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第62話「指名」

夜明けの練武場が木剣の音で埋まっている。


テルナより広い床の隅で、僕は型を三十回だけ振った。

セナは隣で足運びを流している。


「朝から並ぶんでしょ。汗かくと損じゃん」


壁際でゼフが若い剣士の打ち込みを見ていた。

目が合う。顎が浅く動いた。僕も頭を下げた。


通りの水たまりに霧の名残が浮いていた。

荷車の輪がそれを割っていく。


朝の修練を終えギルドに着くと、窓口が開くのと同時に列へ並んだ。

便の日は託送の客が混ざるから列が長い。


掲示板の前では朝に掲示される依頼の紙を数える声がする。いい依頼は今日も早い。

窓口にはミラさんが座っていた。きっちり結い上げた髪。伸びた背筋。

判の置き場所は、いつもと同じ台の角にある。


胸元にしまっていた封をもう一度検める。

三日前、薬屋を巡った日の夜に書き記した手紙だ。


「託送ですね。宛先と中身をどうぞ」

「テルナ行きです。手紙が一通」


差し出した手紙をミラさんが受け取った。指の動きに無駄がない。

宛名を確かめて、便賃を控えに書き写していく。

薬の割り方だけを書いた母への手紙だ。


西回りの便に載って、テルナの叔母さんの手から村へ渡る。

控えに判が置かれた。乾いた音がひとつ。


「昼の便で発ちます。六日ほどで着く見込みです」

「ありがとうございます」


窓口の奥で、託送の箱が荷札を付けて積まれていく。

僕の手紙もあそこに入る。


礼をして下がりかけた時。


「リクさん」


僕は一拍遅れて振り返った。

この窓口で名前を呼ばれたのは初めてだ。プレートではなく、名前だった。


ミラさんが綴りの間から一枚の紙を抜いて、台の上に置いた。


「……貴方たちへ指名です」


紙は新しい。折り目がまだ立っている。

頭の欄に僕とセナの名前が並んでいた。

誰かの手で書かれた僕の名前だ。


依頼主の欄にはあの低地の道の荷主の名。

定期の荷運びと、道の巡回。

報酬の欄の下に短い注意書きがあった。


『道は低地の霧と泥。魔物は水際の小物が一度。荷を狙う獣の跡はなし』


この窓口で僕が言った言葉だ。

綴りに書き取られた並びのまま、依頼の紙に移っていた。


「『指名依頼』です。依頼主が受け手を名指しで出す依頼で、報酬に指名料が乗ります。

手続きの順番として、指名は掲示されている依頼とは別で承ります」


ミラさんの声は規定を読み上げる調子のまま動かない。僕の口の端だけが勝手に緩んだ。


「七日ごとに一往復。荷運びと、巡回の報告を毎回。お受けになりますか」


僕はセナを見た。頷きが返る。


「受けます」


セナが背伸びして紙の上の名前を指で辿った。


「覚えさせるしかないって、言ったじゃん」

「それとは別。僕らにとっても良いことだから」


受領の控えに名前を書く間、後ろの列から視線がひとつ、胸のプレートで一拍止まった。

掲示板の前の大柄な背中も半分だけ振り向いて、また紙に戻った。

誰とも言葉は交わさない。


「一往復目は本日の昼からです。荷主の倉でお待ちですので」

「行ってきます」


台の判が、次の客の紙に置かれる音を背中で聞いた。


---


昼前に荷主の倉へ行くと、荷はもう車に載っていた。


縄の掛かった木箱の脇に、板が二枚渡し掛けてある。

切り口の新しい木の匂いがした。


「頭が積んどけとよ。渡りに使うんだろう」

「はい。曲がりの先で」


御者はこの前と同じ男だ。僕らの顔を見て煙管を仕舞った。

前は主人に借りた板を二人で担いで来た道だ。

今日は担ぐ前から荷台にある。


街道を外れると道は低くなる。窪みに朝の霧の名残が薄く溜まっていた。

車輪の音が湿った土に沈む。泥は轍の縁で乾きかけていた。


街道の分かれでは対向の荷車と譲り合った。

御者同士が片手を上げる。


「この道で荷を落とさなかったのは、あんたらが初めてだとよ」


御者が前を向いたまま言った。

僕は返事の代わりに縄の掛かりを確かめた。


曲がりに差しかかると、先に降りたのはセナだった。


「六十歩でしょ」


数えながら轍の脇を歩いていく。

崩れた縁で足を止めて振り返った。


「ここ」


そう言って、セナは足元を指さす。

板を運ぶのは僕の役目になった。渡す位置はもう決まっている。

板の木の匂いに泥の匂いが混ざった。


車が乗る前に先へ渡って轍の先を見た。沈みはない。

御者が手綱を緩め車をゆっくり進める。

車輪が板の上で二度鳴った。泥が板の裏に付いた。


「板の場所、もう覚えたんだよね」

「二回目だし」


セナが手の泥を払う。


御者が口笛を短く吹いた。

霧は昼を待たずに切れていた。


集落の入り口で、受け手の男が控えを懐から出した。


「話は来てる。定期の荷運びだな」

「はい。荷はこちらです」


名乗る前に名前を読み上げられた。

男は箱の縄目だけを検めて判を押した。


子供が二人、車の後ろから箱が降りるのを眺めている。

箱が下りるたび、片方が数を口に出した。


「次は七日後だな」

「はい。同じ昼に」


帰りは車を先に行かせて水際を歩いた。


泥の上に鳥の足跡だけが並ぶ。

葦の間で水鳥が一度立って、それきり動くものはない。

荷を狙う獣の跡もなかった。


荷台の脇でノートの低地のページを開いた。

上の方には、線で消した三つの問いがそのまま残っている。

次に受ける誰かのために整えた行だ。最初の読み手は書いた本人になった。


行の下に今日の分を足す。

轍の崩れは前と同じ場所。板二枚は先方持ち。水際は静か。


轍を抜けてから板を荷台へ戻した。セナが縄を掛け直す。


「これ、置いてっていいってさ。次も使うからって」


乾いた泥が木目に薄く残った。


---


夕方のギルドは精算の列で埋まっていた。

窓口の灯が入って昼より声が低い。


列の間で巡回の言い方を頭の中で整える。短く聞き返されない形に。

僕の前の男が革袋を腰に結んで離れる。台に紙の匂いが残った。


ミラさんは控えと報告書を並べて突き合わせた。


「巡回のご報告をお願いします」

「水際の小物は出ませんでした。獣の跡もありません。轍の崩れは前と同じ場所です」


ペンが一度も止まらずに走った。


「板は先方の物を使いました。次からも荷台に載るそうです」

「書き添えます。準備の側の記載は、依頼主の控えにも回りますので」


判が同じ角に置かれた。短い音がひとつ。


「報酬です。定期の一往復で80枚。指名料が16枚ですので、96枚になります」


銅貨が数えられて控えの上に積まれる。

山がふたつになった。音が低い。


数え終わりに一枚が台の上で回って、ミラさんの指が止めた。

銅貨の並びがいつもより一段厚い。

掌に移すと、重さが指の付け根に掛かった。


「ご指名は、次からもこの窓口で承ります」

「ありがとうございます。……お願いします」


窓口を離れる時、次の精算の声がもう始まっていた。

判の音は同じ拍で続いていく。


宿に戻って、まずノートに今日の分を書いた。

低地の行の続き。板の置き場と受け手の名前。


それから帳面を開いた。テルナの頃のページまで紙を戻す。

七日分の並び。12枚。15枚。空の日。20枚。

宿代と食費を引くと、行の尻はいつも細かった。


並びの終わりには空の行がいくつか続く。街を移った月の分だ。


今のページに戻る。六日の取り分が480枚。今日の96枚。

定期だから、七日ごとに同じ行が増えていく。


数字の下に荷主の名前も書いた。

行の尻の数字を声に出さずに二度読んだ。


薬代の欄に来月の分を書き入れた。銀貨3枚。

その次の月も。もうひとつ先も。


為替でルナ叔母さんへ送る分は、この稼ぎなら切らさずに済む。

三月先まで欄が埋まった。その先にも白い欄が続いている。

埋める欄を、また少し先まで延ばせる。


帳面の隅には便の日を並べた小さな暦がある。

ひと月半先まで線を引いてある。


ペン先の音が止む。インクが乾くまで、ページを開いたままにした。


隣でセナが銅貨を布に包み直している。

紐を結ぶ音がする。


「テルナの時さ、この欄いっつも尻すぼみだったじゃん」

「見てたの?」

「見てたよ。……重いのっていいよね」

「うん。いい」


戸が開いて、マルセルが土間に立った。


「出るぞ、飯だ。広場の店でいい」

「え、おごり?」


セナが先に跳ねた。


「うっせえな。たまには、だよ」

「指名の話、聞いたんだ?」

「ギルドにいりゃ聞こえてくんだ。そういう話は早い」


表通りの飯屋は湯気で窓が曇っていた。

親父が鍋を振る音がして、壁の品書きは油で色が変わっている。


卓をひとつ占めて五人で座った。エマとユルは先に座っている。

エマが杯を持ったまま眉を上げる。


「珍しいじゃないか。あんたが払うなんて」

「二度は言わねえぞ」


ユルが皿を寄せた。


「まあ、せっかくなんでご馳走になりましょう」

「今日はあれだ、指名の祝いってやつかい」


エマがマルセルに顎をしゃくる。


「違えよ。飯の気分だっただけだ」


揚げた芋が山で来た。油の匂いが卓に広がる。

隣の卓から干し肉の焼ける匂いも流れてきて、セナの目がそちらへ泳いだ。


「頼んでやるよ、今日はな」


マルセルが指を上げた。

エマが骨付き肉を齧りながら、セナから今日の話を聞いている。

僕はその横で杯の中身を見ていた。


「で、指名料はいくら乗った」

「16枚です」

「悪くないね。初回でそれなら頭は続ける気だ」


麦酒の泡が僕の杯の縁で弾けた。


「指名が付いたぐらいで浮かれんな、ガキども」


僕は杯を置いた。

マルセルは杯を半分空けてから続けた。


「定期は落とした時が一番響く。一回の穴で名前ごと飛ぶ」

「はい。落とさないようにします」

「指名は二回目が肝心ですよ。初回は物珍しさでも付きますので」


ユルが言って、自分で頷いた。


「まずは七日後ですね」

「気張んな。あんたらは今日ぐらい食ってりゃいい」


エマが芋をこちらの皿へ転がした。


「巡回、雨の日はどうすんだい」

「板の下を先に見ます。轍が沈むので」

「ふうん。考えてるじゃないか」


セナが杯を舐めて顔をしかめる。


「苦いんだよね、これ」

「子供め」


エマが笑いながら自分の杯を空ける。

ユルが締めの汁を頼んだ。


「食えるうちに食っとくもんです」


湯気の向こうで、別の卓の組が声を上げて笑い合っている。

同じ湯気の中に僕らもいた。


会計の時、マルセルが銅貨を重ねて言った。


「死ぬなよ。定期ってのは、そういう意味だ」


僕は何も言わずに頷いた。


---


店を出ると、夜気が首筋に刺さった。


笑い声は戸が閉まると薄くなって、通りは石畳の目まで冷えている。

商人通りの店はもう雨戸を下ろして、軒灯だけが等間隔に残っていた。


マルセルが先頭を歩く。歩幅が広い。

エマとユルが後ろで明日の買い出しの分担を言い合っている。

セナは腹を押さえて唸った。


「食べ過ぎた……」

「三皿目で止めなかったからだ」

「止まんなかったんだもん」


通りの先に灯りの残る店構えがひとつあった。

間口が広い。戸は下ろされて中は暗い。


軒灯が看板を照らしていた。

漆が灯りを返して、字がまっすぐ読める。


『ジョゼ商会』


去年の冬の大通りが一瞬だけ重なった。


先頭のマルセルは足を緩めなかった。

看板の一本手前の角で裏の道へ折れる。

歩幅は変わらないまま背中が角に消えた。


エマが欠伸をしたまま続いた。ユルは小声の鼻歌のまま続く。

セナと僕も続いて曲がった。それ以上、聞くことはなかった。


角を折れる寸前、視界の端でふたつが並んだ。

軒灯に照らされた看板の白と、これから入る道の暗がり。


一歩でどちらも見えなくなった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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