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第6話「旅立ち」

朝、台所には父さんが立っていた。


父さんが台所に立つのを僕は見たことがなかった、それだけで何かがおかしいとわかった。

普段は鍛冶場に出る前に、母さんが用意した粥か黒パンを座って食べる。それが朝の景色だった。


「おはようございます。母さんは?」

「熱が、下がらない」


父さんは鍋を見たまま言った。

振り返らなかった。声が普段より低い。

何を作ろうとしているのかはわからない。鍋の中の湯が小さく動いている。

火加減も、鍋の傾け方も、慣れていない手つきだった。

鉄を打つ手はあれだけ正確なのに、台所では別人の手のようだった。


僕は廊下の奥を見た。

母さんの部屋は扉が閉まっている。

中の音はしない。

昨日の夕食の時、確かに少し疲れた顔をしていた。それは思い出せた。

でも、それが「熱」になる兆候だったかどうかはわからない。


しばらくして、アーシャさんが来た。


セナの母親で村で医師のような役をしている人だ。父さんが朝のうちに使いを出したのだろう。

玄関で挨拶を交わしてすぐに母さんの部屋へ入っていく。手に薬箱を持っていた。

靴を脱ぐ動きが村の人にしては早い。何度もこういう場面に呼ばれてきた人の動きだった。


僕と父さんは台所に残った。

扉の向こうの音が聞こえる時と聞こえない時があった。

診察の声、布が動く音、コップを置く音。

父さんは座っていた。両手を膝の上に置いて動かない。

鎚を持つ時とは別の人のようだった。


しばらくして扉が開き、アーシャさんが出てきた。


顔の表情を整えている、と思った。

医師の顔と幼馴染の母親の顔が混ざっている。

怖いことを言う前にその怖さを少し薄める努力をしている。

そういう顔だった。


「テルナ町の医師か薬師に診てもらう必要があるわ」


静かな声だった。


「この症状は、私の手に余ります」


間をおいてアーシャさんは続ける。


「動かせる状態ではないわ。連れていくのは無理。

症状を書いた書状を持って、医師か薬師から薬をもらってきてもらうしかない」


「それと——熱が高い間、誰かが必ず家にいる必要があるわ。一人にはしておけない」


父さんが頷いた。

僕も頷いた。


でも頷いた後で、動けなかった。


(行かないといけない)

(でも僕が行って、何ができる)


テルナ町はここから徒歩で1週間くらいの距離だ。

往復で2週間。


2週間、誰かが行かなければならない。


「アーシャさんは行けないのですか」


アーシャさんが一拍おいた。

「ここ最近、村の周りで魔物の出没が増えています。

ヴァルドが指揮していて抜けられません。私も治療と防衛で手が離せない」


父さんは母さんから離れられない。

熱の間、誰かが家にいないといけない。それは父さんしかできない。


商隊は冬前の最後の便がもう先月に出たばかりで、次が来るのは春先だった。

街まで出れるくらいの動きができる人は、村にはヴァルドおじさんくらいしかいなかった。


「わかりました」


それだけ言うと僕はその場を離れた。

何が「わかった」のかは自分でもよくわからないままだった。


---


夜になった。


父さんは鍛冶場にいた。

火が赤かった。鎚を振っていた。

打つ音が規則正しく続いている。


止まらない手が今は父さんなりの何かなのだろう。

止めると何かを考えてしまう。考えると何もできなくなる。

だから止めない。

そんなことだったのだろう。


何を作っているのか僕には聞けなかった。

聞いても答えはなかったはずだ。

鎚の音だけが暗い庭の方まで届いていた。


僕は外に出た。


夜の空気は冷たい。秋が深まってきた、そう思った。

星が出ていた。雲は少なかった。

村の家々の灯りはほとんど消えていた。

夕食を終えて明日の朝のために寝る時間だった。


気づいたらセナの家の前に来ていた。

そこに行こうと思って歩いたわけではなかった。

足が止まらなかった。

家の中に1人でいるのも、父さんの鎚の音を聞いているのも、どちらも苦しかった。


戸を叩いた。


しばらくしてアーシャさんが出てきた。

「リク? こんな時間に」


「薬とか……自分で探せるものは、ないですか」


アーシャさんは黙ってから、


「無い。テルナ町に行かないと」


「……そうですか」


「リク」

「はい」

「一人で行くつもり?」


僕は答えられなかった。


一人で行くつもりだったかどうかは自分でもうまく言えない。

他に誰かいるかと考えたら思いつかなかった。


アーシャさんが何か言いかける。

でも僕は「ありがとうございます」と言って先に引き下がった。


その続きは聞かない方がいい。


家に戻ると父さんはまだ鍛冶場にいた。鎚の音が遠くで聞こえる。

母さんの部屋の扉はまだ閉まっていた。


僕は自分の部屋に入ってベッドに座る。


頭の中で候補を並べてみる。

父さんは家を離れられない。

アーシャさんは医師の仕事と防衛がある。

ヴァルドおじさんは村を守る仕事がある。

村の他の大人——大半は畑と冬支度で手いっぱい。


並べ終わると、残るのは1つだけだった。


僕。


行くか行かないか、ではなかった。

行かなければならない、はわかっていた。


ただ——どうやって行くかが、まだ整理できていなかった。


魔力ゼロで。

13歳で。

一人で。


3つを並べると1つの問題に見えなくもない。

でも分けて考えればそれぞれは別の問題だった。

魔力がないなら、魔物に出会わないように歩けばいい。

13歳なら、子供の足でも1日に歩ける距離はある。

一人なら、相談相手はいないが決断は早い。


そう並べてはみた。

ただ、頭で並べたものと体で動けるかは別だ。


窓の外で風が鳴っていた。


---


翌朝、セナが来た。


扉を開けたら立っていた。

寒そうな顔をしていた。鼻の頭が少し赤い。


僕の顔を見ると、間をおいて一言。


「私が行く」


はじめはセナが何を言っているのかわからなかった。

が、それが母さんの薬のことだとすぐに理解した。

昨晩のアーシャさんとの会話を聞いていたのかもしれない。


(——悩んでたんじゃない。固まってたんだ)


情けないとは思った。

昨夜、一晩かけて頭で並べたものを動かす力が自分の中になかった。

でも、セナの中にはそれがあった。そう気づいた。


セナが続ける。


「一緒に来て。リクも。荷物持ちでもなんでもいいから」


僕は——その瞬間に何かが動いた。

セナの「一緒に来て」が僕の中で固まっていた何かを解いた。


僕は少しの間、床を見た。


——昨夜、自分もこっちを向いていた。

行かなければならないとわかっていた。

どうやって行くかがわからなかっただけで。


セナに引っ張ってもらう形になるが、方向は同じだった。


顔を上げると、セナの目が少し赤みがかっていることに気づいた。

泣いた跡があった。


「……わかった、行く」


セナが少しほっとした顔をする。


(セナも怖かったんだ。1人で行くのが)


それがわかって少しだけ楽になる。

怖いのは自分だけじゃなかった。

それで何かが解決するわけではないが何かが軽くなった。


---


出発は次の朝にした。

街へ行くことを父さんへ伝えると、父さんは一瞬だけ仕事の手を止め、「そうか」とだけ呟き作業に戻った。


荷物を整えながら道順を頭に入れる。

テルナ町への道は村の長老に聞いてある。

「道沿いに真っ直ぐ東に歩けば1週間程度で着く」と言われた。

どこで水が取れるかも聞いた。

どこに野宿できる場所があるかも聞いた。

「人の通る道を選べ。獣道に入るな」とも言われた。


セナも同じように準備をしている。

食料、薬、着替え、お金。

2人で確認し合って何が足りないかを洗い出した。


「火打ち石」「ない」「もらってくる」

「水筒は2つ要るね」「うん」

「夜に冷えるから、もう1枚厚いの」「持っていく」


短いやり取りが続いた。


ヴァルドおじさんに魔物の出やすい区間を聞いた。


「東に出てから2日目あたり。森を通る所がある。そこは慎重に進め」

「わかりました」

「迷ったらその場で考えるな。村の方向を確かめてから動け」

「はい」


夕方には荷物が揃った。


---


出発の朝、父さんが荷物を確認した。


無言で一つ一つ見ていた。

紐の締め具合を直し、重さのバランスを調整する。

鍛冶場で鉄を確かめる手と同じ手の動きだった。

丁寧で迷いがなかった。


父さんは何も言わなかった。

「気をつけろ」とも「無理するな」とも言わなかった。


家を出る前に母さんの部屋に行く。


部屋は薄暗くて薬の匂いと布団の匂いがした。

窓の隙間から朝の光が細く入っている。

母さんが横になっていた。

熱がある顔だった。頬が赤くて額が湿っていた。

昨日より少しやつれて見えた。一晩で人は変わるものなのか。


母さんが目を開けて僕の方を見た。

何か言いたそうだった。でも声は出なかった。

口を開けかけて、閉じた。

代わりに手を伸ばしてきた。


僕の手を取った。

何も言わなかった。

ただ、握った。


熱い手だった。

少し力があった。

細くなった指の中に、まだ握る力が残っていた。

以前に気づいた「指の細さ」が握る力で打ち消されていた。

力はある。だから戻ってくる。そう思いたかった。


僕も何も言わずに握り返す。


やがて、母さんの手が緩んだ。

眠ったのだろう。

眠っていなくても、これで十分だ、ということなのだろう。


僕はそっと手を離して部屋を出る。

扉を閉める時、もう一度だけ振り返ると母さんは目を閉じていた。


家を出ると、ヴァルドおじさんが外に出てきていた。


一度、セナの肩に手を置き、僕とセナを見て頷いた。


何も言わなかった。

言わないことが、たぶん一番のはなむけだった。


村の道を、2人で歩き始めた。


朝の空気は冷たかった。

霧が低く出ていた。畑の向こうがぼんやりと白い。

畑の縁の柵も、家の屋根も、輪郭が溶けていた。


振り返らなかった。

振り返る理由がなかった。

振り返ったら、何かが崩れる気もした。


ただ前を向いて歩いた。


セナが隣にいた。

足音が2つ砂利の上に響いていた。

2人の歩幅はちょうど合っていた。

昨夜まで合わなかった歩幅が今朝は合っていた。

それが偶然なのか、互いに合わせているのかは、わからなかった。


霧の中を2人で歩いていった。

振り返るのは薬を持って戻ってきた時でいい。

それまでは、ただ前を向いて歩く。


——テルナ町に、何が待っているのかは知らないまま。



──────

第一章 了

〈第二章〉へ続く

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