第58話「準備の値段」
依頼を一つ受けた。
掲示されてからの三日間、誰も取らなかった沼地寄りの街道の巡回と荷運びだ。
マルセルたちは参加せず、セナと僕の二人で受けた。
確かめることを三つノートに書いた。
出る魔物と、前に受けた者。この二つは町の中で埋まった。
残った一つはその日の夕方のうちに見に行くことにした。
道がどう悪いのか。それだけは町の中で聞けなかった。
依頼の紙にあったのは、明日の朝に街道口の荷だまりへ集まることと道筋。
それに報酬の安さだけだ。道の悪さは書かれていない。
支度をして戸を開けると、セナが外で待っていた。
「見てくるだけだよ」
「見るだけでも二人の方が早いでしょ」
鍛冶通りはもう槌の音がまばらだった。
店先の炉に灰をかぶせる音と、戸を下ろす軋みが続く。
荷を担いだ男たちが通りの端を街道口の方へ歩いていく。
僕とセナもその流れに混じって歩き出した。
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町の外れから街道を半刻ほど歩くと道が低くなった。
両側の草が背より高い。
足の裏がやわらかく沈む。一歩ごとに靴の縁へ水が上がってきた。
沼の匂いがする。
水と腐りかけの草が混ざった重い匂いだ。
先に見つけたのはセナだった。
「リク、これ」
道の真ん中に轍が残っている。片側だけ底が抜けたように深い。
しゃがんで指を入れると第二関節まで沈んだ。底に水が溜まっている。
「荷車がはまった跡だ」
すぐ横の土に車輪をこじった跡と掘り返した跡がある。
誰かがここで動けなくなって荷を下ろし、車輪の下に石を噛ませて押し上げた。
その石が半分埋もれたまま残っていた。
いつのことかは分からない。
轍の深さを指の節で測る。
片方の輪だけがここに落ちれば荷が傾く。
傾いた重みは車軸に集まる。最悪、軸が折れる。
顔を上げて低地を見渡した。
道は曲がりの先までしばらく窪んだまま続き、その向こうでまた上がっている。
窪みの底には夕方の冷えた空気がもう溜まり始めていた。
(朝は、ここが白くなる)
沼の水が夜のうちに冷えて、朝の空気へ上がる。低い土地に霧がたまるのはそのせいだ。
霧の中でこの轍は見えない。見えないまま踏めば同じ穴にまた落ちる。
魔物も同じだ。霧の朝は数が読めないと、精算帰りの組も言っていた。
だから、通るのは霧が切れてからだ。
日が高くなれば霧は上がる。昼前には穴がちゃんと見えている。
轍の場所は曲がりから数えて六十歩。
数え直しても六十歩だった。
セナが窪みの先まで歩いて戻ってきた。
「深いのはここだけだよ。あとは硬いとこ選べば行ける」
「うん。ここだけ何か渡せば──」
「板だね。宿の裏に古いのが積んであった。親父さんに借りられるか帰ったら私が聞いてみるよ」
先に言われた。こんなときのセナは早い。
ノートを出して書く。
低地の轍は曲がりから六十歩。霧は朝。切れるのは昼前。板二枚。重い荷は後ろへ。
一行ずつ、明日そのまま使える形で。
村で父さんの鉄を運んだ時、荷の位置ひとつで手押しの重さが変わるのを覚えていた。
書き終える頃には窪みの底が暗くなり始めていた。帰り道の足を速める。
低地を出ると足元が乾いて、靴に染みた水がやっと冷たく感じられた。
宿に着くと、セナはそのまま帳場の主人に声をかけに行った。
戻ってきた時には板二枚の話がついていた。
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翌朝、街道口の荷だまりは薄い霧の底にあった。
息が白い。
昨日の低地ほどではないが、地面の近くに冷えた白さが残っている。
立っているだけで靴底から冷えが上がってきた。
荷車が二台に荷主の使いが二人。
木箱の数を指で押さえながら数えていた。
板は縄で束ねて僕が背負ってきた。
背負う形に結んだのはセナだ。肩に食い込まない結び方を知っている。
同じ荷につく組がもう一つ来た。
男が三人。年上が二人と僕らに近い年に見えるのが一人。
どの顔にも見覚えがない。向こうも僕らを知らない。
使いの話では人手はもう一組頼んであったそうだ。
三人ともこの街に来て日が浅いと言っていた。僕らと同じだ。
「揃ったな。なら出よう。日は落ちるだろうが今日中には戻りたい」
年上の一人が荷車の脇について、使いが手綱を渡そうとした。
「待ってください」
僕は街道の先を見た。
低地はここから見えない。
ただ、今の時間はあの窪みにまだ朝の霧がたまっている頃だ。
「出るのを半刻だけ遅らせてください。先に低地があって、朝は霧がたまります。半刻もすれば切れます。着く頃に晴れていれば、穴を見て通れます」
「穴?」
「深い轍が一つあります。荷車の輪を落とすと軸が危ないです」
「霧くらい、進んでるうちに抜けるだろう」
「人は道の縁を歩けます。荷車は道を選べません」
男は眉を寄せて僕を上から下まで見た。
それから、背中の板に目を止める。
「あんた、行ったのか」
「昨日、見てきました」
「わざわざ?」
「準備しないで行くんですか?」
聞き返したつもりだった。
男の顔がわずかに止まる。
「……新入りが、下見までするもんかね」
「普通です」
言うと、男は僕の背中の板へもう一度目をやった。
セナは荷車の反対側で荷縄を確かめていた。
結び目を一つずつ引いて緩みを探す。
こちらのやりとりには顔も上げない。
使いの二人は手綱を持ったまま、どちらへも渡さずにいる。
年上の男はしばらく僕と霧を見比べていた。
急かして出れば霧の中で穴を探りながら進むことになる。
待って穴が見えるなら、その方が結局は早い。
息を一つ吐いて、荷のそばに腰を下ろした。
「……半刻だな。外れてたら、あんたのせいだ」
「はい」
待つ間、荷車の車輪を一つずつ見て回った。
輻の緩み。輪の減り。
片方だけ減った輪は深い轍で余計に傾く。二台ともまだ使えた。
積み方は直させてもらった。
重い木箱を後ろへ。前輪を軽くする。
理由を言うと、使いは何も聞かずに手を貸してくれた。
三人組は火も焚かずに固まって座っていた。
若いのだけが時々こちらの手元を見ている。
見られて困る手ではないから止めなかった。
霧はゆっくり薄くなっていった。
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ちょうど半刻経つ頃に、霧は荷だまりの端から切れ始めた。
草の露が光る。街道の先の白さが薄れて、遠くの木立が形を持ち始めている。
「出しましょう。着く頃には低地も見えます」
荷車が動き出す。
僕が先に立ち、セナが最後尾についた。
三人は二台の脇に散った。
低地に入ると、道はまだ薄く白かった。
草の壁の間に霧が膝の高さで残っている。
車輪の音だけが低く続いた。
「なんだ、まだ残ってるじゃねえか」
年上の男が言った時、日が草の上まで届いた。
膝の霧が割れて流れる。
道の真ん中に昨日の轍が黒く口を開けていた。
男の足が止まった。
穴の縁に立って覗き込む。底の水が空を映して光っていた。
指の節で測った深さは上から覗くともっと深く見える。
車輪の高さの半分は飲む深さだ。
男は何も言わなかった。
穴と自分の足と歩いてきた白い道を順に見て、それきり黙った。
半歩下がって、後ろの荷車を手で制する。
「ここで一度止めます」
先頭の荷車を止めて板を下ろした。
二枚を轍に渡し、車輪の幅に合わせる。
端が土を噛むよう踵で二度踏んで沈めた。これで渡る間に板がずれない。
「ゆっくり。板の上をまっすぐ」
手綱を持つ使いに車輪の道筋を手で示す。
先頭の荷車が板に乗った。木がわずかにたわむ。車輪は沈まずに越えた。
板を上げて二台目の前へ渡し直す。
腰を上げた僕より先に若いのが板の端を持っていた。
何も言わずに位置を合わせてくる。
踵で二度踏むところまで同じにやった。一台目で見ていた通りだ。
二台目も越えた。
セナは最後尾から前へ回って、三人組の側の荷縄を黙って締め直していた。
渡りの前後で荷は揺れる。緩んだ縄は箱の角に擦れて切れる。
締め終わると縄の端をひとつ叩いて、自分の持ち場へ戻っていく。
低地の半ばを過ぎた頃、道の脇の草の奥で水の動く音がした。
沼が近い。姿は見えない。
草が一度大きく揺れた。
年上の男が剣の柄に手をかける。
「抜かなくていいです。水際の小物です。荷の音では寄ってきません」
僕は足を止めずに言った。
草の揺れは腰より低い。それきり動かなかった。
男の手が柄から離れる。
離れたあとで僕の顔を一度見た。
低地の残りは硬い場所を選んで進んだ。
車輪の道筋だけ声で伝える。
気づくと、年上の男は僕の歩幅で歩いていた。
どこで止まるか、どこで荷を寄せるか、先に僕の方を見る。
名前は聞かれなかった。僕も名乗らなかった。
低地を抜けると道は乾いて上がっていった。
ここから先はただの街道だ。
巡回として見るものは見ておく。
魔物の痕は水際の一筋だけ。荷を狙う獣の足跡はない。
ノートに入れる分を頭の中で並べながら歩いた。
昼を回って、荷は先の集落に着いた。
荷主の先方が木箱の数を確かめて、控えに判を押す。
木箱は一つも落ちず、濡れた縄もない。誰の靴も膝から下しか汚れていなかった。
帰りは空の荷車だった。
軽くなった荷車は板なしで低地を抜けられる。
行きに板を渡した場所を帰りはそのまま通り過ぎた。
穴はそのまま、白い水を溜めて残っていた。
街道口で三人と分かれた。
年上の男は別れ際に一度こちらを振り返って、結局手だけ上げた。
若いのは空の荷車から板を下ろすところまで手伝ってから、二人を追いかけていった。
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夕方、ギルドに戻った。
中は朝より空いている。
掲示板の紙はあらかた剥がされて、端に割の悪そうな紙が二枚だけ残っていた。
三日のあいだ沼地の紙が下がっていたあたりだ。
精算の列には依頼帰りが数人並んでいる。
列の進みに合わせて判の乾いた音が同じ間で届いた。
窓口にはミラさんが座っていた。
沼地の紙と荷主の判の入った控えを出す。
ミラさんが手元の書類から顔を上げると、紙と控えを見比べて手が止まる。
「……もう終わったんですか」
「はい。荷も無事に着きました」
もう一度控えを見て、それから棚の綴りを出して日付を指で辿った。
「この道は、行って戻るだけでたいてい日をまたぎます。道が悪いので」
「道は悪かったです。ただ、悪い場所は決まっていました」
「……どうやって」
「前の日に見てきました。穴の場所さえ分かれば、板を使うと早く渡れます」
紙を揃える手が少し止まって、また動いた。
「……順番に、片付けられたんですね」
段取りを褒める時にも、この人はその言葉を使う。
「巡回の分もご報告をお願いします」
「道は低地の霧と泥です。魔物は水際の小物が一度、出ませんでした。荷を狙う獣の跡はありません」
ミラさんはそれを綴りに書き取った。
それ以上は一度も聞き返さず、初日と同じペンの速さで欄を埋めていき最後に判が置かれた。
完了の印は受理の印の隣に寸分違わない向きで並んだ。
「お疲れさまでした。報酬はこちらです」
銅貨が数えられて控えの上に載る。全部で80枚。
数える手つきは速くて途中で止まらない。
ただ、渡し終える時に顔を上げて、僕とセナを一度ずつ見た。
昨日、紙を出した時にはしなかったことだ。
「完了の控えは支部に残ります。……こういう紙でも、実績は実績ですので」
「はい。ありがとうございます」
ミラさんは短く頷いて、次の人を呼んだ。
外に出ると日が落ちかけていた。
通りの店が戸を閉め始めている。
セナが銅貨の袋を手の中で一度弾ませた。
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宿に戻ると鍛冶の音はもう止んでいた。
昼の間じゅう重なっていた槌の音が夜は一つも鳴らない。
かわりに広間の大竈で残り火が爆ぜる音と、他の泊まり客の低い話し声がする。
板は帰りに主人へ返した。
借り賃の代わりに銅貨を2枚添えた。
大竈の火を掻き起こして湯が沸くまでの間、ノートを開いた。
依頼の欄。確かめることを三つ書いた行だ。
沼地の道はどう悪いのか。
出る魔物は何か。
前に受けた者はいたのか。
三つとも、上から線を引いて消した。
その下に今日の分を足す。
低地の轍は曲がりから六十歩。板二枚で渡れる。霧は昼前に切れる。水際の小物は荷に寄らない。
次に受ける誰かが読んで使える形で。
報酬は卓の上で二つの山に分けた。
主人に渡したぶんを引いても、39枚ずつ。
下見に歩いた昨日の夕方はどちらの山にも入っていない。
セナが茶を淹れて、片方の山の横に椀を置いた。
自分の椀は自分の山の横だ。
「一日でこれだけかあ。軽いねえ」
「うん」
「でも日のあるうちに終わったじゃん。こういうの、久しぶりかも」
セナは自分の山を手のひらに落として革袋にしまった。
分け方は聞かれなかった。
「明日も朝一だよね」
「うん。開いてすぐじゃないと残り物になる」
「じゃあ次は、もうちょっと割のいいの探そう」
途中、ユルが広間に降りて来て、飯だけ食べるとすぐ二階へ上がった。
マルセルの姿は朝から広間になかった。
帳場の脇に掛けた荷も、朝に見た形から動いていない。
セナが椀を持ったまま、その荷へ一度目をやった。
「マルセル、朝から見てないね」
「うん。別で出るとだけ聞いてるけど」
それ以上は聞かなかった。
セナは椀を長机の端に戻すと、階段口で振り返る。
「また明日ね」
「うん。おやすみ」
セナが三階へ上がっていく。
上の廊下でエマと交わす短い声がして、すぐ静かになった。
火の落ちかけた大竈が時々小さく鳴る。
大通りの音は遠い。
戸の外を足音がいくつか通り過ぎていく。
どれもマルセルの戻る気配ではなかった。
ランプを消すと、帳場の脇の荷が暗がりの中で輪郭だけになった。
それを残して二階へ上がった。




