


「旦那様が、お連れの方々も、と」


僕とセナは顔を見合わせた。

今日二度目だった。


戸の内側は薬の匂いが濃かった。


奥の寝床では、男が半身を起こしていた。

肩に厚い上着が掛けてある。

頬がこけて、首が細い。

それでも起きた背筋は曲がっていなかった。

目だけが痩せていなかった。


枕元に文机が寄せてある。

紙は載っていない。拭き込まれた木の面が灯りを返している。


マルセルは寝床の脇に立っていた。

椅子はあったが座っていなかった。


男の目が僕とセナの上を順に通った。


「……息子が、世話になっているようだな」


しゃがれた声だった。言葉の途中で一度息を継いだ。


「いえ。頼りにしています」


セナが黙って頭を下げた。

男は浅く頷いて、それきり僕らを見なかった。

女の人が文机に湯呑みを二つ置いて、盆を胸に抱えて壁際へ下がった。


「籍まで抜いたそうだな」

「ああ」

「家督だけで済む話を、わざわざ」

「担ぎたがるのがいるんでな。元から断った」


男の指が寝床の縁を二度、軽く叩いた。


「揉め事は元から断つのが安くつく。……帳場ならそう書くところだ」


責める声ではなかった。

褒める声でもなかった。


「荷は」

「納めた。倒れ木が一本あったが、どかして通った」

「そうか」


湯呑みの湯気が二人の間で立っている。

どちらも手を伸ばさなかった。


「剣で食えているのか」

「ああ」


男の目がマルセルの左の袖に一度止まった。

何も言わずに、目は窓の方へ戻った。


「そうか」


それきり声が途切れた。

窓の外で枯れ枝が鳴った。


「もういい、行け」


マルセルが半歩下がって、背を向けた。

僕とセナが先に戸口へ出る。


マルセルが敷居を跨ぎかけた時、後ろから声が追った。


「マル——」


呼びかけは咳に変わった。


マルセルは敷居の上で半歩だけ止まった。

振り返らずに廊下へ出て、後ろ手に戸を閉めた。


口元はゆるんで、目の縁だけが硬かった。


「行くぞ」


声はいつもの高さだった。

咳は戸の向こうで薄くなっていった。


歩き出す前に、マルセルは布の上から左腕を一度つかんだ。


渡り廊下を三人で戻る。

板が行きと変わらない場所で鳴った。


僕は一度だけ、閉まった戸を振り返った。


---


門前までルカさんが見送りに出た。

日は屋根の向こうへ落ちかけて、門の脇の掛け灯に火が入っていた。


「リクさん。数字の話がまだ途中ですので」

「はい。落ち着いたらまた店に伺います」

「お待ちしています」


セナが「お邪魔しました」と小さく言った。

ルカさんは目だけで応えた。


それからマルセルへ向き直った。


当主の顔のまま、何か言いかけてやめた。

それから頭を下げた。


「道中、お気をつけて」


マルセルが門の外へ一歩出て、止まった。


「……また来る」

「はい」


ルカさんの頭がもう一度下がった。

さっきより深く、長かった。


門柱の横にクリスがいた。


柱の陰ではない。

門柱に肩を寄せて、道の側に立っている。

両手は体の前で重ねられていた。柱を掴んではいない。


店の廊下では柱の陰から半分だけだった。

今日は体ぜんぶが外に出ている。

頬が外の冷えで赤くなっていた。


金髪のリボンは店で見た時のままだ。

俯いてもいなかった。


目がまっすぐマルセルへ向いている。


「……また、来ますか?」


細い声にマルセルの足が止まった。


「ああ」


それだけ答えて、また歩き出した。


クリスの目が僕とセナの上を一度なぞった。

セナが小さく手を振る。


クリスは手を振り返さなかった。

リボンの端が揺れて、止まった。


門の内側でルカさんが妹の横に並ぶのが見えた。

二人はこちらを見たまま動かなかった。


歩き出してすぐ、ノートを開いた。


便の欄には村へ手紙を出した日の印がある。返しが来るのはまだ先だ。

道の欄。荷の欄。人の欄。

今日の分をどの欄に書くか、決まらなかった。


書きかけのページを風がめくろうとして、指で押さえた。

開いたまま十歩歩いて、そのまま閉じた。


先頭のマルセルの歩幅はいつもの雑な広さに戻っている。

道が曲がるところで、セナがもう一度だけ振り返った。


掛け灯の下の二人は、まだそこに立っていた。

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