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第61話「北から来た男」

谷への依頼の精算を済ませた翌朝は霜が薄かった。


下の広間で竈の火を起こして湯を沸かし、椀を二つ並べた。

腰の袋には今日使う分の銅貨だけを入れる。

薬代はギルドが報酬から引いて為替で叔母さんへ送る。


今日は掲示板には行かない。

薬師街を回ると昨夜のうちに決めていた。


「西の区だよね」


セナが上着の紐を結びながら言った。


「うん。病気に関して、何か新しいことが分かれば良いけど」

「クレウスに来た理由の半分はそれだもんね。やっと回れる」


宿を出ると通りは人が薄かった。

壁の向こうの鍛冶場はまだ眠っている。

空は高いところから明るくなっていく。


「どこから回る?」

「川中の大きい問屋から。精算のとき、荷主が言ってた。薬を探すなら使いを先にやっておくって」

「へえ。仕事しただけあるじゃん」


広場を抜けて、川沿いの道を北へ歩く。

去年セナと二人で歩いた道だ。

水音が右手に付いてくる。川の水が前より痩せて、石の背が出ていた。

舟が一艘、荷を積んで下っている。


市場の角では青物売りが水を打っていた。

乾いた薬草の匂いが通りの低いところにたまっている。

匂いの帯に入ると、足が先に道を覚えていた。


「川、覚えてるよ。この匂いも」

「僕は道の方を覚えてる」

「分担どおりだね」


地図は僕。聞くのはセナ。去年と同じ分担だ。


「あの時は宿の紙に道順を書いてもらってた」

「今日はいらないでしょ。……ねえ、あの外れの店、まだあるかな」

「外れの店?」

「川沿いの一番奥。本がいっぱい積んであった、おじいさんの店」

「行くよ。最後に回る」


セナは頷いて歩幅を半歩広げた。

荷車が一台、医院の前で薬箱を下ろしている。

通りの先で薬研の音が重なって聞こえ始めた。


---


川沿いの中ほどに間口の広い薬種問屋があった。

軒下に乾いた根が束で吊るしてあり、店先では少年が籠を運び込んでいる。

中に入ると帳場の主人が僕らを一目見て顎を引いた。


「あんたらか、話は聞いとるよ。若い冒険者が二人、薬を探しに来るから帳場に通せとさ」

「話が早くて助かります」

「礼なら荷主に言いな。うちは一見に棚は開けん」


主人は顎で奥の棚を指した。


「地脈の調整剤ならそこだ」


棚には包みが等級ごとに並んでいた。上物が二列、常のものが三列と書いてある。

テルナでは取り寄せて半月待った品が、手を伸ばせば届く高さにある。


セナが棚の前に立った。


「これとこれ、何が違うの」

「乾かし方だ。上は陰干しで、値も倍する」


セナは二つの包みを取って、鼻先で確かめた。


「香りの立ち方が全然違う。粉の色も濃い。……こっちの上物、端の方だけ乾きが浅いよね」


主人の眉が上がった。


「……分かるのか」

「母が村の医師なの。手伝いながら覚えた」

「目のいい客は嫌いじゃないよ」


主人は奥から別の包みを出して、置き換えた。


「上物はいくらしますか?」

「三月分で銀貨15枚。それが正規の値だ」

「常物は?」

「その半分だ。上は常の倍と思えばいい」


セナが二つを見比べた。


「値が倍なら、効き目も倍なの?」

「倍じゃない」


主人は上物の粉を指の腹に取った。


「上物は香りが高い。色も濃い。効きが安定して長く保つ」


常物の包みも開いて並べる。


「常物はムラが出る。同じ量でも波がある」


セナが上物の包みをもう一度嗅いだ。


「この匂い、リクのお母さんに届いてるのと同じだ。上物だったんだね。……効き目が安定してる方」

「調整剤のことをそこまで聞く若いのは珍しいね。この街でもそういないよ」

「病気のことも知りたくて。前にもこういう客はいましたか」


主人はすぐには答えなかった。

僕はその間にノートを開いて薬の欄を新たに作り、今の話を書き込む。

上物と常のもの。上物は三月分で銀貨15枚、常のものはその半値。上物の方が効き目が安定。

村に届いているものは上物を叔母さんが手配してくれている。


主人は帳場の框に肘を置いた。


「数年前にな、一人。北の訛りの男だ。地脈の濃い土地はどこかと店ごとに聞いて回ってたな」


僕の手が止まった。


「うちだけじゃないぜ。川沿いの店を端から端まで回って医者にも聞いてたとさ」

「訛りのほかに覚えていることはありますか」

「無口だったな。値切りもしない。買うものが最初から決まっていたんだろうな。

うちにあった上物をあるだけまとめて買っていった」

「その人の名前は分かりますか」


「名前? 一見の客に名は聞かんよ。帳面に載るのは掛けの客だけだ」


主人は帳面をめくりもしなかった。


「どこへ向かったかは」

「知らんね。北へ帰ったか、濃い土地とやらへ行ったかは聞いてない」


礼を言って店を出た。


「ねえ、今の話」

「うん。去年のと重なる」


僕は胸元のノートの上から手を当てた。書いた行の場所まで覚えている。


「外れの店に行く。裏を取りたい」

「覚えてるかなあ、おじいさん」


---


店はまだあった。川沿いの道、その先がほとんど尽きるところに軒先が残っていた。


「あった」


セナが小さく言って戸に手を掛ける。

戸口に鈴はない。軋みだけが客を知らせる。

軋みは短く一つ鳴って止んだ。


中は本の匂いだ。古い紙と薬草の匂いがほかのどの店より濃い。

床から天井までの本の壁も去年のままだった。


机の上のランプだけが灯って、埃が光の筋の中で回っている。

セナが本の壁を見上げて、口の形だけで「すご」と言った。


痩せた老人が奥の机で書き物をしていた。顔を上げずに口だけが動く。


「……薬の切れた客の開け方ではないな」

「去年、母の病で伺いました。二人で」


老人はそこで初めて顔を上げた。僕とセナを順に見る。


「お前さんか。書く癖はまだ続けておるか」

「続けています」

「顔は覚えておらん。開け方で分かる」


僕はノートの去年のページを開いて、机の端に置いた。

『地脈の病でも、症状の出ない例がある。北の生まれの男。』

老人は行を目でなぞって、鼻から短く息を抜いた。


「わしの言った通りだな」

「ほかにも書いてあります。あの日の医者の言葉と、薬の値段と、この店の場所と」

「ふむ」


去年と同じ返事だった。


「今日はこの続きを聞きに来ました」


川向こうの問屋で聞いた話をそのまま伝えた。

数年前。北の訛り。無口で値切らなかった。

地脈の濃い土地を尋ねて回り、あるだけの上物を現金で買っていった。

名前は残っていない。


老人は聞き終えるまで一度も口を挟まなかった。

筆が止まった。長い間があった。

窓の外で川の音が細く続いている。


「……わしが見たのはずっと昔だ」

「はい」

「同じ男なら……生きておったか」


老人は宙を見た。古い棚の奥を探る、あの目だった。


「診たのは一度きりだ。薬も出しておらん。それきり顔も見ておらん」

「その人がどこへ向かったか、問屋は知りませんでした」

「わしも知らん」


即答だった。


「地脈の濃い土地と言っても、この国だけで両手に余る。北の山向こうまで入れれば数えきれん」

「北へ帰った可能性は」

「北は広い」

「そうですか」


男の足取りはそこで途切れた。


「ねえおじいさん、薬のこと聞いていい?」


セナが一歩前に出た。セナの言葉に僕が続く。


「薬の飲ませ方で気をつけることはありますか?」

「雪解けから夏至にかけて、地脈の流れは太る」


老人は筆を置いた。


「同じ量を同じ間で飲ませるな。流れの太る時期に厚く、細る時期は薄く延ばす。波を均すだけだ。治りはせん」

「季節で割るんですね」

「太る時期がいつからいつまでかは、土地の薬師が知っておる。村の薬師に聞かせろ」


「割るときは自分で量るの?」

「薬師に割らせろ。素人が匙を持つな」

「わかった。そうする」


僕はその場でノートに書き付けた。老人は止めなかった。


「母御は変わらずか」

「はい。月一の薬で抑えています」

「……魔力の乏しい者がなぜ、とは今でも思う」


老人は本の壁を見た。


「医者に聞いた時も、理屈に合わないと言っていました」

「分からんものは分からんままだ。分からんまま、覚えておくしかない」


老人は新しい紙を一枚めくった。


「ありがとうございます」


頭を下げてノートを仕舞った。セナも頭を下げた。

老人はもう書き物に戻っていた。

戸を引く僕の背中に低い声が落ちた。


「……生きておったか」


振り返ったときには筆の音だけが戻っていた。


外は昼を過ぎていた。

川沿いを戻る。水音が今度は左手に付いてくる。


「聞けたね」

「うん。書くことが増えた」


セナは笑って、歩幅を戻した。


---


夕方まで残りの薬屋を二軒回って宿に戻った。


その二軒では新しい話は出なかった。

北の男も覚えられていなかった。


屋根の上に炊煙が何本も立っている。

路地には竈の煙と汁の匂いが満ちていた。


宿の広間ではユルが大竈で湯を沸かしていた。

僕らを見て頷くと、それきり何も言わずに鍋へ向き直った。


帳場の脇にマルセルの靴はない。

その姿が広間から消えて、今夜で三晩目になる。


過去の二回の晩では、マルセルが戻ることなく夜が明けた。

朝に戻って、湯だけ飲んで出ていく日もあった。今朝はそれもなかった。

ユルが椀を四つ出した。五つ目は棚の上で伏せられたままだ。


夕食の豆の汁と麦飯を食べながら、セナが腕を回してみせた。


「腕、上がるようになったんだ」

「六日分の疲れ、やっと抜けたよ」


食べ終わる頃、エマが立ち上がった。

戸口の柱にもたれて夜の通りを見ている。


椀は手に持ったままだ。中身は減っていない。

通りには誰もいない。風が戸口の灯を一度だけ揺らした。

誰も声を掛けなかった。僕も掛けなかった。


夕食の後、今日のことを村への手紙に書き写す。

セナが僕の隣に座って、書きかけの手紙をのぞいた。


「割り方、書けた?」

「うん。老薬師の言った通りに」


ノートに残した割り方を手紙に書き写して、畳んで糊で留める。

西回りの便は三日後だ。便はテルナで叔母さんの手を通って村まで行く。


「薬と一緒に届くね」

「うん。薬は叔母さんが村へ送ってくれてる。手紙はそれに間に合うと思う」


折り目を二度確かめると、セナは先に部屋へ上がった。


「明日は掲示板?」

「うん。仕事に戻る」


支度を終えて振り返る。

エマの背中はまだ同じ場所にあった。


---


夜が深くなった頃、僕はランプの芯を細く出した。

油の匂いが枕元に広がる。隣の部屋はもう寝静まっている。


封をした手紙を鞄にしまった。三日後の朝にはこの街を出ていく手紙だ。


ノートを開く。表紙は角が丸くなって、綴じ紐は二代目になった。


問屋の棚に上物が常にあること。西回りの便の日。雪解けから夏至までの割り方。

問屋の主人の言い方も短く書いた。帳面に載るのは掛けの客だけ。

商いの決まりごとまで書くのは初めてだ。


老人の呟きは書かなかった。

ペン先の音だけが板の間に低く落ちる。


壁の向こうで誰かが寝返りを打つ。

僕はペン先を浮かせて、音が収まるのを待った。


書き終えてから、去年のページまで紙を戻した。


『地脈の病でも、症状の出ない例がある。北の生まれの男。』


一年前の字は今より角が硬い。

行の下の余白は去年のまま空いていた。

そこに新しい一行を書き足す。


『北の生まれの男、数年前この街に。名は残っていない。』


インクが乾くまで、ページを開いたままにする。

二つの行が年をまたいで並んでいる。

上の行は老人の言葉で、下の行は問屋の言葉だ。


書いた日も聞いた相手も違う。

それが一枚の紙の上で隣り合っている。

二つの行の間には、去年から今日までの日が全部挟まっている。


その男は地脈の濃い土地を探していた。行き先は誰も知らない。

今、生きているかも分からない。

手がかりはこの二行だけだ。


母への手紙には男のことを書かなかった。薬の割り方だけを書いた。


ランプの芯をさらに落とした。

油の匂いが濃くなり火が縮む。


ページの上で二つの行が影に沈んでいく。

上の行と下の行の間、余白だった場所が、今はひと続きの線のように見えた。


芯を落としきる寸前、その線はまだそこにある気配がした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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