表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
61/94

第56話「空欄」

出発の朝は部屋の暗さの中で始まった。


ランプを一つ灯して荷を確かめる。

着替えと毛布。それに父さんの小刀。

二年かけて増えたものが袋一つに収まった。


締める前にノートを一度だけ開いた。

東の街の欄はまだ白い。

白いまま、一番上に入れた。


壁の釘にはもう何も掛かっていない。

部屋が、僕たちの来る前の形に戻っている。


窓の外はまだ暗い。

二年分の朝をこの部屋で数えた。

最後の朝は鐘より早い。


向かいの戸はもう開いていた。

中は空で、荷も毛布も残っていない。


階段を下りると食堂はまだ暗く、鍋の音も始まっていない。

その暗がりの中にセナが立っていた。


卓にはセナの鍵が先に置いてある。

隣に僕の鍵を並べて、戸を押して外に出た。


---


通りに人影はない。

鐘楼の輪郭だけが明けきらない空に黒く立っている。


東の門では門番が眠そうに閂を上げている。

くぐる頃に僕はいつもの癖で耳を澄ました。


テルナにいた頃は朝の鐘が四回鳴った。

宿では下の食堂で鍋を動かす音がした。

どちらも目を覚ます前から体が待っている音だ。


その音は、門の外まで届かない。


今はクレウスへ続く街道の上だ。

これからの幾日も鐘も鍋の音もない道を歩く。

体の方はまだテルナの音を探していた。


冬の入口の空気は頬に触れると薄く湿っている。

下草の先に白いものが残っていた。

霜にはまだ早い。夜のうちに露が冷えただけだ。

息を吐くと白くなって流れた。


朝日が正面にある。

東へまっすぐ、クレウスはその光の向こうだ。


戻る場所は背中の方にある。

それを背にして、僕は自分から離れていく。


荷馬車のない道は足音がむき出しになる。

背中の先にあるミルヴァ村への行きでは、馬車の荷台を僕とセナ、それとナギで守った。

車輪の軋みと馬のいななきがいつも自分たちの足音を隠していた。


今度の道は自分たちの足だけだ。


先頭のマルセルは歩幅が広くて雑だ。

すぐ後ろのナギは刻みが乱れない。

エマとユルは中ほどで低い声を交わしている。


横のセナはときどき僕に合わせて半拍だけ崩れる。

列のいちばん後ろでレオの足音が一つだけ遠かった。


七人いて、ひと塊ではない。

レオの足音の遠さを僕は数えるだけにした。


歩きながらノートを開いた。


東の街の欄に最初の一行を入れる。

あと何日でどこまで歩くかを書いて、その下を一行だけ空けておいた。


ペン先が一度止まって次の行へ送る。

空けた行に何を書くのかはまだ決めない。

その街をまだ何も知らないからだ。


目を上げると、前を行くナギが帽子のつばを直していた。


---


その日の夕方、街道沿いの集落に着いた。


見習いの依頼で初めて街の外に出た時に泊まり、冬の長い依頼でも通った集落だ。

宿屋も主人の無口も変わっていない。


戸をくぐると主人が僕の手元を一瞥して奥の角の卓を顎で示した。

注文を聞く声はなかった。

うっすらと顔を覚えられている。


部屋は二人ずつに割られた。

マルセルとユル、エマとセナ。

僕はレオと同じ部屋だ。

ナギだけが一人、扉一つ向こうの小部屋に入っていく。

それを誰も聞かなかった。


茶が一杯ずつ出てきた。

葉の色がテルナの宿のものより濃い。

東から来る葉ほど色が濃い。前の依頼で商人がそう言っていた。


口に含むと苦みが舌の奥に長く残る。

飲み込んでも苦さはしばらく消えない。


椀を両手で包むと冷えた指に熱が移ってくる。

もうひと口含んで、苦さの奥を探した。

これから向かう街の味だ。


新しい街でなら、母さんの病を診られる誰かに会えるかもしれない。

母さんはこの頃、台所に立てる日が増えたと村で聞いた。

それでも病が消えたわけではない。


僕が東へ向かう理由の半分はそこにある。

残りの半分が何なのかは、まだ自分でも分からない。


精算のついでにクレウスのことを聞いた。

主人は答える前に一度だけ手を止めた。


「あすこは……まあ、人が多い」


それきり続きは言わなかった。

人が多いと言ったときの目が遠くを見ていた。


東の街の欄にその一言だけ書き足した。


部屋に入るとレオが荷を下ろし、壁に背を預けずに座った。

また発つ前提の座り方だ。

気づくと僕も同じ座り方をしていた。


天井の梁の節を何の気なしに数えた。

村の家でもテルナの宿でも、こうして数える癖があった。

三つ数えたところで、レオが口を開いた。


「早く寝ておけ。明日は野営だ」


それだけ言って、自分は壁の方を向いた。

僕も何も聞かなかった。


---


二日目は街道沿いの空き地で野営になった。


輪の反対側で、マルセルとユル、エマが革袋を回している。

エマが首を傾けて笑うたび、火が横顔を照らした。

低い笑いは時々こちらまで届いた。


火を囲んでノートを開いているとナギが横から覗き込んできた。

見ているのは文字の並んだページではない。

まだ白い東の街の欄だ。


「キミはまだ何も知らない街の欄をもう引いてあるんだね」


問いではない。

ナギは答えを待たず、既に火の方へ目を戻している。

僕も黙ってノートを閉じた。


火が爆ぜて小さな粉が舞い上がる。

冬の入口の夜は火から離れると背中がすぐ冷える。


ナギが帽子のつばを一度下げた。

明かりの届かない東の闇。

そちらへ体を向けたまま何も言わない。


「着いたら、ボクは少し別の道を行くよ」


それだけ言って口を閉じた。

どの道を、とは言わない。

僕も聞かなかった。


火の輪の半分外でレオが杖の手入れをしていた。

いつもより体が後ろに引いて、炎から遠い。

ナギが東を見たとき、その手が一度止まる。

止まっただけで、また動き出した。


二人とも、向かう街に何かを置いてきた顔をしている。

それが何かはまだ僕の知らないことだ。


セナが毛布を巻き直しながら言った。


「行きの道、覚えてる?」

「途中までは」


この道を歩くのは三度目だ。前の二回は商隊について同じ東へ向かった。

二年、セナと同じ道をいくつも歩いてきた。

言葉の要らない間がいつのまにか長くなっている。


火がもう一度爆ぜて、誰かの寝息が混じる。

七人ぶんの寝息と火の音だけが夜の街道に残っていた。


この音を連れて僕らは東へ移っていく。


---


三日目の夜、火の番が僕とレオに回ってきた。


ほかの皆はもう毛布にくるまっている。

レオは火のそばで剣を手入れしていた。

砥石の当て方が村へ向かう道のときより丁寧だ。時間も長い。


刃を拭いて一度は鞘に戻しかける。

それからまた抜いて火にかざした。

刃の縁が火を映して細く光る。


ふと、声をかけてみたくなった。


「レオって魔法も使うのに、剣も使うんだ」


レオは手を止めずに答えた。


「ああ、魔法の方が得意だが、こっちもいける」


一度刃を鞘に納めかけて、また抜く。


「すごいね。僕はどっちも持ってないから」


レオは何か言いかけて、口を閉じた。

かわりに火へ薪を一本くべる。

聞き返す間もなかった。


しばらくして、レオの方から口を開いた。


「クレウス、あと二日ってところだな」

「そうだね。そういえば、ナギはクレウスの出身って言ってたけど、レオもそうなの?」

「俺は、そうだな。生まれは違うが、あの街の出と言っても違いない」


「生まれは違うが、あの街の出」という言葉に少し引っかかった。

幼い頃にクレウスに移り住んだ、と言うわけではない気がする。

とはいえ、この話も今夜はこれ以上は続かなかった。


「そうなんだ。まだ二回しか行ったことないけど、クレウスは街の大きさも人の数もテルナとは段違いだよね」

「お前たちが最後に行ったのは去年の冬だったか。あれでも空いてる方だぞ」


クレウス街へは去年の冬、依頼で歩いた。

人の多さも道の広さもまだ覚えている。


「昼の大通りは避けた方が良い。治安は悪くないがそれでもスリはいる。

あの街に慣れてないやつは、人に揉まれてる間にカモにされやすい」


レオが刃を鞘に納めた。剣の手入れも終わったようだ。


「それに、裏道は意外と近道も多いからな。向こうに着いたら教えてやるよ」


街の歩き方を地図も見ずに言う。

これはマルセルとは違う回り方だ。

マルセルは知った顔を避けて道を選ぶ。

レオは近い道を当たり前に選んでいる。


「それと、俺とナギはクレウスに着いたら東側の宿だ。多分お前達とは別のところだろう」

「……うん」


僕はそれだけ返した。


二人はマルセルとは違う。僕たちとパーティを組んでいるわけではない。

そんなことを考えていると、レオが自分の包みを開いて干し肉を一切れ寄越してきた。


「お前の、減ってきてるだろ」


受け取ると、レオは礼を待たずにまた火の方へ目を戻した。

減ったものにすぐ気づくくせに、気づいたと悟らせない。

こういう手の貸し方をする男だと、この秋の道中で分かってきた。


---


翌日の夕方、街道が小高い丘に差し掛かった。


登りに入ると道の脇の枯れ草が短くなる。

丘の上は風の通り道で、草が皆同じ向きに倒れていた。


初めてこの道を歩いた冬も、丘を越えた瞬間にクレウスが見えてくる。

あの日、マルセルは丘の上で少しだけ足を止めた。

帰りたくない場所を遠くに見つけた。そんな止まり方だった。


今日のマルセルは止まらない。

先頭のまま丘を越えていく。


ナギが片手で帽子を押さえて続いた。

レオの足音は登りでも間隔が変わらない。

エマとユルの低い声だけが、登りでも途切れずに続いていた。


足を止めたのは僕の方だった。


登りの途中で半歩だけ歩幅が縮む。

息を一度、長く吐いた。

冷えた空気が胸の奥で固まる。


風が背中の側から抜けていく。

テルナの方から吹いてくる風だ。


テルナを出て四日、東へ運んできた足がこの丘で初めて止まった。

止まったところで何かが変わるわけでもない。

それでも一度だけ、ここで止まりたかった。


振り返っても街道と枯れ野が続くだけで、テルナの屋根はもう見えない。

見えないと分かっていて、それでも一度振り返った。

見えないものを確かめる癖がいつのまにかついている。


前へ向き直ると、セナは僕の横を、一度も振り返らず歩幅も変えずに越えていた。

冬にこの道の反対側で足を止めたのはセナだった。


追い越しても声はかけてこない。

数歩先で歩みが緩んだ。

追いつくと、また元の速さに戻った。


丘の上でノートを開いた。

ページの欄を探すのに一拍かかる。

マルセルの歩き方のことだけを一行書いた。

歩きながら書く字は揺れる。揺れた字のまま残しておく。


丘を越えると遠くにクレウスの輪郭が見えた。

暮れ残った西日が、街の縁だけを薄く浮かせている。

丘から先の道は枯れ野を割って、そこまでまっすぐ伸びていた。


冬のあのときは、商隊の荷の後ろからこの街を見ていた。

荷の間から切れ切れに見えて、それでも大きい街だと思った。

今は遮るものがない。

自分の足で、その大きさの中に何があるのかを確かめに行く。


たどり着くのはあと一日先になる。


---


クレウスの手前で最後の夜を迎えた。


明日の昼には街に着く。

近づくにつれて一行の歩き方がだんだん変わってきた。


マルセルの足の運びから余白が消えていく。

冬にクレウスの中を歩いたとき、この男はこういう歩き方をしていた。

知った顔を避ける、無駄のない運びだ。


ナギは帽子を目深にし直す回数が増えていた。

小柄な背がいつもより縮んで見える。


明日になれば、二人とも街に紛れていく。

それぞれの帰る場所へ、別の道で。

僕とセナだけが、何も知らないままその街へ入っていく。


火のそばで僕はノートを開いた。


開いた拍子にナギが帽子の縁に指をやった。

同じ瞬間、マルセルの手が一度だけ上着の胸元に触れ、東の方角から目を逸らす。


火が、二つの横顔を半分だけ照らしている。

片方は帽子の縁に目を落とし、片方は東の闇を見つめている。

どちらも、こちらを見ていなかった。


マルセルが、火を見たまま口を開いた。


「明日の昼には街に着く。北側の門を通るぞ。南側の門は検めが長い」


一度間を置いて続ける。


「長屋を探すなら鍛冶通りの北だな。あのへんは相場が崩れてない」


聞いてもいないのに、一つ二つ漏らした。

言い終えてから雑に付け足す。


「……まあ、昔の話だがな」


マルセルは地図も見ずに街を諳んじた。

同じ札で入る街なのに、入り方を知っているのはこの人で、僕ではない。


僕の東の街の欄と、マルセルの胸元の紙。

どちらもまだ中身は読めない。


火が落ちる前にその欄をもう一度開いた。

明日、ここに最初の一行が入る。

それが母さんの薬のことになるのか、この街で会う誰かのことになるのか。


火のそばに、こちらを見ていない横顔が二つあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ