第56話「空欄」
出発の朝は部屋の暗さの中で始まった。
ランプを一つ灯して荷を確かめる。
着替えと毛布。それに父さんの小刀。
二年かけて増えたものが袋一つに収まった。
締める前にノートを一度だけ開いた。
東の街の欄はまだ白い。
白いまま、一番上に入れた。
壁の釘にはもう何も掛かっていない。
部屋が、僕たちの来る前の形に戻っている。
窓の外はまだ暗い。
二年分の朝をこの部屋で数えた。
最後の朝は鐘より早い。
向かいの戸はもう開いていた。
中は空で、荷も毛布も残っていない。
階段を下りると食堂はまだ暗く、鍋の音も始まっていない。
その暗がりの中にセナが立っていた。
卓にはセナの鍵が先に置いてある。
隣に僕の鍵を並べて、戸を押して外に出た。
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通りに人影はない。
鐘楼の輪郭だけが明けきらない空に黒く立っている。
東の門では門番が眠そうに閂を上げている。
くぐる頃に僕はいつもの癖で耳を澄ました。
テルナにいた頃は朝の鐘が四回鳴った。
宿では下の食堂で鍋を動かす音がした。
どちらも目を覚ます前から体が待っている音だ。
その音は、門の外まで届かない。
今はクレウスへ続く街道の上だ。
これからの幾日も鐘も鍋の音もない道を歩く。
体の方はまだテルナの音を探していた。
冬の入口の空気は頬に触れると薄く湿っている。
下草の先に白いものが残っていた。
霜にはまだ早い。夜のうちに露が冷えただけだ。
息を吐くと白くなって流れた。
朝日が正面にある。
東へまっすぐ、クレウスはその光の向こうだ。
戻る場所は背中の方にある。
それを背にして、僕は自分から離れていく。
荷馬車のない道は足音がむき出しになる。
背中の先にあるミルヴァ村への行きでは、馬車の荷台を僕とセナ、それとナギで守った。
車輪の軋みと馬のいななきがいつも自分たちの足音を隠していた。
今度の道は自分たちの足だけだ。
先頭のマルセルは歩幅が広くて雑だ。
すぐ後ろのナギは刻みが乱れない。
エマとユルは中ほどで低い声を交わしている。
横のセナはときどき僕に合わせて半拍だけ崩れる。
列のいちばん後ろでレオの足音が一つだけ遠かった。
七人いて、ひと塊ではない。
レオの足音の遠さを僕は数えるだけにした。
歩きながらノートを開いた。
東の街の欄に最初の一行を入れる。
あと何日でどこまで歩くかを書いて、その下を一行だけ空けておいた。
ペン先が一度止まって次の行へ送る。
空けた行に何を書くのかはまだ決めない。
その街をまだ何も知らないからだ。
目を上げると、前を行くナギが帽子のつばを直していた。
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その日の夕方、街道沿いの集落に着いた。
見習いの依頼で初めて街の外に出た時に泊まり、冬の長い依頼でも通った集落だ。
宿屋も主人の無口も変わっていない。
戸をくぐると主人が僕の手元を一瞥して奥の角の卓を顎で示した。
注文を聞く声はなかった。
うっすらと顔を覚えられている。
部屋は二人ずつに割られた。
マルセルとユル、エマとセナ。
僕はレオと同じ部屋だ。
ナギだけが一人、扉一つ向こうの小部屋に入っていく。
それを誰も聞かなかった。
茶が一杯ずつ出てきた。
葉の色がテルナの宿のものより濃い。
東から来る葉ほど色が濃い。前の依頼で商人がそう言っていた。
口に含むと苦みが舌の奥に長く残る。
飲み込んでも苦さはしばらく消えない。
椀を両手で包むと冷えた指に熱が移ってくる。
もうひと口含んで、苦さの奥を探した。
これから向かう街の味だ。
新しい街でなら、母さんの病を診られる誰かに会えるかもしれない。
母さんはこの頃、台所に立てる日が増えたと村で聞いた。
それでも病が消えたわけではない。
僕が東へ向かう理由の半分はそこにある。
残りの半分が何なのかは、まだ自分でも分からない。
精算のついでにクレウスのことを聞いた。
主人は答える前に一度だけ手を止めた。
「あすこは……まあ、人が多い」
それきり続きは言わなかった。
人が多いと言ったときの目が遠くを見ていた。
東の街の欄にその一言だけ書き足した。
部屋に入るとレオが荷を下ろし、壁に背を預けずに座った。
また発つ前提の座り方だ。
気づくと僕も同じ座り方をしていた。
天井の梁の節を何の気なしに数えた。
村の家でもテルナの宿でも、こうして数える癖があった。
三つ数えたところで、レオが口を開いた。
「早く寝ておけ。明日は野営だ」
それだけ言って、自分は壁の方を向いた。
僕も何も聞かなかった。
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二日目は街道沿いの空き地で野営になった。
輪の反対側で、マルセルとユル、エマが革袋を回している。
エマが首を傾けて笑うたび、火が横顔を照らした。
低い笑いは時々こちらまで届いた。
火を囲んでノートを開いているとナギが横から覗き込んできた。
見ているのは文字の並んだページではない。
まだ白い東の街の欄だ。
「キミはまだ何も知らない街の欄をもう引いてあるんだね」
問いではない。
ナギは答えを待たず、既に火の方へ目を戻している。
僕も黙ってノートを閉じた。
火が爆ぜて小さな粉が舞い上がる。
冬の入口の夜は火から離れると背中がすぐ冷える。
ナギが帽子のつばを一度下げた。
明かりの届かない東の闇。
そちらへ体を向けたまま何も言わない。
「着いたら、ボクは少し別の道を行くよ」
それだけ言って口を閉じた。
どの道を、とは言わない。
僕も聞かなかった。
火の輪の半分外でレオが杖の手入れをしていた。
いつもより体が後ろに引いて、炎から遠い。
ナギが東を見たとき、その手が一度止まる。
止まっただけで、また動き出した。
二人とも、向かう街に何かを置いてきた顔をしている。
それが何かはまだ僕の知らないことだ。
セナが毛布を巻き直しながら言った。
「行きの道、覚えてる?」
「途中までは」
この道を歩くのは三度目だ。前の二回は商隊について同じ東へ向かった。
二年、セナと同じ道をいくつも歩いてきた。
言葉の要らない間がいつのまにか長くなっている。
火がもう一度爆ぜて、誰かの寝息が混じる。
七人ぶんの寝息と火の音だけが夜の街道に残っていた。
この音を連れて僕らは東へ移っていく。
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三日目の夜、火の番が僕とレオに回ってきた。
ほかの皆はもう毛布にくるまっている。
レオは火のそばで剣を手入れしていた。
砥石の当て方が村へ向かう道のときより丁寧だ。時間も長い。
刃を拭いて一度は鞘に戻しかける。
それからまた抜いて火にかざした。
刃の縁が火を映して細く光る。
ふと、声をかけてみたくなった。
「レオって魔法も使うのに、剣も使うんだ」
レオは手を止めずに答えた。
「ああ、魔法の方が得意だが、こっちもいける」
一度刃を鞘に納めかけて、また抜く。
「すごいね。僕はどっちも持ってないから」
レオは何か言いかけて、口を閉じた。
かわりに火へ薪を一本くべる。
聞き返す間もなかった。
しばらくして、レオの方から口を開いた。
「クレウス、あと二日ってところだな」
「そうだね。そういえば、ナギはクレウスの出身って言ってたけど、レオもそうなの?」
「俺は、そうだな。生まれは違うが、あの街の出と言っても違いない」
「生まれは違うが、あの街の出」という言葉に少し引っかかった。
幼い頃にクレウスに移り住んだ、と言うわけではない気がする。
とはいえ、この話も今夜はこれ以上は続かなかった。
「そうなんだ。まだ二回しか行ったことないけど、クレウスは街の大きさも人の数もテルナとは段違いだよね」
「お前たちが最後に行ったのは去年の冬だったか。あれでも空いてる方だぞ」
クレウス街へは去年の冬、依頼で歩いた。
人の多さも道の広さもまだ覚えている。
「昼の大通りは避けた方が良い。治安は悪くないがそれでもスリはいる。
あの街に慣れてないやつは、人に揉まれてる間にカモにされやすい」
レオが刃を鞘に納めた。剣の手入れも終わったようだ。
「それに、裏道は意外と近道も多いからな。向こうに着いたら教えてやるよ」
街の歩き方を地図も見ずに言う。
これはマルセルとは違う回り方だ。
マルセルは知った顔を避けて道を選ぶ。
レオは近い道を当たり前に選んでいる。
「それと、俺とナギはクレウスに着いたら東側の宿だ。多分お前達とは別のところだろう」
「……うん」
僕はそれだけ返した。
二人はマルセルとは違う。僕たちとパーティを組んでいるわけではない。
そんなことを考えていると、レオが自分の包みを開いて干し肉を一切れ寄越してきた。
「お前の、減ってきてるだろ」
受け取ると、レオは礼を待たずにまた火の方へ目を戻した。
減ったものにすぐ気づくくせに、気づいたと悟らせない。
こういう手の貸し方をする男だと、この秋の道中で分かってきた。
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翌日の夕方、街道が小高い丘に差し掛かった。
登りに入ると道の脇の枯れ草が短くなる。
丘の上は風の通り道で、草が皆同じ向きに倒れていた。
初めてこの道を歩いた冬も、丘を越えた瞬間にクレウスが見えてくる。
あの日、マルセルは丘の上で少しだけ足を止めた。
帰りたくない場所を遠くに見つけた。そんな止まり方だった。
今日のマルセルは止まらない。
先頭のまま丘を越えていく。
ナギが片手で帽子を押さえて続いた。
レオの足音は登りでも間隔が変わらない。
エマとユルの低い声だけが、登りでも途切れずに続いていた。
足を止めたのは僕の方だった。
登りの途中で半歩だけ歩幅が縮む。
息を一度、長く吐いた。
冷えた空気が胸の奥で固まる。
風が背中の側から抜けていく。
テルナの方から吹いてくる風だ。
テルナを出て四日、東へ運んできた足がこの丘で初めて止まった。
止まったところで何かが変わるわけでもない。
それでも一度だけ、ここで止まりたかった。
振り返っても街道と枯れ野が続くだけで、テルナの屋根はもう見えない。
見えないと分かっていて、それでも一度振り返った。
見えないものを確かめる癖がいつのまにかついている。
前へ向き直ると、セナは僕の横を、一度も振り返らず歩幅も変えずに越えていた。
冬にこの道の反対側で足を止めたのはセナだった。
追い越しても声はかけてこない。
数歩先で歩みが緩んだ。
追いつくと、また元の速さに戻った。
丘の上でノートを開いた。
ページの欄を探すのに一拍かかる。
マルセルの歩き方のことだけを一行書いた。
歩きながら書く字は揺れる。揺れた字のまま残しておく。
丘を越えると遠くにクレウスの輪郭が見えた。
暮れ残った西日が、街の縁だけを薄く浮かせている。
丘から先の道は枯れ野を割って、そこまでまっすぐ伸びていた。
冬のあのときは、商隊の荷の後ろからこの街を見ていた。
荷の間から切れ切れに見えて、それでも大きい街だと思った。
今は遮るものがない。
自分の足で、その大きさの中に何があるのかを確かめに行く。
たどり着くのはあと一日先になる。
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クレウスの手前で最後の夜を迎えた。
明日の昼には街に着く。
近づくにつれて一行の歩き方がだんだん変わってきた。
マルセルの足の運びから余白が消えていく。
冬にクレウスの中を歩いたとき、この男はこういう歩き方をしていた。
知った顔を避ける、無駄のない運びだ。
ナギは帽子を目深にし直す回数が増えていた。
小柄な背がいつもより縮んで見える。
明日になれば、二人とも街に紛れていく。
それぞれの帰る場所へ、別の道で。
僕とセナだけが、何も知らないままその街へ入っていく。
火のそばで僕はノートを開いた。
開いた拍子にナギが帽子の縁に指をやった。
同じ瞬間、マルセルの手が一度だけ上着の胸元に触れ、東の方角から目を逸らす。
火が、二つの横顔を半分だけ照らしている。
片方は帽子の縁に目を落とし、片方は東の闇を見つめている。
どちらも、こちらを見ていなかった。
マルセルが、火を見たまま口を開いた。
「明日の昼には街に着く。北側の門を通るぞ。南側の門は検めが長い」
一度間を置いて続ける。
「長屋を探すなら鍛冶通りの北だな。あのへんは相場が崩れてない」
聞いてもいないのに、一つ二つ漏らした。
言い終えてから雑に付け足す。
「……まあ、昔の話だがな」
マルセルは地図も見ずに街を諳んじた。
同じ札で入る街なのに、入り方を知っているのはこの人で、僕ではない。
僕の東の街の欄と、マルセルの胸元の紙。
どちらもまだ中身は読めない。
火が落ちる前にその欄をもう一度開いた。
明日、ここに最初の一行が入る。
それが母さんの薬のことになるのか、この街で会う誰かのことになるのか。
火のそばに、こちらを見ていない横顔が二つあった。




