第64話「ジョゼ商会」
朝の商人通りは荷の匂いで満ちていた。
塩と革と乾いた麦藁が一度に香ってくる。
通りの入り口を過ぎたのはつい先刻だ。
道幅は馬車が三台並ぶほどある。
倉の前では木箱が積み替えられ、荷車の軸が軋んでいた。
奉公人の声が通りの端まで飛ぶ。
店ごとの軒先で戸板が外され、打ち水が石畳を黒く濡らしていく。
向かいの店では、少年が暖簾を掛け直していた。
冬の空気のどこかに竈の火の匂いが混ざっている。
通りの入り口で荷馬車を二台やり過ごす。
御者が眠そうに手綱を握っている。
荷の脇では商人らしき男が二人、峠の話をしていた。
山向こうの連邦へ出す荷は、峠が閉じる前に押し込むらしい。
マルセルが先頭を歩く。僕とセナは半歩後ろに続いた。
腰には剣を携えている。商人の通りで剣は浮く。
すれ違った男が腰の剣を二度見していった。
それでもマルセルは外さない。
『ジョゼ商会』の看板が見えてきた。
軒灯はもう消えている。
朝の光が漆を照らし、字をまっすぐ読ませていた。
間口は並びの店の倍ある。
裏に倉が三つは続いているのが屋根の高さで分かった。
「大きい店だね」
セナが小声で言う。マルセルは前を向いたまま答えなかった。
看板の一本手前に角がある。
この前はあそこで裏の道へ折れた。
今日は折れない。
マルセルの足が角を過ぎた。足取りは速くない。
石畳の目地を一つずつ確かめるような歩みだった。
ここまでの歩幅が一定で、角を過ぎてから少しずつ狭くなっている。
去年の冬を思い出す。
あの時は早くこの通りを抜けたがっていた。
敷居の前で足が一拍止まる。
店の中から算盤の音がした。人の声。紙をめくる音。
セナが横に並ぶ。急かさない。僕も待った。
算盤の音は途切れずに続いている。
中の誰もまだ気づいていない。
マルセルは看板を一度見上げて、それから息を吐いた。
「行くぞ」
「はい」
「うん」
マルセルの踵が敷居を越えた。
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店の中の空気は外より濃かった。
インクと紙の匂いへ倉から届く麻と油の匂いが重なっている。
土間は広く、低い段の向こうに帳場が見えた。
台帳が積まれ、算盤が三つ並んで動いている。
壁際には俵と木箱が高さを揃えて積まれていた。
荷札の字はどれも同じ癖で書かれている。
手前の男がこちらへ顔を上げた。
いらっしゃいませの形に口が開く。
が、声は出なかった。
算盤の音が一つ止まる。隣も止まった。
紙をめくる音が消える。
店の音がいっとき途切れた。
帳場の柵の内側で金箱の蓋を閉める音がした。
最初に動いたのは一番奥に座っていた支配人らしき男。
立ち上がると、帳場を回って土間へ降りてくる。
「……若!」
その一言でざわめきが戻った。さっきより大きい。
奉公人たちは手を止めないまま、目だけを動かしている。
倉の入り口からは顔が二つ覗いた。
年寄りの事務が一人、腰を浮かせかけて座り直す。
口の中で何か言っていた。
若い奉公人が隣の年嵩に何か訊いて、短く首を振られている。
訊かれた方は手を止めない。目だけが二度こちらへ来た。
僕は視線を数えた。
目は二種類に分かれる。
昔を知っている目は口元がゆるむ。
知らない目は上から下まで測っていく。
腰の剣で止まる目もあった。
頭の中のノートに印を付けていく。
懐かしむ目が四。値踏みする目が六。
どちらでもない目が帳場の奥に三つ。
合わせて十三。倉の中までは数えられない。
セナが数えている僕の横顔をちらりと見て、それから素知らぬ顔で店の天井を見上げた。
駆け寄ってきた男はマルセルの前で腰を低くした。
禿げ上がった額に汗が浮いている。
「ようこそお越しくださいました。旦那様……いえ」
言い直しの間に値踏みする目が一つ増えた。
「当主がお待ちです。奥へどうぞ」
低い段で靴の泥を落とす。
マルセルの落とし方は早かった。体が覚えている速さだ。
奥へ続く廊下は長い。
すれ違う奉公人が壁際へ寄って頭を下げる。
下げながら目はマルセルを追っていた。
廊下を渡る時、男が一人、裏口から駆け出していくのが見えた。
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奥の部屋は静かだった。帳場の音が戸一枚で遠くなる。
テーブルには台帳と書状が几帳面に積まれ、部屋の隅で火鉢が小さく鳴っていた。
飾りはない。壁の棚に台帳の背が年の順に並んでいる。
当主と呼ばれた男はテーブルの前に座っていた。
茶色の髪を肩の上で切り揃えている。目は穏やかな茶色だ。
立ち上がり、僕らを順に見て頭を下げた。
「お待ちしておりました。ジョゼ商会当主のルカと申します」
僕とセナも頭を下げる。
「リクです。ギルドの添え状を預かってきました。顔繋ぎも兼ねています」
「セナです」
「朝早くにありがとうございます。どうぞお楽に」
マルセルは戸口に近い側に座った。
剣を外して右脇に置く。鞘が床で小さく鳴った。
見習いが茶を四つ置いて下がった。湯気が細く立つ。
湯呑みの底が指に重い。
セナが両手で湯呑みを包んで一口飲んだ。
小さく息を吐く音がした。
ルカさんの目が僕の手元のノートで一瞬止まり、すぐ離れた。
書状を手に取り、一番上の一枚を指でなぞった。
「添え状は拝見しました。護衛と行商の口をお探しですね」
「はい」
「では、後で数字を見せていただけますか。街道ごとの相場を知りたいので」
商人の声だ。姿勢も口調も崩れていない。
「冬は荷が減ると聞きました。それでも護衛の口はありますか」
「あります。荷が減る分、隊商が纏まって大きくなるので」
「なるほど」
ルカさんが指で宙に小さく何かを書いた。数字の形だ。
その間、マルセルはまだ何も口にしなかった。茶にも手を付けていない。
兄弟は互いを見ていない。
ルカさんは書状を、マルセルは床の木目を見ている。
火鉢の炭が一度爆ぜた。
ルカさんの指が書状の上で止まった。
「……兄さん。僕は——」
言葉が途切れた。
指が書状の端を揃え直す。
短い間があって、顔が上がった。
「——いえ。当主として申し上げます。よくお戻りくださいました」
「よう」
それだけだった。
ルカさんの肩がわずかに下がった。
瞬きを一つして、それから小さく息を吐いた。
「父は離れで休んでいます。命に別状はありません。医者は過労だと言っています」
マルセルの目が初めてルカさんへまっすぐ向いた。
「倒れたのはいつだ」
「二十日ほど前です。倉の検めを三晩続けた後でした」
「変わらねえな。お前に当主を譲ったのにまだ現場に出てんのか」
「ええ。変わりません」
マルセルの顎が浅く動いた。頷きとも呼べない動きだった。
「寝てるのか」
「熱は昨日下がりました。今は眠らせています。明日には起きて怒るでしょう」
言いながら指はまた書状の端を揃えていた。
「起きても寝かせとけ」
「それは兄さんから言ってください」
マルセルは答えず、湯呑みへ目を落とした。
肩から力が抜けるのが横から見えた。半分だけ。
湯気の向こうでルカさんが茶碗を少し押し出した。
「急がなくても大丈夫ですよ」
手紙と同じルカさんの言葉。
それを聞いたマルセルは顔を上げた。
「その言い方はやめろ」
「……何がですか」
「急げって書け。次からは」
ルカさんの指が書状の端から離れた。
「仕方ないですね」
口の端が少しだけ動く。笑ったのかどうかは分からなかった。
「兄さんは字が汚いので、こちらの手紙ばかり丁寧になるんです」
「うっせえな」
火鉢の炭がもう一度爆ぜた。
マルセルが茶を取って、一口で半分飲んだ。
ルカさんは自分の茶碗に口を付けない。
湯気だけが細くなっていった。
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戸が開くと、廊下の冬の光が床板の際まで伸びた。
ルカさんが先に立つ。
帳場へ戻る廊下は中庭に面していて、白い光が床板を照らしている。
柱の影が等間隔に落ちていた。木の匂いがする。
磨かれた床が足の下で小さく鳴った。
ルカさんの足だけが先に緩んだ。
その先の柱の陰に女の子がいた。
明るい金髪をリボンで一つに結んでいる。
柱から半分だけ体を出して、俯き気味に立っていた。
背はセナの肩に届かない。両手は柱の縁に掛かっている。
爪先は廊下の奥を向いたまま、顔だけがこちらへ傾いていた。
目だけが上がっている。マルセルを見ていた。
マルセルの足が止まった。
誰も何も言わない間が先に来た。
「……クリス」
クリスと呼ばれた少女は柱の陰からは出てこなかった。
縁を掴む指に力が入るのが見える。
ルカさんが半歩下がって静かに言った。
「兄さんが出た時、あの子は五つでしたから」
「……デカくなったな」
それきり続きは出てこない。
マルセルが半歩だけ近づいた。
少女の肩が動く。同じだけ下がった。
それでも去らない。
柱の後ろには上へ続く階段があるのに、そちらへは行かなかった。
口が動いた。
開いて、閉じた。声は出てこない。
マルセルも何か言いかけて、喉の奥で止めた。
廊下の光の中を埃がゆっくり回っている。
中庭で野鳥の鳴き声が響く。
二人の間の床に光の帯が一本まっすぐ伸びていた。
ルカさんは何も言わずに待っている。急かす様子もない。
少女の青い目が動いた。
セナを見て、僕を見て、また兄へ戻る。往復は一度きりだった。
兄妹の間の板目が灯りに白く延びている。
ルカさんが歩き出した。
「帳場へ戻りましょう」
マルセルが続く。角を曲がる前に一度だけ振り返った。
金髪の少女はまだ柱の陰にいた。
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午後は帳場の隅で過ごした。
「これが冬場の相場です。護衛は頭数と日数で変わります」
「拝見します」
ルカさんは指で行をなぞりながら三度頷いた。
質問は細かい。日数、頭数、季節の割り増し。
訊く順に無駄がない。
「この行だけ、冬の割り増しが低いですね」
「東の橋の道です。冬は川が凍って、渡し賃が浮くので」
「……道で変わるんですね。うちの台帳は季節でしか分けていません」
「この数字、後で写させてください」
「どうぞ」
ルカさんは写しを自分の手で取った。支配人には任せていない。
途中で見習いが茶を替えに来て、遠目にノートを覗いていた。
セナは事務員について倉を見て回っていた。戻ってきてから小声で言う。
「倉、広かったよ。あれ絶対迷うよ」
袖に藁くずを付けたまま笑っている。
マルセルがそれを見て鼻で笑い、セナが払い落とした。
マルセルは支配人を相手に街道と護衛料の話をしていた。
声は帳場の誰よりも大きい。
支配人は相槌を打ちながら、時々視線を奥へ送っていた。
夕方になると帳場は硬貨の音になった。
算盤が朝より速く鳴り、銅貨の音が重なる。
西日が低く差し込んで土間に長い影を作っていた。
帰り支度をしていると、支配人が奥へ寄って誰かに耳打ちするのが見えた。
すぐに足音が二つ来た。
先に立つのは仕立てのいい上着の男。
白髪交じりで、目は値踏みの側だ。
「これはこれは……」
白髪交じりの男が揉み手の形で近づいてくる。
目がマルセルの腰の剣で一度止まり、顔へ戻った。
言葉はそこで続かず、男は深く礼をした。深すぎる礼だった。
マルセルは礼を返さない。顎を引いただけだ。
その後ろから恰幅のいい体が覗く。その顔には見覚えがあった。
去年の秋、この街に来た時にマルセルに声をかけてきた男だ。
確か、名をドルフと名乗っていた。
「マルセルじゃないか。いやあ、見違えたなあ」
「どうも」
「弟さんは立派にやっとるよ。うん、店は安泰だ」
「そうか」
マルセルの返事は固い。
ドルフは構わず二、三度頷いて、白髪交じりの男と目を見交わした。
僕はノートの隅に印を二つ足した。どちらも値踏みの列だった。
ルカさんが帳場の奥から出てきて、二人の前へ立った。
「お客様のお帰りです」
丁寧な声だ。二人はそれ以上近寄らなかった。
二人が下がっていくと、帳場の算盤の音が次第に戻った。
「リクさん。また明日、数字の続きをお願いします」
「はい。また明日」
マルセルが先に敷居へ向かった。
「お前ら、行くぞ」
セナが続き、僕が最後になる。
ルカさんは敷居の内側までついてきた。
外の通りは店じまいの声で騒がしくなっていた。
店の壁際には荷馬車が二台、縄を掛けたまま停まっている。
敷居をまたぎながら、一度だけ振り返った。
帳場の高さに大人の目が並んでいる。
懐かしむ目と値踏みする目が、まだ混ざったままだ。
その手前、廊下の角の柱に低い目が一つあった。
金髪が半分だけ覗いて、リボンの端が夕方の光に揺れていた。
店の中のざわめきはまだ収まっていない。




