閑話①「母の目」
あの子のことが、わからなくなる時がある。
朝食の支度をしながらリクが起きてくるのを待っていた。
ガレンはもう出ていた。「行ってくる」とだけ言って、振り返りもしなかった。
あの人もあの人なりに、昨日のことを抱えているのだろう。
言葉にしない人だから、抱えているものはたぶん私が思うより重い。
今朝は鎚を打つ音が、いつもより早くから聞こえていた。
粥をかき混ぜる。塩は控えめにする。リクは濃い味を好まない。
熱いものは少し冷ましてから口に運ぶ子だ。
せっかちなところがない。小さい頃からそうだった。
昨日のことをどう切り出せばいいのか、ずっと考えていた。
魔力適性、ゼロ。
神官がそう読み上げた時のことを何度も思い返してしまう。
広場の空気がすっと引いた。
あの子は石板を見て、それから何も言わずに列を外れた。
泣きもせず、騒ぎもせず。
私の方がよほど泣きそうだった。
口を手で押さえて、声が出ないように堪えるしかなかった。
あの子の前で泣くわけにはいかない。
足音がした。
リクが起きてきた。
朝食の手伝いをしに台所へ入ってくる。
私はその顔を見た。
変わらない顔だった。
泣いた跡もない。瞼が腫れてもいない。荒れていない。
何かを訴えるような色も、その目にはなかった。
ただいつもの顔で「おはようございます」と言って、皿を並べ始める。
昨日あんなことがあったのに、箸を持つ手も茶碗を取る指もいつもと同じだ。一つも乱れていない。
それを見て、私は怖くなった。
10歳の子が、自分には魔力がないと——この世界で生きていく上でどれほど重い意味を持つかを告げられて、一晩明けてこんなに静かでいられるものだろうか。
リクが手を洗いに行く。
食事の前に手を洗う。これも小さな頃からの癖だ。
私が口うるさく言ったわけではない。気づいたら自分からそうしていた。
村の他の子はそんなことはしない。井戸の水でさっと済ませる家がほとんどだ。
この子のそういう一つ一つが、昔からどこか他の子と違っていた。
向かい合って食べ始める。
リクは何も話さない。私も話さない。
粥を掬う音だけが、台所に小さく落ちる。
「悔しかった?」
気がついたら聞いてしまっていた。
聞くつもりはなかったのに。
「別に」
間を置かずに返ってきた。
嘘をついている顔ではない。本当に「別に」なのかもしれない。
それが——余計に気になった。
悔しいのに悔しくない顔ができる子は2種類いる。
すごく強いか。すごく我慢しているか。
どちらなのかは私にはわからなかった。
母親なのに、自分の子のことなのにわからなかった。
たぶん、本人にもわかっていない。それがいちばん胸に応えた。
「そう」とだけ言って椀を置いた。それ以上は聞かなかった。
聞いたところで、この子から答えが出てくるものではない。
出てこないのではなく、たぶんまだ言葉になっていないのだ。
リクは残さずきれいに食べた。「ごちそうさまでした」と言って、茶碗を流しに持っていく。
「行ってきます」
それだけ言って外に出ていった。
少しして、セナの声が聞こえた。明るいいつもの声だ。
2人分の足音がだんだん遠ざかっていく。
あの子の隣にセナがいてくれることだけが今は救いだった。
流しで茶碗を洗う。
昨日からずっと胸の奥が重い。してやれることが何もない。
魔力は、私が与えてやれるものではない。代わってやることもできない。
母親にできるのは、温かい粥を出すことと、手を洗える水を用意しておくことくらいだ。
それが、こんなにも頼りなく思えた日はなかった。
——でも、あの子は生きている。
ふと、そう思った。
0歳の頃、この子は何度も熱を出した。
小さな体が夜通し息を荒くした。
もう駄目かと思った夜が何度もあった。
それでも生き延びた。
同じような子は、たいてい幼いうちに亡くなるのだと後で知った。
この子は生き延びた。手を洗い、水に気をつけ、私が掃除に気を配ったこの家で。
魔力がないことより、生きていることの方が本当はずっと大きいはずだ。
そう思おうとして、でもうまく思いきれない自分もいた。
この世界では、魔力がないというだけで行ける場所が、選べる道がずいぶん狭くなる。
それを知っているから。
茶碗をすすいで布で拭く。
ふと、思った。
この子のああいう顔。
何も訴えず静かに受け止めるあの顔を、私はどこかで見たことがある。
誰の顔だったろう。
思い出せなかった。
ずっと昔のような気がする。私が、まだこの村に来るより前の——
そこでいつも記憶が途切れる。
私には、この村に来る前のことがほとんどない。
気がついたら私はここにいた。名前も、ガレンたちがつけてくれたものだ。
それでも、あの顔には覚えがあった。懐かしいと呼ぶには遠すぎる。
でも確かに、知っている誰かの顔にリクのあの表情はよく似ていた。
私より大きくて、いつも少し困ったように笑う、優しい——そこまで浮かんで、また消えた。
胸の奥がかすかに疼いた。
泣きたいような、会いたいような、名前のつかない疼きだった。
誰に会いたいのかもわからないのに。
窓の外で風が吹いた。
葉が、揺れた。
私はしばらく、その揺れを見ていた。




