第59話「五年と三月」
早朝、一階に降りると、帳場の脇の荷が昨夜と違う位置に掛かっていた。
荷の紐も結び直されている。
マルセルは夜のうちに一度戻って、僕らが起きる前にまた出ていったようだ。
大竈へ火を入れていたユルがその荷を一度見て、何も言わずに湯を沸かし始めた。
僕も何も言わずに外の水場で顔を洗った。
ギルドの戸が開く刻限には列の中にいた。
息が白い。石段の冷えが靴底を抜けて上がってくる。
戸が開くと紙は昨日と変わらない速さで消えていく。
桁のいい討伐は三人目の手で消えた。
街中の常設は決まった顔が決まった順で取っていく。
先頭の何人かは掲示をほとんど見ない。
歩く速さのまま目当ての一枚へ手を伸ばして剥がしていく。
どこに何が貼られるか体で覚えている取り方だ。
剥がした紙は振り向きもせず窓口へ運ばれて受理の判が休みなく鳴る。
釘のよく使われる場所ほど板の木地が明るい。毎朝そこから紙が消えていく。
紙が減るたび列の進みは速くなる。板の前で足を止めて上から読むのは僕らのような顔ぶれだけだ。
僕らの手が届く頃に残っていたのは、端の二枚と昼過ぎ集合の小口が一枚だった。
「今日も渋いね」
セナが背伸びして、板の上の方まで確かめる。
「いい紙は常連の指の先に付いてるんだ。僕らの指はまだ覚えられてない」
「じゃ、覚えさせるしかないじゃん」
実を言えば、朝の紙にはそれ以外もあるのだと思う。
ただその紙は、今の僕たちには得られるものではない。
今は、何よりもこのクレウスで実績を積むだけだ。
セナにそれを告げることなく、僕は小口の紙を手に取った。
依頼は市場の荷押さえだった。昼過ぎに南の倉へ集まる。日暮れ前までの人手で二人分。
それだけ受けて窓口で判をもらう。昼までは時間が空いた。
待つ間にノートを開いた。
便のページ。西回りの荷の便まであと二日。
母さんへの手紙はもう荷の隅に括ってある。
当日の朝、窓口へ出すだけにしてある。
「昼までどうする?」
「体を動かしたい。ギルドの脇に練武場があったんだ」
クレウスに来てから止めていた早朝の習慣は明日から再開したい。
そのためにも、練武場は一度見ておきたかった。
「テルナより広いんでしょ。行こ」
セナの一言を聞き、僕たちは練武場へ足を向けた。
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練武場はテルナのものより二回りは広かった。
高い屋根の下に石床と砂の場が並んで、朝の稽古の音があちこちで重なっている。
打ち込みの音。砂を擦る足。貸し出しの木剣が並ぶ棚まで歩く間、誰も僕らを見なかった。
その重なりの中に一つ、聞き覚えのある拍子がある。
砂の場の端でナギが素振りをしていた。
帽子のつばが振りに合わせて小さく揺れている。
「ナギ!」
「リクか。おはよう」
こちらをチラリと見たナギからは、振りを止めずに返事だけが来る。
「そのうちキミも来ると思ってたよ。……一本、どうだい?」
誘い方までテルナの朝のままだった。
借りた木剣はテルナのものより柄が細い。
二度振って重さを確かめてから砂の場でナギと向き合った。
構えらしい構えを取らないのは半年で見慣れた。見慣れても入り込む隙は今日もない。
三手で終わった。
一手目を受けて、二手目を流して、三手目で籠手を打たれた。
木剣が手の中で跳ねる。
「今朝はこのくらいでいいよ」
「うん。ありがとう」
手首に痺れが残る。三手はテルナで最後にやった朝と同じ数だ。
セナも一本だけナギと打ち合って、それから三人で壁際の水場に寄った。
汗を拭いていると、砂の場の反対の端から同じ音が続いているのに気づいた。
同じ音、という言い方が正しい。
年かさの剣士が一人で型を繰り返している。
白いものの混じった髪を短く刈った、きっと僕の倍以上は生きている人だ。
抜いて、受けて、流して、返す。
一連が終わると元の立ち位置へ戻って、また頭から繰り返す。
何度目でも音の間隔が変わらない。
足元の砂には一つの足形が重なって、一人分の道になっていた。
「ずっと同じことやってるね」
セナが水を飲みながら言う。
「うん。ずっと同じにできてるんだ。あれが難しい」
ナギが僕の視線の先を追って、それから僕の顔を見た。
「また調べる気だね」
「うん」
見るなら近くがいい。
邪魔にならない壁際まで寄って、腰を下ろしてノートを開いた。
低く構えた背中に刈り入れの済んだ村の畑が一瞬重なる。
ヴァルドおじさんも木剣を持って向き合うと気配の変わる人だった。
まず足を見る。
踏み込む前足の爪先が砂に着く寸前、わずかに内を向く。
内を向いた分だけ膝が流れずに止まって、次の一歩が同じ幅で出る。
次に重心。
振り下ろす前に一度だけ沈む。膝からじゃなく腰から沈む。
沈み切る前に剣が動き出していて、落ちる力がそのまま振りに乗っている。
最後に手の内。
打ちの終わりで柄を握る指が一瞬だけ緩む。
緩んだ分だけ剣先が伸びて走る。あの音はそこで出ている。
見えた順にノートへ書いた。
爪先、内。腰、先に沈む。指、打ちの尻で緩む。
三行になった。
次は自分だ。
場の隅で今の型をゆっくりなぞってみる。
僕の爪先は外を向いていた。腰は剣と一緒に落ちる。指は最後まで握ったままだ。
違いが三つ。直す場所も三つ。
一度に一つずつ。
木剣を持ち直して顔を上げるとセナが先に受けの位置に立っていた。
「受け、いるでしょ」
頼む前に構えている。
「お願い」
「ゆっくりからね」
爪先だけ直して十本。次は腰だけで十本。指は最後に回す。
数は声に出さずに数えた。
数えないと直ったのか慣れただけなのか分からなくなる。
セナの受けは拍子が正確だ。
僕が一つ直すたびに半拍待って、狂いのない角度へ木剣を出してくる。
僕が何かを繰り返す時の間の取り方を、セナは村の頃から知っている。
三十本を越えたあたりで爪先が勝手に内を向き始めた。
六十本で腰が先に落ちた。
指はなかなか緩まない。握り込むのは癖だ。
癖は数でしか上書きできない。
振りの合間にセナが木剣の先で砂に短い線を引いていく。十本ごとの印だ。
数え違えてもそこまで戻ればいい。線は僕の足形の外に几帳面に並んでいた。
剣筋が逸れた時は受けの音が濁る。
濁らない音を数に入れて濁った分は数え直した。
本数が進むと腕より先に足が疲れてくる。
踏み込みが浅くなった分はセナの受けが前に出て埋めた。
振るたびに背中から湯気が立つ。
セナの肩からも白く上がっていた。
冬の練武場で湯気が立つのは動き続けている者だけだ。
百本を越えて、初めて音が変わった。
剣先が走る音。さっきまでの自分の振りには無かった音だ。
「今の、いいね」
「うん。もう一本」
「同じの、あと何本?」
「揃うまで」
もう一度音が出る。三本目は出ない。四本目で出た。
出たり出なかったりを均していく。
動いたり動かなかったりする仕組みは、動かない仕組みより手強い。
原因が半分しか見えていないからだ。
指を緩める拍を半拍早くしてみる。音が続くようになった。
足音が近づいて、僕の振りの途中で止まった。
年かさの剣士がこちらを見ている。
木剣を提げたまま、僕の手元だけを見ていた。
「坊主。今の手の内、どこで習った」
「ここでです。あなたの型を見て」
「……見て、だと」
剣士は僕の顔と木剣を見比べた。
「もう一度やってみろ」
言われた通りに振る。爪先、腰、指。剣先が走った。
剣士は黙って自分の手のひらを一度見下ろした。
節の太い、木剣より先に固くなったような手だ。
「それは五年かかる」
声に怒りは無かった。
「俺は五年かかった。打ちの尻で指を緩めるのを体が呑み込むまで、五年だ。見て真似られる筋のもんじゃねえ」
「動作を分解して、どこが自分と違うか調べたので」
ノートの三行を開いて向けた。
「爪先と腰と指。三つ違ったので、一つずつ直しました」
「直した……今のこの場でか」
「形だけです。馴染むまで三月はかかります」
剣士の口が開いて、閉じた。
言葉より先に提げた木剣の先が少し下がる。
ナギが素振りをやめて、こちらへ歩いてきた。
「考えても無駄だよ」
剣士が振り向く。
「頭の中の見積もりはどうせ超えてくる。三月と言ったら本当に三月、毎朝これをやるんだ。ボクは半年隣で見てた」
「……あんた、この坊主の連れか」
「同期だよ。一本、取られたこともある」
剣士はナギを見て、僕をもう一度見た。
何か聞かれると思ったが、剣士は何も聞かなかった。
代わりに僕の隣へ並び同じ向きに立つ。
それから自分の型を半分の速さでやり直し始めた。
爪先が内を向くのが見える。
腰が先に沈むのが見える。
打ちの尻で指が緩む。
今度ははっきり見えた。
速さを落としているのは僕にも分かる。
僕は木剣を持ち直して、隣で同じ一連をなぞった。
剣士は何も言わない。
二本の木剣が同じ拍子で空を切って、砂の上に二人分の足形が並んでいく。
拍子は揃っていても音は二つある。
剣士の振りは太く僕の振りは細い。
太い音の芯へ細い音を重ねるつもりで拍を取った。
二度目からは足を送る砂の音まで重なる。
息を継ぐ場所も向こうに合わせた。
周りの打ち込みの音がその間だけ遠くなる。
砂の足形は向こうが深く僕のが浅い。
三度なぞったところで剣士は元の速さへ戻り、僕は半分の速さのまま残った。
それでいい。速さはまだ僕のものじゃない。
入り口の方から若い声が飛んだ。
「ゼフさん、昼あがりですか」
剣士が片手を上げて応える。
ゼフさん。周りはそう呼んでいた。
僕の名前は最後まで聞かれなかった。
代わりに隣で三度、同じ拍子をもらった。
止まると汗が冷える。
上着を取りに壁際へ戻ると、入り口の柱にレオが肩を預けて立っていた。
目が合うと何も言わずに手で合図をし、視線をナギの方へ移した。
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昼過ぎの荷押さえは市場の南の倉だった。
倉の中は外より暗い。埃と麻縄の匂いが冷えた土間に溜まっている。
倉を仕切る男は僕らの顔を見ずに顎で木箱の列を示した。
木箱を数えて積んで崩れないよう押さえる。
数を声で返すたび仕切りの男は帳面に棒を一本足す。
見られているのは手と数だけだ。
木箱の角を押さえる指がまた握り込んでいた。
朝に直したばかりの癖だ。
指を開いて、押さえるだけの力に落とす。
数はここでは声に出す側だ。
箱の底が土間を擦る音と数を呼ぶ声だけが倉に続く。
僕が数を呼ぶより先に、セナの手が次の木箱の角に伸びる。
朝の受けと同じ間だ。
隣の持ち場の男とは一度も口をきかなかった。
それで何も困らない。誰の名前も要らない人手だ。
日が傾く前に積みは終わった。
倉を出る時も仕切りの男は箱の山だけを見ていた。
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依頼の精算を済ませて外へ出ると、通りは店じまいの音が始まっていた。
戸板を立てる音。売れ残りを呼ばう最後の声。
西日が通りの奥から差して、石畳の目地だけが明るい。
「あんたら」
振り向くと見覚えのある顔が小走りに寄ってきた。
昨日の荷で手綱を握っていた、荷主の使いの人だ。
「探したよ。夕方ならギルドだろうと思ってね」
「昨日はありがとうございました」
「礼を言うのはこっちさ。……それでな、主人があんたらに話があるとさ」
使いは声を半分落とした。
「東の外れの集落まで荷を出す。行って戻って六日、荷車は四台。
道の悪いのが二日分と、間に谷を一つ挟む。今度のは大口だ」
六日の拘束に四台、それに谷。頭の中で紙にした。ギルドに出せばCランク相当の依頼だろう。
「ギルドには出しているんですか」
「まだだ。主人が先にあんたらの顔で頼みたいと言うんでね。霧を待った話をえらく気に入ってる」
朝の紙以外がやってきた。
依頼書として貼り出されるのは、受けるものを指定しない募集だ。
実績を積んでいれば自ずとたどり着くとは思っていたが、予想よりも早くその時が来た。
「ありがたい話です。ただ、その依頼は多分僕ら二人では受けられません。話を聞く限りではランクが足りないので」
「……そんなに堅いのかね」
「堅いんです。代わりにうちのパーティで受ける形なら通ります。リーダーに話を通しますから、返事に一日もらえますか」
「ああ、構わない。主人にはそう言っとくよ。条件や報酬面についてはその時にな」
明日の刻限と場所だけ決めて、使いは市場の方へ戻っていった。
「六日で四台。昨日の80枚とは桁が違うよ」
「取り分はマルセルの取り決め次第だけどね」
「それでもさ」
セナは笑って、通りの先へ歩き出した。
「もうちょっと割のいいの探そって言ったの、昨日の夜だよ」
「うん」
「一日で来た。……リクのせいだね」
「僕のせい?」
「褒めてるの」
マルセルが戻っていれば夜のうちに話す。
六日と四台と、谷を一つ。
新入りの持ってきた話をマルセルがどう受けるかは、聞いてみないと分からない。
通りの角で夕日が僕らの影を長く伸ばした。
セナの影が僕の影より半歩先にある。村の道でもテルナでも変わらない並びだ。
「明日も朝、練武場でしょ」
「うん。三月続けるって言ったから」
「じゃあ私も三月、受けだね」
セナは当たり前の顔でそう言って、半歩先の影のまま歩いていく。
僕は歩幅を少しだけ広げて、その影に並んだ。




