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第63話「二通の手紙」

朝の練武場で剣を振る。


ゼフと呼ばれた男の剣の型をなぞる。

吐く息が白い。振り下ろすたび、木剣の先で白いのが千切れて消えた。


セナは隣で足運びを流している。板を踏む音が軽い。

汗が冷えないうちに切り上げてギルドへ回る。いつもの流れだ。


型を三十回ほど繰り返しなぞってから、ギルドへ向かう。


巡回の依頼は七日ごとだ。次まで五日ある。

それでもギルドには寄る。

掲示板の紙は朝のうちに入れ替わるからだ。


通りの水たまりに薄い氷が張っていた。

荷車の輪がそれを割っていく。割れる音が乾いていた。

朝の通りはまだ人が少ない。パン屋の窯の匂いだけが先に働いている。


ギルドの扉を押すと、今度は紙と墨の匂いになった。

受付の並びはまばらだ。


窓口はミラさんだ。きっちり結い上げた髪。伸びた背筋。

判はいつもどおり台の角にある。台の角だけ木の色が薄い。


今日は並ぶ用がない。掲示板を見るだけのつもりだ。

新しい紙は少なく、護衛と採取の貼り紙を目で流した。


掲示板の隅では、日に焼けて色の抜けた紙が一枚だけ今日も残っている。

旧坑の魔石買取と入域札の知らせだ。

いい紙は朝のうちに消えるのに、その紙だけは誰も剥がさず取らない。


「リクさん」


声に振り向くとミラさんが受付に座っていた。

ミラさんが綴りの間から畳んだ紙を抜いて、台の上に置いた。

四つ折りで角がひとつ潰れている。長い道を来た角だ。


「手紙のお預かりです。マルセルさん宛。気付の預かりご本人か同じ組の方へお渡しできます」


表書きにはテルナ支部気付の宛名があった。

その脇に一行、字が書き足されている。


『クレウス支部・ミラ気付へ』


丸みのある字だった。父さんの角張った字とは違う。

これはルナ叔母さんの字だ。


「テルナから回送されています。受領の印をこちらへ」


控えに名前を書くと、ミラさんは綴りを閉じて次の書類へ目を落とした。

セナが横から表書きを覗いた。つま先が浮いている。


「マルセル宛。誰から?」

「差出人は見てない。僕らが勝手に見るものでもないから」


それだけ言って封を布袋へ入れた。

セナもそれ以上は訊かなかった。


袋の口を一度だけ確かめた。

紙は薄い。重さはほとんどなかった。


---


昼前に宿へ戻ると、マルセルは表の日だまりにいた。


腰掛けに座って、革の胴当ての紐を替えている。

古い紐は膝の上に丸めてあった。


紐の先を穴に通して、引いて、締める。

同じ動きが続いていた。革と油の匂いが薄くにおう。


「ギルドで預かりました。マルセル宛です」


袋から手紙を出して両手で差し出した。

マルセルは紐を置いて受け取り、表書きに目を落とす。


そこでマルセルの手が止まった。

息をふたつ数えるくらいの間。

日だまりの中で折り目だけが細い影を作っていた。


指の腹がその上を一度だけ動いた。

紙は開かれないまま懐へ入った。


「……先に食っとけ」


立ち上がって通りへ出ていく。

歩幅は普段のまま、角で背中が消えた。

腰掛けには替えかけの紐が残っていた。


広間ではエマが竈の前にいた。

火を見ている。何も言わずに薪をひとつ足す。


ユルが汁の椀を並べていく。根菜の匂いが立った。

五つの椀が並んだうち、ひとつは手つかずのまま冷めた。


セナが匙を止めて戸口を見た。

昼食が終わっても、誰も冷めた椀を下げなかった。


午後の広間は静まっていた。


セナは中庭で剣を振っていて、数はいつもより多かった。

ユルの繕い物の針は時々止まった。

エマは磨き終えた鍋をもう一度磨いていた。

表で足音が過ぎるたび、その手が止まった。


マルセルは夕方まで戻らなかった。


---


夜の広間は竈の火が落ちて、灯りがひとつだけ残っている。

油の匂いが薄く漂い、卓の木目が灯りの下で濃く見えた。


五人の影が壁で重なっていた。

マルセルは夕方に戻って、飯は普段どおりに食べた。

文句も普段どおりだった。


皿を下げた後、マルセルは僕たちに声をかけ、懐の手紙を出して卓の真ん中に置いた。

紙は畳んだままで、折り目が木目とまっすぐ揃っている。

しばらくの沈黙のあと、マルセルが話し始めた。


「……家の話だ」


低い声だった。聞き返す者はいない。

エマが杯を置き、ユルが背筋を伸ばし、セナが座り直した。

椅子の脚が床を短く鳴らす。


外で夜風が戸を撫でている。通りの音はもうない。


「俺の実家はジョゼ商会っていう商家だ。商人通りの看板の店」


軒灯の下の漆の看板。字がまっすぐ読めた店。

商人通りを歩けば嫌でも目に入った。


「親父の代でデカくした店だ。俺は長男で六年前に家を出た。

 今は弟のルカってのが当主をやってる。帳場は俺より弟の方が回る」


言い切るとマルセルは杯を取った。


「妹もいる。クリスってんだ。俺が出た時はまだちっこかった」


手の中で杯が半回りした。

セナが口を開きかけて閉じた。膝の上で手をこすっている。

僕は胸元のノートに手を伸ばしかけて、やめた。書く話じゃない。


「で、これだ」


指の背で紙を叩いた。乾いた音がした。


「親父が倒れた。命に別状はねえ。医者は働きすぎだと言ってるらしい。

 ただ商会が揺れてる。長男を呼び戻せって言ってる連中がいるんだとよ」


誰も口を挟まなかった。


「一通目はテルナに届いた。二通目がこれだ。

 ルカは俺が街を移ったのを知らねえ。ずっとテルナ宛に出してやがる」


二通目、のところで指の先が紙の端に触れた。

マルセルが表書きの一行に目を落とした。


「……ルナさんにも手間をかけた」


短く言ってそれきり紙に目を戻した。

書き足しの一行だけ墨の色が新しかった。

(だからルナ叔母さんの字で送られてきたんだ)


「一通目って、いつ?」


セナが卓に少し身を乗り出して聞く。


「テルナを出る少し前だ。お前らが西への依頼を受けている頃」


マルセルが杯をひと口飲んで卓に置いた。

低い音が広間を巡る。すぐには続きを言わなかった。


「二通とも締めの文が同じでな。『急がなくても大丈夫ですよ』って。あいつの口癖だ」


紙は畳まれたままだ。指が折り目の手前で止まっている。


「こいつが『急がなくても大丈夫』って書く時はな、大丈夫じゃねえんだ」


竈の熾きが小さく崩れた。

灯りの芯が一度だけ鳴った。


「六年、ですか」


ユルが静かに言った。膝の上で手が揃っている。

エマは杯を回した。ゆっくり、同じ速さで回している。

セナは握った手を膝に置いたまま動かさなかった。


紙は卓の真ん中に置かれたままだ。


マルセルが椅子の背にもたれかかると、木の軋む音がした。

話は短かった。六年分にしては。


「明後日の朝、行ってくる。一週間もかからねえ」

「私も行く」


マルセルの言葉にセナが反応する。

椅子から腰が半分浮いている。


「なんでお前が来るんだよ。話聞いてただろう。俺の家の話だ」

「聞いてたよ。聞いた上で言ってんの」


マルセルの眉が寄った。セナは目を逸らさない。

灯りがふたりの間で揺れた。


「……だから――」

「リク、段取り」


何かを言いかけたマルセルをセナが遮った。……僕にも飛び火してきた。

その目は『絶対』と言っている。この目の時のセナは止まらない。


僕は心の中でため息をつき、頭の中の段取りを整理する。

少し間をおいてからユルの方を向き口にする。


「エマとユルは受けかけの依頼がありますよね」

「はい。明後日から南の村への行商で数日空けます」


ユルの返答に頷き僕は話を続ける。


「そう。明後日から外に出ます、ふたりは」


僕の『ふたり』という言葉にマルセルが反応した。

マルセルの口が開きかけるのを見て、僕は先に続けた。


「クレウスで顔を売るためにも、エマとユルには出てもらう必要がある。

 でも、僕らの指名は七日ごと。次まで五日空きます」

「お前、まさか」

「はい。家にはセナと、僕も行きます」


マルセルが口を開きかけた。僕は先に言う。


「一人で戻れば、家の中のことでしかありません。

 話を聞く限り、向こうにはマルセルを家の人間に戻したい連中がいる。

 無理にでも家に留めようとしてくるかもしれない。

 でも、僕たちがいれば冒険者マルセルのまま話ができます」


マルセルは口を結んだまま、すぐには言い返さなかった。

僕はその間をひと呼吸だけ待って、言葉を継いだ。


「あと、容体も商会の帳簿も冷静に聞ける相手がいた方がいい」

「……理屈こねやがって」


マルセルは目を逸らして杯をあおる。

杯を空けると椅子に背を預けた。


「ガキが気に病むことじゃねえ。俺一人で片づく」

「そうかもしれません」


僕は一度、言葉を切った。


「でも、家の話を全部してくれましたよね。一人で片づけるだけならそこまで話さなくていい」


マルセルの手が止まった。


「話したってことは、仲間に頼りたいと思った部分があるんじゃないですか」


「……勝手に決めんな」

「決めてません。読んだだけです」


僕はそう返した。

マルセルは横を向いて鼻を鳴らした。


セナが杯を置いて言った。


「私も思った。マルセル、そういうとこ素直じゃないよね」

「うっせえな」

「ほら、声が大きい。隠すの下手」


エマが口の端で笑った。

ユルもつられて笑いながら小さく頷く。


「まあまあ。私は賛成ですよ。受けかけの分は私とエマでも回せる」


指を折って数えて自分で頷いた。


「留守の間はこっちで回しとく。気張んな」


それだけ言うとエマは杯をひと口飲んで置いた。

言い方は軽かった。


マルセルは少し沈黙し、それから灯りの方へ顔を戻した。

杯の残りを空けて卓へ置く。

僕を見て、セナを見た。長い息がひとつ出た。


「……ガキどもが」


低いままの声だった。


「なら仕事だ。顔繋ぎだよ。商会に冒険者の口を売り込む。そういう体でついてこい」

「はい」


短く返した。理由はさっき全部言い終えている。


「明日も早い。今日のうちに休んどけ」


セナの腰が椅子に戻った。卓の下で足を揺らしている。


「三人で、だね」

「物見遊山じゃねえんだ」


言いながら、マルセルが紙を取って懐へ入れた。

今度は指が折り目に触れなかった。


---


夜明けの練武場は今朝も木剣の音で埋まっている。


戸口で吐いた息がまだ白い。

冷えた空気に汗の匂いが混じっている。


奥の床でレオが素振りをしている。

拍は変わらない。ナギはその横にいた。


「おはよう。今朝は早いね」

「ナギ。しばらく来れなくなりそうだから」


ナギは素振りに戻りながら聞いた。


「ほう、遠出の依頼かい?」

「いや。……マルセルの家の話で」


振り下ろしが半拍だけ遅れた。

木剣が止まった位置からそのまま下りる。

ナギの指が帽子のつばに軽く触れた。


「……そうか」


目が一瞬だけ東へ動いて戻った。


レオは止まらなかった。

拍を崩さず木剣が鳴っている。

床を踏む音も揺れない。


「いつから?」

「明日の朝から。一週間はかからないと思う」

「そうかい」


ナギは木剣を振り直した。


「なら今日は濃くやろうか。キミの受けはまだ癖が残ってるからね」


セナが手の甲で額を拭った。


「私は?」

「キミは足だね。三歩目が浮くんだよ」

「うわ、細かい」


型を三十回。受けを二十本。二十本目で腕が重くなった。

癖の出た受けは、その場でもう一本足された。

ナギの木剣は最後まで速さを変えなかった。


汗が冷える頃に稽古は終わった。

手の皮がひりついた。


別れ際にナギが一度だけ言った。


「戻ったら声をかけておくれよ。ボクは朝はだいたいここにいるから」

「うん。必ず」


ナギは帽子のつばを直して、レオの方へ戻っていった。


---


夕方の広間で、ノートを広げた。


窓の光が床の上で細くなっていく。

通りの音も引いていった。


明日の道順を書いておく。

商人通りの入り口。ジョゼ商会の看板。

宿からはそう遠くないから荷は要らない。


ノートの横にはギルドからの添え状。

マルセルのCランクと沼地の指名依頼を実績に、ミラさんに書いてもらった。

ミラさんは「来て早々の方に添え状を書くのは、なかなかありません」と言っていた。


セナは窓際に立っていた。

明日の段取りを口の中で並べている。

数えるように指を一本ずつ折っていく。


別の卓でエマとユルが受けかけの依頼の紙を挟んで、低い声で割り振りを言い合っている。

紙をめくる音が時々混じった。


土間近くの棚にはマルセルの革袋が置いてあった。

片手で提げられる大きさで、口はもう締めてある。


壁には剣が掛かったままになっている。

鍔の位置まで、いつもの掛かり方のままだ。

マルセルはその前に立っていた。


「剣、持っていくんですか」


マルセルはすぐには答えなかった。

土間の灯りが揺れて、壁の影も揺れた。

剣の影が一番長かった。


「……商人は丸腰だ。冒険者は丸腰じゃねえ」


それだけ言って、剣の前に立ったままだ。


鞘の金具が灯りを鈍く返している。

柄の革は手の形に黒ずんでいた。


セナが僕の隣で足を止めた。

手を軽く握って、また開いた。


土間の冷えが足の裏から上がってくる。

広間の話し声はいつの間にかやんでいた。


出発は明日の朝だ。


マルセルの背中はまだ剣の前にあった。

動く気配は、まだなかった。

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