第65話「担がれる名前」
朝の商人通りは昨日と同じ匂いで満ちていた。
塩と革と乾いた麦藁。
辻の灯籠では少年が灯を確かめて回っていた。
店を開ける際は灯籠が灯っている状態にしておくのが商人通りでの決まりらしい。
商会の前には荷馬車が二台。壁際に寄せたまま動かない。
御者は荷台に腰かけて空を見ていた。
「あの荷、昨日の夕方もあったよね」
セナが小声で言った。
「あった。縄の掛け方が同じだ」
マルセルは荷馬車の前で一度足を止めた。
それから何も言わずに敷居を跨いだ。
帳場は人の出入りだけが多かった。
使いの少年が床板を鳴らして走り、事務員から紙を受け取ってまた表へ走っていく。
戻ってくる足は速い。荷を担いで出ていく背中はもう見えない。
土間では人足が二人、荷の縄を締め直していた。
締める音だけが続いて、担ぐ音に変わらない。
秤の前には誰もいない。分銅は箱に収まったままだ。
帳場の柵の前では客が一人待たされている。
詫びる事務員の声が続けて聞こえた。
帳場の柵の内側でルカさんが立ったままペンを走らせている。
腰掛けは机の下に入ったままだ。
入り口の段の脇には紙が積まれていた。昨日はなかった山だ。
一番上の紙に「延べていただきたく」の一文が見えた。
二枚目にも似た文が透けている。
店先では客が一人、事務員に短く告げて荷を受け取らずに帰っていった。
僕はノートを開いて隅に線を引いた。
動かない荷馬車が二台。積まれた紙がひと山。
荷を受け取らずに帰った客が一人。
奥からもう一人の事務員が早足で出てきて、マルセルに頭を下げた。
「旦那様のお身内の方々が、奥でお待ちです。
その……マルセル様にご挨拶をしたいと、朝からお見えでして」
事務員の声は最後だけ低くなった。
「……俺にか」
「はい。若旦那様は帳場を離れられませんので、先にお通ししております」
マルセルが顎で奥を指した。僕はノートを閉じて後ろに続いた。
セナは段のところで足を止めた。
「私はここで待ってるね」
言いながらもう段の縁に腰を下ろしている。
つま先が床の上で小さく拍子を取っていた。
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奥の部屋の扉は開け放してあった。
飾り棚を背に、白髪交じりの男が座っている。
昨日「これはこれは」と寄ってきた男だ。
斜め後ろに年配の男がもう一人。
膝の前で手を重ねて、置物のように動かない。
末席にドルフがいた。
目が合うと顎を引いて視線を盆の上へ落とした。
昨日ノートに足した印は二つ。
その二人が、この部屋に並んでいた。
茶は三つとも手つかずで、湯気が消えていた。
煙草の匂いが壁に染みている。
盆の脇に煙管が置かれ、灰が一筋落ちていた。
「これはこれは。昨日はろくにご挨拶もできませんで」
白髪交じりの男が両手を膝に置いて頭を下げた。
「旦那様の従兄にあたる者です。マルセルさん、ご立派になられましたな」
男の目が剣の柄から顔へゆっくり上がった。
膝の上の手には指輪が二つ。飾り棚の漆と同じ艶で光っていた。
「昨日は遠目にも驚きましたぞ。旦那様の若い頃と瓜二つでしてな」
末席でドルフが深く頷いた。
マルセルは座らなかった。柱に背を預けて腕を組んだ。
「用件は」
「さあさあ、お座りになって——」
「用件は」
男の笑みは崩れなかった。
盆の脇の煙管を取り上げ、火を付けずに指の間で回して戻した。
「子どもの時分から帳場に立っておられた。古い取引先は今でもあなたの名を口にしますぞ。
六年も外で身を立てられた。看板に頼らず剣一本でです。それでこそ商人の子ですな」
褒め言葉が三つ並んだ。頼み事はまだ出てこない。
マルセルは答えなかった。
腕組みの指が二の腕に食い込んでいる。
「店をご覧になったでしょう。荷が動いておらん。旦那様が床に就かれて、方々が様子見に回っております」
男は冷めた茶を一口含んで、ゆっくり盆へ戻した。
急ぐ用のない飲み方だ。何度でも来る側の。
「単刀直入に申し上げますぞ。あなたが継ぐべきだ」
僕は扉の際に座っていた。
ノートは膝の上で閉じたままにした。
「若旦那はよくやっておられる。皆の認めるところです。ですが、看板は人を選びますでな」
「左様でございますなあ」
斜め後ろの男が初めて口を開いて、深く頷いた。
白髪交じりの男が話を引き取る。
「事務も古株も揃っております。マルセルさんは奥に座っておられるだけでよろしい。
要るのは、看板に据える名前ですのでな」
「俺は継がん。当主は弟だ」
マルセルの声に間はなかった。
腕も組んだままだ。
「ええ、ええ。そう仰ると思っておりました」
男は懐から手拭いを出して額を押さえた。
「無論、今すぐにという話ではございません。旦那様のお加減もございますでな。
ですがなマルセルさん。ご本人がどう仰るかはまた別の話です。
旗というのは、掲げる者の物なので」
はるか昔、同じような風景を見た。
本人のいない部屋を、本人の名前だけが回っていく。
「話は終わりだ」
マルセルが柱から背を離した。
「二度は言わせんな。俺は剣で食ってる。帳場に俺の席はねえ」
「ええ、ええ。今日のところはご挨拶まで」
男は腰を上げた。最後まで頭は低いままだった。
「ご滞在の間に、またゆっくり伺いますよ」
年配の男が続いて立つ。
ドルフは口を開きかけて、結局何も言わずに二人の後へついた。
出しなに一度だけこちらを見て、すぐ逸らした。
三人の足音が廊下を遠ざかっていく。
盆の上には冷めた茶が三つ、残されたままだった。
マルセルが舌打ちした。
「……うっせえ話だ」
それきり黙って帳場へ歩いた。歩幅がいつもより広かった。
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帳場に戻ると、ルカさんは事務員二人と紙の束をさばいている最中だった。
「兄さん。すみません、こちらが片づいたら伺います」
「いい。済んだ」
マルセルは短く言って土間へ下りた。
表に出て、動かない荷馬車の御者と立ち話を始めた。
「リクさん。申し訳ありません、昨日の続きは少し待っていただけますか」
「はい。ここで待ちます」
段の脇の山は朝より高くなっていた。
僕は段に腰を下ろした。目の前に山がある。
一番上の紙は期日が明後日だった。
二枚目は期日が来月で、相手先は一枚目と同じ。
三枚目は今日中に返事がいる文面だった。
(どうせ待つ時間だ)
右へ、期日の近い順。
真ん中へ、同じ相手先の束。
左へ、今日中に返事のいる分。
誰にも頼まれていないが、自然と手が動いた。
期日は右上に書いてある。相手先は宛名の下。読む場所は三つで足りた。
紙の擦れる音が続いた。インクの匂いが指先に移っていく。
セナが段の端から覗きこんで、すぐ戻っていった。
三つの山ができた。左の山は薄い。数えると七枚あった。
ルカさんが通りかかって足を止めた。
「……それは」
「並べただけです」
ルカさんは左の山を上から順にめくった。途中で指が止まった。
「この七枚は」
「今日中に返事がいる分です。上から取引の期日が近い順に重ねてあります」
ルカさんが山ごと持ち上げて中身に目を通す。
それから手の空いた事務員を呼んだ。
「これを上から。返事は口頭で構いません」
事務員が紙を抱えて表へ走った。
表で業者と話していたマルセルとすれ違う。
マルセルは一度こちらを見て会話に戻った。
戻り際、口元が短く緩んだ。
ルカさんもそれ以上は何も訊かなかった。
真ん中の山を相手先ごとに紐で括り、右の山をテーブルの端へ移す。
並びはそのままだった。
「リクさん。昨日のノートですが、数字を見せていただけますか」
「はい」
ノートを開いて差し出した。
ルカさんはページの上で指を滑らせて、二箇所に小さく印を打った。
「この二つは今日の値と入れ替わっています。あとで直しを入れましょう」
「わかりました」
ノートが手元に戻ってきた。
二人分のペンの音がしばらく続いた。
紙を運んできた若い事務員が、迷わず右の山の上に載せて戻っていった。
表へ出ていた事務員が戻ってきた。
「三軒まで回りました。どちら様も、承知と」
「残りもお願いします」
事務員がまた出ていく。柵の外の話し声が一つ減った。
ルカさんのペンが止まって、目が三つの山の上を渡った。
「父が床に就いて二十日になります」
「はい」
「取引の半分は父の顔で回っていました。数字に出ています。隠しても仕方ないですね」
束ねた紐の端を指先で揃え直した。
「父の穴は、私では埋まりません。……埋まらないなりに、回す順番はあります」
僕はその言い回しをノートの隅に写した。
インクが乾くまでページは開いたままにした。
ルカさんは束を抱えて立ち上がった。
「明後日の便に載せる分から片づけます。リクさん、続きをお願いできますか」
「はい」
分け方を先にノートの隅へ書いてから再開した。
昼を回る頃には左の山が空になった。
真ん中の束は事務員が二つ抱えて出た。
開いたままのノートは、いつの間にかセナの膝の上に移っていた。
柵の前で待つ客は、もういなかった。
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冬の陽が帳場の奥まで届く時分になった。
使いの少年の出入りは朝より間遠になっている。
柱の陰に金髪が見えた。昨日と同じ柱だ。
立つ位置だけが半歩ぶんこちらへ寄っている。
金髪の少女は昨日と変わらない形にリボンを結んでいた。
俯いたまま、目だけがときどきテーブルへ動く。
僕は気づかないふりで手元の紙を揃えた。
テーブルの上の置き場は、昼のまま三つに分かれている。
セナは段で僕のノートをめくっていた。
「ねえリク、この字ちっちゃすぎ。絶対誰も読めないじゃん」
「読めるよ。僕が」
「私は半分くらいしか読めないんだけど」
ルカさんがテーブルに戻ってきた。
僕は控えの束から二枚を抜いて並べた。
「ルカさん。支払いの日ですが」
「はい」
「この相手先は日取りの問い合わせが二度来ています。控えが二枚あります」
「ええ」
「決まった時点で先に紙にして渡してはどうでしょう。問い合わせが一度で済みます」
「……考えてみましょう。紙一枚で揉め事が一つ減るなら、安いものです」
ルカさんが控えの二枚を僕の方へ押し戻した。
「書き方はお任せします。明日、試しに二枚書いてみてください」
「わかりました」
柱の陰が動いた。
窓の光が床板に四角く落ちていた。
少女の爪先がその縁を踏んで、一度止まった。
少女は柱を離れて、テーブルの端まで来ていた。
足音のない歩き方だった。
紙の並びをじっと見ている。
期日の山。相手先の束。返事待ちの控え。
目が右から左へ、三度往復した。
一番長く止まったのは、さっきの二枚の控えの上だった。
細い指がテーブルの縁に掛かった。
指先が机を二度鳴らした。
本人は気づいていないようだった。
目は紙の並びから離れない。
三度目は鳴らなかった。
僕は手を止めなかった。次の紙を右の山へ置く。
段にいたセナが動いた。
少女の隣まで来て、同じ高さに屈む。
「その並び、気になる?」
少女の肩が小さく跳ねた。
逃げるかと思ったが、少女は逃げなかった。
一拍おいて、首が縦に動いた。
セナが僕のノートを開いたまま持ち上げて、ページの端を少女へ傾けた。
開いているのは、山の分け方を書いたページだ。
「これ、種明かし。
今日中に返事がいる分。期日の近い順。同じ相手はひとまとめ。
先に決めごとを書いてから、手を動かすんだよ」
少女の目がノートの上をゆっくり往復した。
それから、紙の山の前の僕へ動いた。
僕は気づかないふりで次の紙を置いた。
視線は紙の上に戻らなかった。しばらく僕の手元にあった。
セナがページを一枚めくって、続きを見せる。
「私はセナ。これを書いてるのはリク。あっちで紙を並べてるやつ」
セナが指で僕を差した。
少女の目がもう一度、僕とノートを往復した。
「名前、聞いてもいい?」
間があった。
リボンの端が揺れて、止まった。
「……クリス」
声は小さかった。でも確かに聞こえた。
クリスはそれだけ言うと口を結んだ。
「クリス。覚えた」
セナはそれ以上聞かなかった。
ページに目を戻して、字の続きを指でなぞる。
クリスの目はノートと僕の手元を行き来していた。
日が傾く前に、ルカさんが表まで見送りに出た。
「リクさん。明日は荷の件でご相談があります」
「はい。伺います」
ルカさんの背中の陰に金髪が半分だけ覗いていた。
クリスだ。柱からここまでついて来ている。
目はマルセルと僕をゆっくり順に見ていた。
「兄さんも、また」
「おう」
マルセルは荷馬車の脇から短く手を上げた。
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宿の一階は飯の湯気で暖かかった。
戸を開けると広間でエマとユル杯を交わしていた。
僕たちに気づくとエマが鍋の蓋を持ち上げた。
「残しといたよ」
「すみません。いただきます」
ユルが椅子を三つ引き寄せた。
「まずは座りましょう。三人とも顔が硬いですよ」
壁際には行商の背負い籠が空になって重ねてあった。
「行商、もう戻ったんですね」
「南の村を二日で回ってきました。冬は皆、買う物が決まっていて早いんですよ」
マルセルが剣を壁に立てかけた。鞘の先が床で小さく鳴った。
無言で腰を下ろす。セナが隣に座り、僕は向かいに回った。
皿に湯気が立つ。豆と塩肉の煮込みだ。
エマが皿を三つ並べて、木杓子で煮込みを注いだ。
ユルが匙で鍋を指した。
「市で豆が安かったんですよ。当たりだと思うんですけどね」
「当たりだよ」
エマが鍋敷きを卓の真ん中に滑らせた。セナはもう二口目だった。
僕は食べる前にノートを開いた。
昼に写した言い回しの行を目でなぞる。
インクはもう乾いていた。
ノートを閉じると、マルセルがこちらを見ていた。
「今日の帳場。ガキにしてはよくやったな」
「仕事です。顔繋ぎでしょう」
マルセルの鼻から短く息が抜けた。
セナが噴き出しかけて、匙を咥えたまま肩を揺らした。
「何それ。リク、絶対わざと言ってるよね」
「事実を言っただけだよ」
ユルが「顔繋ぎねえ」と繰り返して、また肩を揺らした。
「……うっせえな」
マルセルの声は低かったが、匙は止まらなかった。
セナが店の大きさをエマに話し始めた。
両手の間がだんだん広がっていく。
「倉が三つあるんだよ。うちの宿が丸ごと入るって、絶対」
「入らないでしょ」
「入るって」
エマが鍋の底を掬って、マルセルの皿に足した。
「明日も行くんでしょ。食べときな」
マルセルは何も言わずに匙を動かした。
外はもう暗い。窓の桟が風で小さく鳴った。
エマが蝋燭の芯を切って、灯りが一つ分明るくなった。
セナがパンを割って、片方を僕の皿に置いた。
「明日も数字なんでしょ。ちゃんと食べなよ」
「はい。いただきます」
パンはまだ温かい。
湯気が卓の真ん中に立っていた。
三つの匙が動いて、鍋が軽くなっていく。
僕はノートを膝の上でもう一度開いた。
朝に書きつけた行の下に、「またゆっくり」と言った男の声を一行だけ足した。
次の朝も、ここへ戻ってくる。




