閑話⑤「緩めた弦」
夕方の酒場は半分の入りだった。
炉に火が入って、給仕の兄ちゃんが盆を高く持って卓の間を回ってる。
混む前の店の歩き方だね。今日はどこの卓も声が一段高い。新しい話の種がある晩の声だ。
耳に入る切れ端に「黒っぽいの」だの「霧場」だのが混じってる。出所は考えるまでもない。
奥の四人掛けに私とユルの二人。
向かいの席は空いたままで、椀も杯も出てない。
マルセルは日暮れ前に出て行った。今夜もだ。
上着だけ引っ掛けて荷は置いたまま。
行き先は聞いてないし聞くつもりもない。
ユルは卓の上で薬草の小袋の口を結び直している。
細い指がよく動く。結び目を見ないで結べる手だ。
ああいう手は夜中の治療で慌てない。
壁際に常連の固まった卓があって、声の高いのは大体あそこだ。
床板を重く鳴らして足音が寄ってきた。
掲示板の前で一度、うちの組に絡んできた大柄だ。
「あんたらんとこの、あの黒っぽいガキ。指名を取ったって?」
「ほう。耳が早いじゃないか」
「一晩で回ったぞ。Cランクの兄さんはどうした」
「野暮用だよ」
男は返事も待たずに空いた椅子へ腰を下ろした。座り方に遠慮がない。
この店の床は自分の庭ってわけだ。元の卓の連中がこっちを窺ってる。
聞き役を寄越したってわけだね。
「東の霧場で商隊を丸一日止めて、霧の晴れる刻限をぴたりと当てたって話だ」
「違うね。止めたのは数刻だよ」
「崩れた橋の穴を板一枚で、目を瞑って渡ったとも聞いたが」
「目は開けてたね」
面白がっているのを隠す気もなく、私は杯を傾けた。
中身はもう半分もない。それでも傾ける。話の接ぎ穂に、動く手が要る。
「宴の翌朝に一人だけ顔色が良かったって話もある。寝るだけで丸二日分動ける体だとか」
「寝るのが上手いんだよ、あれは」
「穴の底の魔物を目だけで黙らせたって話は」
「初耳だね。もう勝手に増えてるじゃないか」
男が笑った。杯を持つ手が大きい。
指の付け根に古い豆が並んでる。斧か槌の手だ。
「いくつだ、あのガキ」
「本人に聞きな」
私は杯を傾けた。噂ってのは矢に似てる。
放った手を離れたら、あとは風向き次第で勝手に伸びて、落ちる頃には別物だ。
半分は本当ってところが質の悪いところでね。
面白いから直さないでおくけどさ。
この男、前に会った時は値踏みの目だった。
プレートを見て鼻を鳴らして、それで帰った。
今日は聞きたがる目をしてる。依頼書一枚でこうも違うもんかね。
---
「で、実際どうなんだ。そのガキは」
男が身を乗り出した。卓に置いた肘へ重さが乗る。
私は指を折った。
「依頼の前に毎回調べる。地図と水場と、前に同じ道を歩いた奴の話までだ。
歩いた道は必ず書く。宿に戻ったその日のうちにだよ。荷の紐は毎晩結び直す」
折った指が、もう片方の手に移った。
矢筒の底を探る時みたいに、まだ数えるものが残っている。
「几帳面なガキってだけだろう」
「道具の手入れと同じ顔で、自分の休みまで手入れするんだよ。
寝る時間と食う時間まで計算してる。……普通じゃないよ、ありゃ」
「聞いてる分にゃ地味だな」
「地味だよ。地味を毎日欠かさない」
男が杯を呷って、空にした。給仕に指を立てて、もう一杯を頼む。
喉を湿らせてから続きを聞く気らしい。
「魔力なしって聞いたが」
「ないね。代わりに手が迷わない。矢を番える時、迷いの分だけ指は遅れる。
私らはその遅れで飯を食い損ねるんだ。あれには遅れがない」
言いながら実物を思い浮かべる。あのガキの手は豆の場所が偏ってない。
柄の同じ場所を、同じ力で握り続けるとああなる。急がないのに速い手だ。
自分で自分を仕込んだ手だよ。
「さっきの霧の話も橋の話も、尾ひれを毟りゃ骨は全部本当なんだよ。そこが一番笑えるところでね」
「本当だとして、何で魔力なしにそれができる」
「調べて、書いて、計算するからだろ。さっき言ったじゃないか」
「それだけでか」
弓を持つ手の癖で、指先が弦を番える形のまま止まった。
的を絞る時の手だ。狙いを外さない者の手はみんな似てくる。
「それだけを毎回やる奴を私は他に知らないね。狩人で言やあ、毎朝同じ刻限に同じ張りで弦を張るような奴だ」
「あんたでもか」
「私でもだよ。だから面白いんじゃないか」
男が黙った。杯の縁で指が止まってる。
「本人は何て言ってんだ」
「『普通です』って言うんだよ」
「本当のことですし」
ユルが袋の口を締めながら言った。
男が眉を寄せた。冗談の顔を探して、見つけそこねた面だ。
それから声を落とした。
「で、指名ってのはどんな筋だ」
「あんたに話すことじゃないね」
「けっ」
男は口を尖らせたが腰は上げなかった。
まだ聞き足りない座り方だ。
だから連れの嬢ちゃんの話もしてやった。
「あのガキが動く半拍前に、相方の嬢ちゃんの重心はもう沈んでる。受けるってのは待つことじゃない。
的の方から矢に寄ってくるみたいなもんだ。あの受けを普通にやる方も、私に言わせりゃ大したもんさ」
「化け物の集まりか」
「はは。言ってくれるじゃないか」
実際、あの二人の組みは見てて飽きない。
矢と的が両方動いてるのに外す図が浮かばないんだ。
私は杯を置いた。
「……じゃあ普通って何なんだろうね」
「あ?」
「いや。ま、知らないけどさ」
男は鼻を鳴らして、今度こそ立ち上がった。
「指名ねえ」と呟きながら仲間の卓へ戻っていく。
来た時より足音が軽い。土産話ができたって歩き方だ。
今夜のうちに向こうの卓で尾ひれがまた一本増えそうだ。
---
卓が静かになった。
ユルが薬草の袋を鞄へしまって、小声の鼻歌が戻ってくる。
私は杯の縁を指で弾いた。弦の代わりだ。
考え事の時の癖でね。直す気はない。
空いたままの席が目の端にある。
テルナで紙が届いた日があった。中身は知らない。聞いてもいない。
あれからあいつの口数が二日ばかり減った。
この街に来てからは夜がいくつか消えてる。
戻った朝はいつもどおりの顔で飯を食って、椀を持つ手にも何も出てなかった。
昨夜は商人通りの看板の一本手前で裏へ折れた。
歩幅はそのまま。誰も足を乱さなかった。
私は欠伸をして続いた。見てなかったわけじゃない。
先だっての晩は私も戸口の柱にもたれて通りを見てた。
椀は手に持ったままで、中身は減らないまま冷めた。
通りには誰も来なくて、風が灯りを一度揺らしただけだった。
並べて、思い出した。
長期の依頼で、宿を決める段になったら最後の一言だけ早口だった。
「俺、知り合いに会いたくないから、宿は端の方で」
選んだ宿は東門の端の方だった。
あの時は結局何も聞かなかった。
弦は使わない時は緩めておく。狩りの初日に教わる。
張りっぱなしの弦から切れていくもんだ。
弦の張りは指で触りゃ分かる。
人のは触れない。目で見るしかない。
獲物じゃあるまいし、追い立てて出てくるもんでもない。
聞いて楽になるのは大概聞いた方だからね。
あいつが自分で言うならその時に聞く。切れそうに見えたら言ってやる。
気張んな。それだけだ。
「先に戻るよ」
「はい。夜道、暗いですから」
「弓手の目を舐めんじゃないよ」
ユルが笑って頭を下げて、私は戸口を押した。
夜気が首に触れた。宿の方の空は暗い。
商人通りの灯りは背の方だ。
風が乾いてる。弦には良い夜だ。
言葉は一本だけ番えてある。放つ日が来なけりゃそれでいい。
……足りなきゃ酒を足すさ。




