第57話「知らない顔」
昼前から街道の人通りが増え始めた。
荷車が僕たちを追い越していく。
向かいから来る行商人がすれ違いざまに道の端へ寄れと手を振った。
壁が見えたのはそれからすぐだ。
クレウスの壁は丘の上から見た輪郭より高い。
近づくほどに、壁の上の見張り台と旗の数が増えていく。
街道は途中で二手に分かれていた。
手前側に見える南側の門へ回る列は長い。
荷馬車と商隊が数珠つなぎになっている。
荷を検める兵が列の間を行き来していた。
マルセルの言った通り、僕たちは北側へ回った。
街道からは北側の門の方が遠いぶん、慣れていない者は南側に向かう。
回り道をする北側の門を目指す列は短い。
門番はプレートを一瞥して顎で先を示すと、それで終わりだった。
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門をくぐった途端、体が人の波に呑まれた。
内側は広場になっていて、人の流れが三つに割れていた。
大通りへ向かう流れがいちばん太い。
僕たちはその流れに押し込まれるように入った。
音が増えた。荷車の車輪。呼び込みの声。遠くで重なる槌の音。訛りの強い言葉。
去年の冬にも同じことがあった。あの時は音の量に驚いた。
今日は音の中身を数えている。これから毎日この音の中で暮らすことになる。
大通りはまるで大きな河のようだ。
人と荷車が両岸に分かれて流れ、真ん中を早馬が抜けていく。
道の幅はテルナの倍以上はある。
肩がぶつかりそうでぶつからない。
みんな人を避ける歩き方が身についている。
前を行くマルセルが手だけで合図して、荷車の切れ間に僕らを渡らせた。
セナが屋台の呼び込みに一度足を止めて、慌てて追いついてきた。
それからは半歩近くを歩いた。はぐれない距離を測る歩幅だ。
少し歩いた先の辻で、ナギが足を止めた。
「じゃあ、ボクらは東側だから」
帽子のつばはもう目深に下りていた。
レオが僕の肩を一度叩く。
「裏道は今度だ。落ち着いたらな」
「うん。また」
二人は人混みに入ってすぐ見えなくなった。
背の高いレオまで数歩で紛れていく。
ナギの足は人波の切れ目を選んで進んでいた。
初めての街を歩く足ではなかった。
マルセルの言っていた鍛冶通りに入ると空気が変わった。
炭と鉄の匂い。槌の音が右からも左からも重なって届く。
村の家の裏では、父さんの槌はいつも一つだけ鳴っていた。
朝に火が入ると、夕方まで同じ調子で続く音だ。
ここでは聞き分けるそばから増えていく。
軒先に炭俵が積まれ、店の奥から焼けた鉄の気が流れてくる。
研ぎに出すのか、鍋を抱えた子どもが店先で順を待っていた。
先頭のマルセルは角を三つ曲がる間、一度も足を止めなかった。
地図を見ない。人にも聞かない。
通りの北の突き当たりには三階建ての宿があった。
出てきたのは中年の主人だった。マルセルが泊まりの相談を切り出す。
主人が部屋の値を言う前に、マルセルが先に相場を口にした。
「月貸しで五部屋。一部屋、銅貨120でどうだ」
主人が目を丸くして、それから頷いた。
交渉と呼べるものはほとんどなかった。
「月貸しの宿は日で借りるより安く上がる。この街じゃ長逗留の連中がこういう宿を使う」
マルセルが僕らに向かって言い足す。
主人は帳場の奥から鍵を五つ持ってきた。
「女の二人は三階だ。男連中は二階」
主人はそれだけ言った。
一人一部屋を借りることにした。
二階がマルセルとユル、それに僕。三階がエマとセナだ。
部屋は板の間に木の寝台と小さな竈、それに棚だけの造りになっている。
湯を沸かすか粥を炊くくらいの竈だ。
依頼での宿と違い、明日も明後日もこの寝台で寝る。
荷を解くとそれだけで部屋の半分が埋まった。
窓は一つで、開けると鍛冶の音がそのまま入ってくる。
閉めると音は半分になって、匂いだけが残った。
壁の向こうで誰かが竈に火を入れる音がする。
路地に夕方の煙が流れて、知らない家の飯の匂いがした。
一階の広間に降りると、みんなが荷を置いて集まっていた。
土間に大きな竈があって、長机が一つ。夕餉も繕い物もここでやるらしい。
「水場は近いが、朝は混む。汲むなら夜のうちだ」
マルセルが階段口でそう言った。
エマが広間の入口でその背中を一度だけ見て、何も言わずに机の端へ荷を置いた。
僕はノートに宿の場所を書いた。
書きながら、書かないことを一つ数える。
この人がこの街に詳しすぎることは書かない。
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「ギルドには夕方に行く」
マルセルがそう決めた。
理由は言わなかったし僕も聞くことはなかった。
ギルドは去年の冬に見た建物のままだ。
中は意外と空いている。
受付が五つ。掲示板は壁の一面を埋めている。
精算の列に依頼帰りが数人。奥の卓で書類を書く者が一人。
壁際の長椅子では装備のいい二人組が地図を広げていた。
テルナの支部より広いのに声はかえって少ない。
マルセルの言った通りだった。
あの時は貼られた紙の桁を数えた。
今日は窓口の列の短さを確かめてから、ルナ叔母さんの言いつけを思い出した。
テルナを発つ前の日、叔母さんが一通の紙を寄越した。
表書きにはクレウス支部のミラという名前だけがあった。
「向こうに着いたら、ミラって受付に渡しな」
端の窓口で尋ねると、書類を揃えていた受付が顔を上げた。
髪をきっちり結い上げて後れ毛の一本もない人だった。
「ミラは私ですが」
その声に聞き覚えがあった。
去年の冬、順番通りにね、と言った受付の人だ。
声も書類を揃える手つきも変わっていない。
「拠点をテルナからこちらに移したいんです。五人ぶんです。それと、これを預かってきました」
紹介状を差し出すと、ミラさんは両手で受け取って開けずに脇へ置いた。
「手続きの順番として、先に書類をお願いします。お手紙はその後に拝見します」
順番。
口元が緩んだ。
テルナの受付台で何度も聞いた言葉を、離れた街でも見つけた。
書く欄は多くない。名前とランクと適性。
五人分の書類を書き終えてミラさんへ渡す際に、テルナ支部で貰った判の写しを添える。
書類を受け取った後のミラさんの手は速い。プレートを確かめ、写して、判を押す。判の位置は毎回同じだ。
その手が僕の書類の上で止まった。
「魔力……ゼロ?」
顔が上がる。僕とプレートを二度見比べた。
「記入のお間違いではありませんか。適性の欄は、空欄にはできない規定ですので」
「合ってます。ゼロです」
何度も答えてきた問いだ。この街ではこれが一つ目になる。
セナは横で自分のプレートを揃えている。
マルセルは壁の掲示を見たままだ。
ユルは荷の紐を結び直し、エマは欠伸を噛み殺している。
誰も口を挟まない。この窓口で驚いているのは一人だけだった。
ミラさんはもう一度書類を見て席を立った。
奥の棚から規定の綴りを持ってきて指で辿る。
戻ってきた時には迷いが消えていた。
「……規定の上では、数字が入っていれば受理できます。ゼロも数字ですので」
そう言って判を置いた。
声は事務のままだった。
間違いでないなら手続きは進む。
窓口とはそういうものだ。
移しが終わると、ミラさんは脇の紹介状を取り上げて開いた。
読み始めてすぐ背筋が伸びた。
もともと伸びていた背筋がもう一段伸びた。
「テルナ支部のルナさんには、新人の頃に……いえ」
言いかけた続きを飲み込んで居住まいを直す。
「手紙には村への薬の便のことが書いてあります。テルナ支部から村へ送る段取りだと。それと、お金のことも」
村への薬便のことだ。手配は叔母さんが先に通してくれていた。
金のことにも、覚えはあった。
発つ前にもう一度、薬代は僕が送ると言った。叔母さんは返事をしなかった。
代わりに持たされたのが、この紹介状だった。
「毎月の精算で報酬から銀貨3枚をこちらでお預かりします。
月に一度、テルナ支部のルナさん宛てに為替で送ります。手紙にはそうあります」
「はい。よろしくお願いします」
「便賃と頻度だけこちらで確かめさせてください」
ミラさんは紹介状の端を指で押さえて、便の日程を書き出してくれた。
西回りの荷の便が十日に一度。村へはそこから先を叔母さんの伝手が繋ぐ。
「お薬の包みでしたら、手紙と同じ口で載せられます。月に一度で、便賃はこちら。次の便は五日後です」
五日後。
着いたばかりの街から、もう村に向けて何かが出ていく。
五日歩いてきた先でも、僕はまだ叔母さんの段取りの中にいた。
控えの隅には窓口の番号と担当の名前が書き添えてあった。
ご用の際はこの窓口へ、と定規で引いたような字が並んでいる。
「あの。前に一度、この窓口で話したことがあります。去年の冬です」
ミラさんが手を止めて僕の顔を見た。
「……ごめんなさい。去年に一度となると流石に」
「いえ。ありがとうございました」
謝ることではない。
この窓口の前を一日に何十人が通るんだろう。
僕は覚えている側で、この街はまだ僕を覚えていない。
帰りしなに掲示板の前を通った。
夕方の板には剥がされた跡だけが並んでいる。
朝が勝負らしい。
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夜になると宿の壁と床は薄かった。
上の階からエマの笑い声が一度だけ届いた。
遠くでは大通りの音がまだ続いている。
テルナの宿では、朝の鐘と下の食堂の鍋の音を体が待っていた。
この街の音はまだどれも僕の体には住んでいない。
どの音が朝を知らせるのか、どの音で一日が終わるのか。
それもこれから覚えていく。
寝台は依頼で泊まった宿のものより硬い。
その硬さもまだ馴染んでいない。
便に載せる手紙のことを考えた。
着いたこと。宿のこと。薬はこれまで通り届くこと。
書くことはもう決まっている。
一階の広間に降りると大竈の火はもう落ちていた。
長机の端にランプが一つ残っている。
机の上には解れた糸くずがそのまま散っていた。
ランプを寄せてノートを開いた。
東の街の欄。
テルナを出た朝に枠を引いて、一行わざと空けたままにしてあった行だ。
その空欄に一行を書き足す。
──ミラ、クレウスの窓口。村への便。十日に一度、テルナ経由。
母さんの薬の行でもあり、この街で最初に名前を覚えた人の行でもある。
何を書くのかと空けておいた行に、両方が一度に入った。
戸口でセナが外を見ていた。
路地の先に大通りの灯りがまだ滲んでいる。
「テルナより夜が明るいね」
「うん」
「明日はどうするの」
「朝一で掲示板。いい紙は朝のうちに消えるみたいだから」
「じゃあ、早寝だね」
セナは戸口の柱に肩を預けたまま、しばらく黙っていた。
「着いたね」
「うん、着いた」
それだけで足りる相手と、知らない街に来た。
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翌朝、ギルドの前には戸が開く前から人の列ができていた。
戸が開くと、並んでいた連中は掲示板へまっすぐ流れた。
順々と紙が剥がされていく。
桁のいい討伐。街中の常設。名の知れた隊の補充。
どの手も迷わない。
はじめから取る紙を決めてあるような動きだ。
貼り出す職員の後ろにはもう次の手が待っている。
割りの良い依頼が朝のうちに消えていくのはテルナでもクレウスでも同じだ。
いつか自分とセナの足でこの街の掲示板の前に立つ。去年の冬そう考えた。
立ってみて見えたのは、紙の桁じゃなく剥がされていく速さだった。
大柄な男が僕らの横で足を止めた。
マルセルの胸のプレートに目を落とす。
「見ない顔だな。……Cランク? どこの支部の」
「西の方だ」
マルセルが短く返すと、男は鼻を鳴らして仲間の方へ戻っていった。
西の方。
鍛冶通りの相場を言い当てた人が、西から来たことになっている。
僕は何も言わなかった。
掲示板に残ったのは端の方の紙だった。
沼地寄りの街道の巡回。
魔物の出は渋いのに道が悪い。荷運びの補助。報酬は薄い。
剥がす手が最後まで伸びなかった紙だ。
「新入りはああいうのからだ」
通りすがりの誰かが僕たちに聞こえるように言うと、それを聞いたセナの口が動いた。
「……絶対」
声にならない声だった。
拳でも睨みでもなく、ただ低く、口の中で。
聞こえたのは僕だけだと思う。
僕は端の紙を一枚剥がした。
横のセナに見せると、しまいまで読む前に頷きが返ってきた。
エマが横から紙を覗き込んで眉を上げる。
「沼地かあ。……ま、いいんじゃない」
「しばらく俺たちは俺たちで動く。それはお前らの仕事だ」
マルセルはそう言って壁の掲示に向き直った。
窓口へ持っていくと、ミラさんが僕の顔と紙を見比べた。
「……こちらは三日ほど誰も取っていませんが」
「はい。僕とセナの二人で受けます」
宿へ戻る道でノートに新しい欄を作った。
依頼の欄。最初の行に、報酬でも道順でもなく確かめることを三つ書いた。
沼地の道はどう悪いのか。出る魔物は何か。前に受けた者はいたのか。
誰も取らない理由は紙には書かれていない。
書かれていないなら調べられる。
マルセルが人足だまりの場所を教えてくれている。
「荷運びの連中は昼にあそこに溜まる。あの街道を使う組もいる」
マルセルはそれだけ言って、あとは僕に任せた。
教わった場所で声をかけると、前にあの依頼を受けた組のことが聞けた。
魔物のことは、ギルドで精算を終えた年寄りの組にエマが繋いでくれた。
「あんたら、沼地を受けたんだって? あそこなら、この人らが詳しいよ」
エマが顎で示した先に、精算帰りの組がいた。
話を向けると、出るのは水際の小物ばかりで群れないと教えてくれた。
ただ、霧の朝は数が読めないそうだ。
その日のうちに三つのうち二つが埋まった。
残りの一つは、行ってみないと分からないことだった。




